カテゴリー別アーカイブ: 皇女和宮の謎

皇女和宮が住んだ麻布のお屋敷の隣人たちとは?

 今日はとてもマニアックな記事です。

 皇女和宮(静寬院宮)について、ネット上にはたくさんの記事がありますが、そのほとんどは和宮降嫁、あるいは、篤姫との関わりの中での大奥の争いに焦点をあてたものになっています。

 管理人は、降嫁にも大奥にも興味がありません。関心があるのは、和宮の晩年。

 和宮に関する資料はたくさん残っています。それも伝承だけでなく公文書としても。

 今日は、京都から戻った和宮が住んだ麻布のお屋敷に着目し、その周辺には誰が住んでいたのかを調べることにします。

 こんなことは誰もやらない。だから、マニアックな記事なのです(笑)。

麻布邸における皇女和宮

 この項の根拠・出典は過去記事に書いています。関心のある方は過去記事をご覧下さい。
 京都から戻った和宮(静観院宮)は、明治政府が用意した麻布のお屋敷に入り、隠遁生活を送っていた・・・、という記述をよく目にしますが、要は、調べるのがめんどくさいので、そう書いているのかなぁ、という気がします。誰もまじめに調べていないようです。

 和宮の兄である孝明天皇が崩御し、夫の家茂も亡くなっています。皇女和宮の重要性は薄れ、歴史のかなたに忘れられてしまった存在でした・・・、というのが一般的な解釈です。

 それでは、なぜ、明治天皇が皇后を連れて、二度も麻布の和宮邸に行幸されたのか。

 これは、誰も指摘しないこと。

 なぜ、指摘しないのか。それは、明治天皇すり替え説が成り立たなくなるからです(笑)。

 『静寬院宮御日記』を読むと、皇后とかなり親密な関係だったことが伺えます。皇后の和宮邸ご訪問は自然の流れのように感じます。

 さて、幕末、江戸城の無血開城にあたり、和宮が城内に残る幕臣たちを指揮しました。それは、徳川宗家を守るためでした。慶喜は、結局のところ、和宮に命を救われることになり、その恩義から、生涯、和宮の命日には墓参りを欠かさなかったといいます(静岡から東京に戻った後)。

 同じことは、慶喜の後、徳川家を嗣いだ亀之助(家達)についても言えます。和宮(静寬院宮)と篤姫(天璋院)の尽力がなければ徳川家は断絶し、亀之助が徳川宗家を嗣ぐことはなかったのです。

 幕末、明治維新の頃は、世情が不安定で、朝廷は和宮の安全を3名の幕臣(維新後は旧幕臣)に托しました。大久保一翁、勝海舟、そして、山岡鉄舟の3名です。

 では、具体的に、それはどういうこと? 今日はこの謎に迫ります。

麻布の和宮邸の隣人

 和宮が京都から東京に戻ったのは、明治7年(1874年)7月 8日のこと。湯治のため箱根湯本に出立したのが明治10年(1877年)8月7日です。同年9月2日、箱根湯本・塔の澤の環翠楼で和宮は32歳の生涯を終えます。

 和宮が麻布のお屋敷に住んでいたのは、丸三年です。

 この間の和宮の警護はどうなっていたのでしょうか。

 明治政府の公文書を読むと、多くの旧幕臣が警護に就いていたようです。具体的に、どのような警護が行われていたのかは分かりません。

 そこで、当時の地図を紐解いてみましょう。

 Google Earthで1876(明治9)年10月25日出版の『明治東京全図』という古地図を重ねて表示してみます。これは、和宮が亡くなる前年に作成された地図で、麻布市兵衛町一丁目十一番に「静寬院宮」の文字を見ることができます。

 以前、麻布の旧和宮邸(跡地)を訪ねたとき、この辺りの道路配置は明治時代とほとんど同じであることを確認しました。

Map_Azabu1876.png

 

 下が拡大図です。地図の中の数字は、過去記事『和宮が晩年に住んでいた麻布のお屋敷(跡地)に行ってきました』で、写真を撮影した方向を示すもので、今回の記事では無視して下さい。

Kazunomiya_Palace_Map.jpg

 

 ここで、上の画像に着目してください。和宮邸の斜め向かいに『大久保一翁』の文字が見えます。大久保一翁はここに住んでいたのです。幕末に、朝廷と幕府の双方から和宮警護を任された大久保一翁。さすがです。だから歴史は面白い!

和宮邸のお隣は、仙石政固と楠田英世。そして、大村純熙、石川總管、高崎元忠、秋田映季、土枝頼知、鍋島直彬、伊東祐亨という名前が見えます。

 和宮邸の敷地は、八戸南部藩(八戸藩)の上屋敷があった場所で、明治政府が南部家から1万5000円で4000坪の土地と屋敷を購入しました。ところで、この土地の一部は、お隣の仙石政固の敷地を借りたものでした。このため、明治政府は、明治7年4月、仙石政固からその借地部分の土地160坪を417円で購入しています。8月7日に和宮が京都から東京に移住することになり、政府は、大急ぎでこの屋敷を修繕しました。その経費は4036円でした。

和宮邸と大久保一翁

 まず、大久保一翁という人物について観ていきましょう。彼は、謹厳剛直を絵に描いたような男でした。

 近年、再評価されている大久保一翁。この名前を聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。

 大久保は、幕臣でありながら、坂本龍馬より5年も前に大政奉還を幕府に建議していたそうで、この点が再評価の焦点になっているようです。

 面白いことに、20年くらい前に書かれた歴史書を読むと、大久保一翁についてほとんど書かれていません。

 しかし、この人物が本当にすごいのは、幕末の動乱を平和裏に収束させたこと。
 大久保一翁、勝海舟、山岡鉄舟の三人がいなければ、明治維新はどうなっていたのか解りません。このうちの誰が欠けても、江戸は火の海になっていたでしょう。そして、日本は内戦状態に突入。諸外国が干渉して国土は分裂。今の日本はなかったことは間違いありません。

 幕末の大久保一翁の活躍は他のサイトに譲ることにして、ここでは、明治になってからの一翁について書きたいと思います。

 定説では、明治になってからの一翁は明治政府から乞われて出仕したものの、これといった業績もなかったような書き方になっています。

 これは、「定説」をつくっている歴史家の人たちの視角が偏っているために生じる錯誤のようです。
 幕末にあれだけ活躍したのだから、明治になっても同じように活躍するはず、という思い込みが強いようです。薩長で占められた明治政府の下では、一翁が十分に活躍できる場がなかったのではないでしょうか。意見を出しても握りつぶされる。これではやる気も起きません。

 このような状況下にあって、一翁の関心は別の所にありました。それは、幕府倒壊により疲弊・困窮を極める江戸庶民の救済、そして、旧幕臣への支援です。

 不思議なことに、歴史書では、幕府倒壊により江戸庶民がどれだけ困窮したかについてはほとんど無視しています。100万人の人口を擁した江戸は、明治2年には50万人にまで人口が減っていました。その理由は、江戸詰の大名・家臣が皆、国元に戻ったから。それにより、経済活動が大幅に縮小し、失業者が溢れ、雇用もなく、江戸で生活することは困難になりました。

 治安が悪化し、道ばたには行き倒れの死者がゴロゴロいるという状況でした。
 しかし、これを解決する手立てを明治政府は持っていません。しょせんは田舎侍、それも下級武士の集まり。江戸のような大都市を制御・統治する行政能力を持っていなかったのです。

 そこで、明治政府は、一翁に白羽の矢を立てます。

 一翁は、出仕には関心がなかったのですが、西郷の説得で折れたようです。

 明治6年1月17日に東京府知事に就いています。そして、明治7年3月12日、和宮の東京での新居として東京府が八戸南部家から用地を購入しています。和宮が東京に戻ったのが明治7年(1874年)7月8日なので、その4ヶ月前に用地を購入していたことになります。和宮が入居するまでの4ヶ月の間に、新居の増改築が行われたものと思われます。

 ここで不思議なのは、なぜ明治政府(宮内省)ではなく東京都が購入したのかということ。
 そして、なぜ、その場所が麻布市兵衛町一丁目十一番だったのかということ。

 明治政府の公文書を読むと、土地の購入はやはり宮内省がかかわっており、なぜ、東京府が出てくるのかよく分からない。

 大久保一翁の経歴と和宮との関係を少しまとめてみました。クリックすると拡大表示できます。

東京の治安と和宮の警護

 和宮が東京に戻った当時(明治7年)の東京の治安はどのようなものだったのでしょうか。明治が始まってから7年近く経っています。治安は良かったのでしょうか。

 実は、この年、東京警視庁が誕生しています。Wikipediaには次のように書かれています。

 「明治の初め、旧幕臣の抵抗等もあり、東京の治安は乱れていました。明治新政府は、最初薩摩・長州等から、その後関東地方の諸藩から兵を出させて、府内の取締りをさせました。
 廃藩置県後の明治4年(1871)10月、邏卒(らそつ)制度が新たに導入され、旧薩摩藩士などから、3千名の邏卒が採用されました。邏卒は、一般には「ポリス」と呼ばれ、剣の代わりに、こん棒を携帯して東京の治安維持にあたりました。
 明治7年(1874)1月、東京警視庁が設置されました。長官には、邏卒制度導入以来「ポリス」の拡充に力を注いできた川路利良(かわじとしよし)が就任。また、邏卒は巡査と改称されました。
 なお、東京警視庁の長官は、当初「警視長」と呼ばれましたが、「警視庁」と同音であるのが「事務上不都合」であるとして、同年10月に「大警視」を長官としました。」(国立公文書館 [1]) 

 明治2年頃に比べると治安は良くなっていますが、江戸時代に比べると良くない。
 京都から戻った和宮の新しい住居は、山の手の警護のしやすい場所が選ばれたものと思います。

 

出典:
1. 国立公文書館、「変貌 -江戸から帝都そして首都へ-
2. 『貧困の帝都』、塩見鮮一郎、文藝春秋、2008

 この書籍は、明治維新当時の江戸の貧困層の状況を知る上でとても参考になりました。しかし、誰かが書いているように方向性がぶれて、感情的な部分が見られるは残念です。特に、特定の人物、井上馨や大久保一翁らに対して現在の基準を当てはめて非難しているのにはいささか参りました。
3. 『最後のサムライ 山岡鐵舟』、圓山牧田・平井正修編、2007

土御門藤子のお墓が危ういらしい

 2017年02月11日付けの京都新聞に「安倍晴明の子孫の墓ピンチ 京都、連絡取れず寺が供養」というタイトルの記事が掲載されました。

 新聞の中身は、リンク先で読んで頂くとして、この記事では別の視点から書いていきたいと思います。

 管理人が土御門家(つちみかどけ)と聴いて思い出すのは、和宮付き女官の『土御門藤子』のこと。彼女は、江戸城無血開城の陰の立て役者です。確か、彼女は、京都へ戻る和宮に同行して京にゆき、そのまま実家に戻ったはず。

 その時、藤子の実家には誰がいたのでしょうか。

 
 誰も書かない、やたらと詳しい記事を書きたいと思います。
 藤子の姉の『土御門 繁』についても少し書くことにします。

 和宮が帰京したこの時の旅では、1869年2月28日(明治2年1月18日)、午前6時に清水邸を出て東海道を京に向かいました。和宮一行が京に着いたのは、3月15日(明治2年2月3日)のこと。和宮は京都に到着後、聖護院に入ります。土御門藤子は京都市下京区梅小路にある実家に戻ります。

 そもそも、その時の実家の当主は誰だったのか。現在、土御門家の子孫の方はどうなっているのか。
 可能な限り調べてみたいと思います。

土御門家の系図を調べる

 陰陽師安倍晴明を先祖に持つ土御門家。かなり長く続いた家柄の筈ですが、子孫が見つからず、お墓の修復もできない。でも、そんなはずがないと考えるのが普通ではないでしょうか。新聞記事は信用しない方が良いように思います。10分で書いた新聞記事など、1500年の歴史を持つ土御門家の歴史の前では、芥子粒以下の表記しかできていない。

 まず、土御門家の系図を調べます。初代から現在までの系図です。

氏  名 生没年 内      容
阿倍倉梯麻呂(安倍氏嫡流初代当主)  ?~649 氏長者,左大臣。阿倍倉梯麻呂
阿倍御主人(安倍氏嫡流2代当主) 635-703 氏長者,右大臣,大納言,中納言
阿倍広庭(安倍氏嫡流3代当主) 659(斉明5)~732(天平4) 中納言,参議,宮内卿
阿倍嶋麻呂(安倍氏嫡流4代当主) ?-761 参議
阿倍吉人(安倍氏嫡流5代当主) 治部卿,宮内卿
阿倍粳蟲(安倍氏嫡流6代当主) 不明
阿倍大家(安倍氏嫡流7代当主)
阿倍道守(安倍氏嫡流8代当主)
安倍兄雄(安倍氏嫡流9代当主) -808 右兵衛督,右京大夫,大膳大夫,准参議
安倍春材(安倍氏嫡流10代当主)
安倍益材(安倍氏嫡流11代当主) 大膳大夫
安倍晴明(安倍氏嫡流12代当主) 延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 ? 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日) 大膳大夫
安倍吉平(安倍氏嫡流13代当主) 954 ? 1026
安倍時親(安倍氏嫡流14代当主)
安倍有行(安倍氏嫡流15代当主)
安倍泰長(安倍氏嫡流16代当主) 治暦4年(1068年) ? 保安2年(1121年) 父:安倍有行
安倍泰親(安倍氏嫡流17代当主) 1110 ? 1183
安倍泰茂(安倍氏嫡流18代当主)
安倍泰忠(安倍氏嫡流19代当主)
安倍泰盛(安倍氏嫡流20代当主)
安倍有弘(安倍氏嫡流21代当主)
安倍長親(安倍氏嫡流22代当主)
安倍泰世(安倍氏嫡流23代当主) 非参議,大膳大夫
安倍泰吉(安倍氏嫡流24代当主)
土御門有世(安倍氏嫡流25代当主) 1327-1405 父:天文博士 安倍泰吉(権天文博士、陰陽頭、左京大夫)、非参議,刑部卿,左京大夫
 ?土御門有重 不明 父:陰陽頭 土御門有世
土御門有盛(安倍氏嫡流26代当主) ?-1433 父:陰陽頭 土御門有世。非参議,刑部卿
土御門有季(安倍氏嫡流27代当主) 生没年:?-1465 父:天文博士 土御門有盛
土御門有宣(安倍氏嫡流28代当主) 1433-1514 父:土御門有季。応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園に下向。
土御門有春(安倍氏嫡流29代当主) 1501-1569 義父:陰陽頭 土御門有宣。応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園で一生を過ごす。
土御門有脩(安倍氏嫡流30代当主) 大永7年(1527年) ? 天正5年1月2日(1577年1月20日) 父:陰陽頭 土御門有春。秀次の切腹事件に際して連座して流罪
土御門久脩(安倍氏嫡流31代当主) 永禄3年(1560年) ? 寛永2年1月18日(1625年2月24日) 父:陰陽頭 土御門有脩。若狭から戦乱の収束した都に一時戻ったが、秀次の切腹事件に際して連座して流罪
土御門泰重(安倍氏嫡流32代当主) 1586-1661 父:陰陽頭 土御門久脩、子:土御門泰広(1611-1652)、隆俊(1626-1687)、(養子)泰福(1655-1717)
土御門泰広(安倍氏嫡流33代当主) 1611-1652 父:左兵衛督 土御門泰重
土御門隆俊(安倍氏嫡流34代当主) 1626-1687 父:左兵衛督 土御門泰重
土御門泰福(安倍氏嫡流35代当主) 1655-1717 父:宮内大輔 土御門隆俊?、義父:中務大輔 土御門泰広。泰福は土御門神道の祖とされる。
土御門泰誠(安倍氏嫡流36代当主) 1677-1691 父:陰陽頭 土御門泰福
土御門泰連(安倍氏嫡流37代当主) 1685-1752 父:陰陽頭 土御門泰福、義父:弾正少弼 土御門泰誠
土御門泰邦(安倍氏嫡流38代当主) 1711-1784 土御門泰福の末子。兄泰連の養子。揮天儀台を自宅に設置。「宝暦暦」を制定する事に成功し、改暦の権限を再び土御門家に取り戻す事に成功。
土御門泰兄(安倍氏嫡流39代当主) 1728-1754 父:治部卿 土御門泰連、義父:治部卿 土御門泰邦
土御門有邦(26代、安倍氏嫡流40代当主) 1753-1759 父:陰陽頭 土御門泰兄
土御門泰信(27代、安倍氏嫡流41代当主) 1752-? 父:刑部卿 萩原兼武、義父:土御門有邦
土御門泰栄(28代、安倍氏嫡流42代当主) 1758-1806 父:弾正大弼 倉橋有儀、義父:大膳大夫 土御門泰信
土御門泰胤(29代、安倍氏嫡流43代当主) 1782-? 父:治部卿 土御門泰栄
土御門晴親(30代、安倍氏嫡流44代当主) 1788年1月15日(天明7年12月8日) ? 1842年8月4日(天保13年6月28日) 父:治部卿 土御門泰栄。子に晴雄、繁(1831-1891,櫛笥隆韶室)、藤子
土御門晴雄(31代、安倍氏嫡流45代当主) 1827年6月28日(文政10年6月5日) ? 1869年11月9日(明治2年10月6日) 父:陰陽頭 土御門晴親。土御門藤子の兄。安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加。子は土御門晴栄(養子?)。土御門家陰陽道の最後の当主となる。
 ○ 土御門 繁 1831-1891 右近衛権中将 櫛笥隆韶室。養子の櫛笥隆義の妻が八戸藩九代藩主 南部信順の娘南部董子。董子の弟が南部栄信。栄信の妻が南部麻子。⇒ 麻布の屋敷を和宮に売却
 ○ 土御門藤子 1842年(天保13年)? ? 1875年(明治8年)7月13日 晴親の四女 大奥女中 和宮親子内親王に仕える。明治2年(1869年 3月15日京都着)和宮が京都へ戻ると、それに従い実家へ戻った。
土御門晴栄(32代、安倍氏嫡流46代当主) 1859年6月30日(安政6年6月1日) ? 1915年(大正4年)10月16日 公家錦織久隆の子。晴雄の娘益子と結婚し婿養子になる。益子早世し(離婚?)子供なし。後妻 冷泉為柔子爵の娘 秀子(1867-1932)
土御門晴行(33代、安倍氏嫡流47代当主) 1883年-1924年7月 亀山藩主松平信正の二男。晴栄の後妻秀子の子 幸子と結婚し婿養子となり当主となる。子供なく、晴善を養子にする。幸子と離婚。冷泉為柔の娘冷泉秀子と結婚。幸子は堀川重治と再婚。
土御門晴善(34代、安倍氏嫡流48代当主) 1884年8月4日 ? 1934年4月17日 華族の三室戸和光の三男。土御門晴行の養子となる。昭和7年7月10日~昭和9年4月17日 第7回 子爵議員選挙 昭和7年7月10日施行。
土御門凞光(35代、安倍氏嫡流49代当主) 1917年(大正6年)12月1日 ? 1944年(昭和19年)5月12日 晴善の長男。家督を継ぐも早世(満6歳)
土御門範忠(36代、安倍氏嫡流50代当主) 1920年(大正9年) ? 1994(平成6年) 晴善の二男、兄凞光の死にあたりその養子となり家督を継ぐ。義父:子爵 高倉篤麿。子:善子(1959-)

 

 系図の最後に出てくる土御門善子さんは、現在、兵庫県尼崎市にお住まいのようです。
 土御門家の系譜を纏めてみたものの、これだとよく分からない。やはり、家系図が必要ですね。下で出てきます。

土御門藤子とは

 本サイトの和宮シリーズを書いているとき、特に気になったのが土御門藤子です。和宮関係図書で、先ず触れられることがないのが土御門藤子の自出です。安倍晴明の直系の子孫なのですね。素敵な苗字だとは思っていたのですが。

 この「土御門」という苗字は、当時住んでいた京の通りの名前に由来するのですが、では、その通りの名前の由来は? だれも答えることができない(笑)。

 Wikipediaの記述を見てみましょう。この項は、あまりよい出来ではないのですが。
 土御門藤子: 江戸時代後期-近代の公家・土御門藤子(つちみかど ふじこ、1842?- 1875)。ふぢ、邦子、澄姫。土御門晴親の四女として京都に生まれた。第120代・仁孝天皇の典侍・橋本経子(後の観行院)付の女官として京都御所に上がる。1846年、経子が和宮を出産し、和宮の乳母となる。1860年、和宮降嫁により江戸に移る。江戸城大奥で上臈御年寄(じょうろうおとしより)となり、桃の井と称した。和宮側近として、観行院、庭田嗣子らと和宮を擁護し、大奥老女と対立した。1868年、新政府軍の江戸進軍決定に際し、徳川家存続に奔走する。和宮の使者として、橋本実麗・実梁父子に和宮の直書・慶喜の嘆願書を持参する。桑名・光徳寺で実梁に会う。京都御所で徳川家存続の内旨を得た。再び、和宮の命により実梁と進軍猶予を求めて交渉した。1869年、和宮とともに京都へ戻る。
 墓は梅林寺にあり、「邦子」と刻まれている。
  出典: Wikipedia、「土御門藤子」 

 土御門藤子は和宮より4歳年上です。和宮が生まれたとき、4歳だった藤子は、当然、お乳が出ません。「乳母」という記述を分かりやすく書くのが辞書作成者に求められる最も基本的なこと。その他の記述を読んでも、この項の執筆者は・・・ダメですね。

 幕末、和宮の使者として、大奥最高位の上臈であった土御門藤子が二度も派遣されています。Wikipediaにはあまりにもあっさりと書かれていますが、これは命がけの使者でした。警護の侍はいたものの、双方の陣営から、いつ襲撃されるか分からないとても危険な任務でした。さらに、草津宿から先は官軍により関東の男の入京が禁じられていたため、女たちだけの旅になります。お供の女官はわずかに3人だけでした。この草津宿とは東海道五十三次の52番目の宿場で、現在の滋賀県草津市街にありました。群馬県吾妻郡草津町の草津温泉ではありません。

 もし、土御門藤子が和宮の直訴状に対する朝廷の回答を持ち帰ることに失敗していたとしたら、江戸は火の海になっていました。土御門藤子が粘りに粘ってやっと手に入れた朝廷の回答が『徳川家存続の内旨』でした。

 この『徳川家存続の内旨』を受け取った和宮は、確信を持って、天璋院篤姫と共にその後の幕府の採るべき方向を決めることになりました。もし、土御門藤子が、「和宮様の直訴状を朝廷に出しましたけれど、やはりだめでした。まったく取り合ってくれないのです。時勢柄、しかたないです・・」などと弱腰だったら、江戸城総攻撃は間違いなく行われていたでしょう。勝海舟が江戸城無血開城に大きな役割を果たしたのは事実ですが、当時の幕府は決して一枚岩ではない。下っ端の勝海舟の言うことなど幕閣の誰も聴きません。将軍の徳川慶喜はすでに上野寛永寺で勝手に謹慎しているし、おもな幕閣も国元に帰っていました。江戸城は完全にトップ不在の難破船のような状況でした。

 もっとも、慶応元年5月16日(1865年6月9日)、第二次長州征伐総攬のため徳川家茂が江戸を出発して以降、江戸城には将軍は不在でした。(天璋院と和宮が怖いので)慶喜は江戸城に寄りつかず、大阪から逃げ帰り、天璋院に面会するため登城したのが、将軍になってから初めての登城だったそうです。将軍なので登城というのも変ですが、適当な言葉が見つかりません。

 慶応4年1月21日(1868年2月14日)、和宮(静寛院宮)は徳川のための嘆願書を上臈土御門藤子に持参させます。藤子の一行は、真冬の二月に箱根を越えて江戸と京都の間を往復しています。慶応4年2月1日(1868年2月23日)、土御門藤子が桑名光徳寺の橋本実梁(東海道鎮撫総督)に書状を渡します。そして、2月6日(1868年2月28日)、和宮の歎願書を携えた土御門藤子が入京して徳川処分寛大を歎願します。粘りに粘って、やっと『徳川家存続の内旨』を手に入れた藤子は、2月18日(1868年3月11日)、京を立ち、2月30日(1868年3月23日)に江戸へ戻り、和宮に復命しました。往路が14日間、復路が12日、京都滞在が12日間でした。それは、辛く、危険に満ちた旅でした。

 さらに、同年3月10日(1868年4月2日)、和宮は土御門藤子を橋本実梁に再度派遣し、江戸進撃猶予を歎願しました。

土御門藤子-箱根越え「土御門藤子一行、冬の箱根越え」 Ⓒ なんでも保管庫

 土御門藤子が京の実家で亡くなったのは、明治8年(1875年)7月13日のこと。和宮が箱根で亡くなる2年前です。小説『女たちの江戸開城』(植松三千里、双葉社、2006)では、「和宮の最後を看取った側近の中に、土御門藤子と仙田九八郎がいた」と書かれていますが、そんなはずはありません。

 土御門藤子の亡骸は京都梅小路梅林寺に葬られ、墓名は「安倍朝臣邦子」となっています。
 この梅林寺が、冒頭の京都新聞で出てきたお寺です。

梅林寺  Photo Source: Google Street View

 梅林寺は土御門家の菩提寺で、歴代のお墓があるというのでどれだけ大きなお寺なのだろうとGoogle Earthで覗いてみたら、墓地の敷地は20m x 9m 程度しかない。意外と小さなお寺です。

 当時、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄であり、土御門家がこれにあたっていましたが、幕府天文方の天才、渋川春海の前に暦の正確さで負けてしまい、以降、苦汁をなめることになります。

 土御門藤子が実家に戻ったとき、そこには、安倍氏嫡流45代当主で、藤子の兄の土御門晴雄がいました。しかし、晴雄は、藤子が実家に戻ったその年、1869年11月9日(明治2年10月6日)に亡くなります。もし、晴雄がもう少し長生きをしていれば、日本の新暦導入の時期はもっと遅くなったのではないかと思います。

 上の家系図を見ると、この後、土御門家の後継者はよそから来ています。そのような家の相続の混乱の中で、土御門藤子はさぞ、肩身の狭い思いをしていた・・・筈はありません。彼女の実績に鑑み、土御門家の後継者選定を一手に引き受けていたのではないでしょうか。

和宮の麻布屋敷のミステリー

 1874年7月8日(明治7年)、京都から東京に戻った和宮は、明治政府が用意した麻布のお屋敷に入ります。

 このお屋敷は南部八戸藩から購入したものなのですが、本記事で何度も書いている不思議な縁のお屋敷です。

 土御門藤子は土御門晴親の四女ですが、「繁」という姉がいます(上の系図参照)。繁は、右近衛権中将 櫛笥隆韶に嫁ぎました。子供ができなかったのか櫛笥隆義を養子とします。その妻が八戸藩九代藩主 南部信順の娘南部董子。董子の弟が南部栄信。栄信の妻が南部麻子。南部栄信・麻子夫妻が明治政府に売却した旧八戸南部藩下屋敷が、和宮邸です。

 ついでに、南部麻子の姉が南部郁子。その夫が華頂宮博経親王です。博経は、1860年10月11日、和宮の兄孝明天皇の猶子となり、同日、徳川家茂の猶子となりました。

 この和宮と南部家、そして土御門家との見えない糸については、これまで誰も指摘した人はいないと思います。
 管理人が書いた和宮シリーズに必ず登場する南部家の影。とても不思議です。

お墓を保存する意味とは

 青山墓地や雑司が谷霊園など多くの墓地を徘徊している管理人にとって、冒頭の京都新聞の記事はショッキングでした。
 徳川宗家のような資産を持っている家は別ですが、多くの旧公家華族はいつの時代でも経済的には恵まれていなかったように思います。数百年、千年以上続いている家系の墓地は、個人の家で守っていくにはあまりにも重すぎるように思います。歴史的価値があるのなら、公的資金、あるいは有志による資金で墓地を保全していくことが重要かと思います。

 『墓前で手を合わせる』
 御利益を期待するわけでもなく、真摯に故人の冥福を祈る。そんな場が墓地ではないでしょうか。神社だと、どうしても御利益を期待する心の方が先に出てしまう。

 梅林寺の土御門家墓地の問題は、なんとかしなければいけないと思います。新聞記事をきっかけとして、墓地保全の動きが出れば良いのですが。

 でも、梅林寺側ももっと努力すべきかも。ネット上にほとんど情報がないし。墓地が一般に公開されているのかどうかもよく分からない。たぶん非公開です。

 例えば、ポケモンGoで「土御門藤子」⇒「土御門泰福」⇒「安倍晴明」と進化するモンスターをここでしかゲットできないとすれば、お寺への来訪者は天文学的数字になるでしょうね。天文道(天文密奏)の土御門家が望む姿かも。

 この記事を読んでも、何のことかさっぱり分からない・・という方のために、和宮関連家系のフロー図を作成しました。クリックすると拡大表示できます。

 この関係図を作っていて気づいたのですが、和宮、家茂、土御門藤子は、誕生した年に父親が亡くなっています。この意味で、この三人は同じ境遇だったといえます。

 このフロー図を作るのは結構時間がかかります。
 次に、土御門家の家系図です。藤子の父親の代以降、すなわち、44代から50代で作りました。

 土御門家家系図(44代~50代)

 土御門家の家系を紐解くと、46代の晴栄(実父:錦織久隆、妻:冷泉秀子)の時点で、土御門家の血筋は絶えています。実際には、それ以前に絶えているのでしょうが。家としては養子縁組により存続していますが、血のつながりはありません。

 歴史好きの人は、すぐに「一次史料を挙げるべき」と主張します。都合の良い1次資料などないのが歴史なのに。1次資料から積み上げていく歴史のアプローチは、はっきり言って逆さまのように思います。

 最後に、京に戻った後の土御門藤子について。

 和宮が京都に戻ったときに書いた「静寬院宮御日記」を読むと、藤子が少しだけ登場します。実家に戻ったという説は本当なのでしょうか。何となく、和宮の傍にずっといたような気がします。婚期は逸しているし、他にやりたいことがあったとも思えない。

 梅林寺にある藤子の墓石には次のように書かれているそうです。
 あなたならこれをどう読み、どう解釈しますか。立派な1次資料です(笑)。

  • 「安倍朝臣邦子 墓」
  • 「明治八乙亥年(1875)六月十有四日薨」
  • 「従萬延元庚申(1860)至明治七甲戌年(1874)和宮上臈勤位」

[4]

【出典】
1. 「世界帝王事典
2. 「直球感想文 和館
3. 「土御門家 阿倍氏嫡流」、Majesty’s Room
4. 「江戸末期の土御門家と陰陽書出版について : ふたつの皇和司天家鑒本『陰陽方位便覽』の考察を中心として」、水野杏紀、人間社会学研究集録. 2008, 4, p.77-118
   藤子の母親の名前『高津』は、『皆川家文書』に書かれているもので、ネット上にはありません。論文のp.79を参照。

「静寛院宮御日記」のダウンロードと幻の『和宮フォント』

 皇女和宮の『静寛院宮御日記』というものがあります。明治元年から明治6年まで和宮が付けていた日記です。

 『静寛院宮御日記』のオリジナルは、和宮直筆で書かれたもので、管理人にはとても読めませんが、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている「『静寛院宮御日記 上』、正親町公和偏、皇朝秘笈刊行会、1927」は、正親町公和(おおぎまち きんかず、1881年 – 1960年)氏らによって取りまとめられた書籍で、活字体になっているので、何とか読むことができます(実際には、なかなか難しいのですが)。

 「国立国会図書館デジタルコレクション」では、このような古い書籍の閲覧が可能で重宝するのですが、本の見開きをマイクロフィルム化したものをそのまま公開しているため、実際に読もうと思うとなかなか根気が入ります。表示の縮尺がうまく調整できないので、ノートパソコンで見ているとイライラします。

 とにかく読みにくい。上巻だけでも600ページ以上ある『静寛院宮御日記』をすべて閲覧した人っているのでしょうか。ノートパソコンでは、現実的に不可能ではないでしょうか。とても疲れます。

 JPEG表示にして、それをダウンロードすることも可能ですが、それからどうしたら良いか悩んでしまいます。
 使い勝手が良いのは、各見開きページをPDF化し、それらを一つのPDFファイルに結合する。これだととても扱いやすく、読むのもかなり楽になります。さらに、OCRテキスト認識で、テキストとして抽出することも可能になります。ただし、昔の字体・仮名なので、テキスト認識ができない箇所もあるでしょうが。

ダウンロードとファイルの結合

 今回は、次の方法を採ってみました。
1.JPG形式のファイルとしてダウンロード。①「次に」を押して、②スライド番号を確認、③「JPEG表示」をクリック。JPEG出力倍率を100%にします。保存するファイル名は②のスライド番号にすると、後でとても便利です。ファイルの数は330個になります。根気が必要です。


 連続でダウンロードするとエラーがでます。エラーが出た場合には、30秒以上間隔を空ける必要があります。



2.ファイルのトリミング。ファイルの上下にある不要な部分をトリミングして取り除きます。全ファイル一括で処理します。ファイルサイズを小さくするために不可欠な処理です。

3.JPGファイルをPDFに変換します。

4.PDFファイルの結合。本当は一つのファイルにしたかったのですが、ファイルサイズがとても大きくなるのであきらめ、分割しました。読む分にはそれほど不便ではありません。
 実際にやってみると、丸一日以上かかります。大変な作業です。
 文字がぼけたりかすれたりしていると読んでいて疲れるので、高画質で出力。このため、とても大きなファイルになってしまいました。仕方ありません。

 上の2.の作業はIrfanViewで行います。トリミングの設定値は以下の通り。


 IrfanViewでは、トリミングと同時にPDF変換もできるのですが、一部のファイルにエラーが出て、正常終了しません。このため、①トリミングしてGIF形式で保存、②それをPDFに変換、という二段階の作業をしました。
 編者の正親町氏が、昭和2年9月2日付けの巻頭「感謝の辞」で、静寬院宮の功績が忘れられていると嘆いています。この時点でさえ世間から忘れられていた和宮。

 このように見ると、昭和33年の和宮墓の発掘調査は、和宮が現代に蘇るきっかけになったと言えそうです。発掘された和宮の遺骸から左手の骨が見つからなかったということで様々な憶測を呼ぶことになりますが、それはそれで、和宮の魅力の一つになっているようです。

 ちなみに、和宮暗殺説を唱える人は、この日記のことは完全に無視しています。京都で何をしていたのか記録がないとか(笑)。この日記がねつ造されたものだとはとても言えないので、なかったことにしているのでしょうね。和宮暗殺説の筋書きが崩壊するので。

 完成したPDFファイルは、全部で35もあります。一つのファイルが65MBもあるので、これ以上結合するのをあきらめました。やはり、PDFファイルは読みやすい。サクサクと読めます。これから熟読して、和宮についての知見を深めたいと思います。

 『静寛院宮御日記』は上巻、下巻の二冊からなり、その目次は以下のようになっています。

驚きのツール『和宮フォント』

 管理人が読みたかったのは、『静寛院宮御詠草』。和宮直筆のものは「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能ですが、何と書かれているのか全く分からない。直筆を読むのは管理人には無理です。しかし、書籍『静寛院宮御日記』の上巻には『静寛院宮御詠草』の一部が収録されているのでとても助かります。
 なぜ、助かるのか。

 
 ある素敵な文章、文言を見つけた時、もし和宮だったら、どんな美しい文字でこれを書いたのだろう? そんな想像に駆られます。和宮ファンだったら、この文章を和宮が書けばどうなるのだろう、と想像してしまいます(管理人だけかも)。

 それを実現できるのが『和宮フォント』。和宮の直筆で構成された幻のフォントです。残念ながら公開することはできないのですが、個人的な楽しみとして『和宮フォント』を鋭意作成中です。

 『和宮フォント』って、素敵な響きがしますよね。雅やかで、凜とした張りがあり、いにしえと、幕末、明治をも感じさせる。貴重なフォントです。これを欲しくないですか? 欲しい方は、がんばって自分で作りましょう!