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海賊の財宝伝説に迫る(6):財宝の現在位置を割り出す

 財宝伝説には多くのトラップが仕組まれています。そもそも、財宝の隠し場所など人に教えるようなものではありません。だから、伝説の場所に財宝がなかったからといって、伝説がウソだと言えないと思います。

管理人が気になったこととは!?

 ココ島の財宝伝説を読んでいて気になったことは、「なぜ、見つからないのか」ということでした。7km四方の小さな島なのに、300チームのトレジャーハンターが挑んでも海賊の財宝を見つけることができない。

Isla del Coco

 ココ島に隠された海賊の財宝に魅了されたトレジャーハンターの一人にアウグスト・ギスラー(August Gissler)がいます。彼は、20年もの間、奥さんとともにココ島に住み続け、財宝探しをしましたが、結局見つけることができずに島を去りました。

 「彼らは、大きな見落としをしていた!」 そんな気がします。「ココ島に本当に財宝が埋められているとすれば!」

地震と津波

 中南米は日本と同様に地震がとても多い地域です。環太平洋火山帯に位置する国々では、日本人が想像する以上に多くの巨大地震が発生しています。

 1823年まで約250年にわたりコスタリカの首都だったカルタゴは、1841年と1910年の二度の大地震で街が崩壊してしまいました。管理人がコスタリカに住んでいたときも大きな地震があり、インフラが甚大な被害を受けました。

 16世紀以降、スペインの植民都市はたびたび地震に襲われ、壊滅的な被害を被った都市もたくさんあります。カリブ海の海賊たちの拠点であったポート・ロイヤルが、1692年6月7日に発生した地震で壊滅し、その直後に発生した津波により町はカリブ海に沈みました。  

 中米地域において、1539年から1996年までの457年間に49回の津波の発生が確認されています。9.3年に一度津波が起きている計算になります。このうち、37回が太平洋側で、12回がカリブ海側で発生しています。一方、19世紀中期以降、津波の発生頻度は劇的に増加しています。1850年から1996年までの146年間をみると、津波は43回発生しています。これは3.4年に1回の頻度になります。このように1850年以降に津波が多い理由は、沿岸近くに人々が住み始めたことから、津波を認識する機会が増えたというのが実際のところかも知れません。

 津波を発生させた地震源は、太平洋側では、ココ島-カリブ沈降帯(CO-CA)によって引き起こされています。カリブ海側では、北アメリカ-カリブプレート境界(NA-CA)で5回発生しており、また、北パナマ変成帯(NPDB)で7回発生しています。

 津波の経験的発生評価によれば、表面波マグニチュード(Ms)7.0以上の大きな地震が発生したとき、中央アメリカの太平洋沿岸地域で43%、カリブ海側で100%、津波を発生させることを示します。
 (Source: “Tsunamis and Tsunami Hazards in Central America”, Natural Hazards, Volume 22, Mario Fernandez, Enrique Molina, Jens Havskov, Kuvvet Atakan, 2000)

 1854年、コスタリカの太平洋側沿岸の都市は津波により大きな被害を受けたとの記録が残されています。
(Source: Universida de Costa Rica,RSN)

 ハワード船長が処刑されたのが1819年から1820年頃と考えられます。メアリー・ウエルチが流刑監獄から釈放されたのはそれから20年後のこと。1839年から1840年頃と考えられます。その後彼女は結婚し、相当な老婆になってから宝探しを始めます。英国海軍に逮捕された時の彼女の年齢が、仮に20歳だったとすると、釈放されたのが40歳の時で、直ぐに結婚。年齢的にはその可能性が高いと思います。

 宝探しを始めたのが60歳と仮定すると、1860年頃ということになります。それは、ココ島を襲った1854年の大津波の後ということです。

  Foto: Nekoshi

 コスタリカの太平洋岸を襲った大津波は、当然ココ島にも押し寄せたでしょう。そして、地形を変えるくらいの変化をもたらしたのではないでしょうか。

 津波は、海底が浅くなるにつれて波が大きくなります。そして、津波が高く押し寄せる場所は、浜辺ということになります。海賊が財宝を隠したとされるココ島の数少ない浜辺であるウエハー湾の砂浜にも津波が押し寄せたのではないでしょうか。そして、そこで6ヶ月もの間キャンプ生活を送ったメアリー・ウエルチでさえ元の姿が分からなくなるほど地形が変わってしまった。もちろん、目印の大木など跡形もなく流されてしまった。

 大津波といっても波の高さは10m以下だったと考えられますが、ウエハー湾に浜辺ができるということは、その周辺は比較的遠浅な海底が続いているのだと思われます。そこでは、津波は高さを増し、内陸深くまで押し寄せます。

 伝説では、捕鯨船のクルーが薪の採取で財宝の隠し場所の目印だった大木までも切ったとされていますが、これはおかしい。木がたくさん生えているココ島で、海賊が目印に使うような杉の大木を切り倒す必要はありません。さらに、船で使う薪材としては針葉樹の杉は使わない。火持ちが悪いからです。

 数十年前まで、日本の遠洋漁業船は、燃料として薪炭を積み込んでいました。炭づくりに使う樹木の種類により薪炭にも色々な種類があるのですが、遠洋漁業船に積み込む薪炭は、広葉樹のナラから作られた最高級のものでした。それに海水をかけて燃えにくくして大切に使ったそうです。

 「津波」に不慣れな欧米人たちの記録では、目印が根こそぎ無くなっていることを論理的に説明できなかったために、捕鯨船の仕業ということにしたと思われます。これが、管理人が考えた新たな視角です。

    Foto: 財宝を発見! 写っているダイバーはうちの息子たちです。撮影場所:グアム

目印が消えた原因が津波だとすると財宝は今どこに?

 欧米のトレジャーハンターたちは大きな過ちを犯しました。「津波」により地形が変化するということを知らなかったのです。

 ココ島で20年もの間、海賊が隠した財宝を探し求めたアウグスト・ギスラー(August Gissler)はドイツ人でした。彼には、「津波」という発想が全くなかったのだと思います。

 では、「津波」という要素を入れると財宝探しはどう変わるのか? 

 トレジャーハンターたちは、財宝を探すとき、① 海賊たちはいつでも掘り出せるように、海岸から近い場所に埋めた、② そして、埋めた深さは、掘り出すことを考えて浅いはず、③ もし、洞窟に隠したとすれば、その入り口は海に面しているはず、・・・・、などと仮説を立てたのではないでしょうか。

 しかし、「津波」が起こったとすると、彼らの立てた前提はすべて覆ることになります。

 ① 津波により財宝は内陸部まで砂と一緒に運ばれ、地下数メートルの場所に埋もれた、② 海岸の洞窟は津波により崩れてしまった、③ 津波の引き波により、財宝は海底に引きずり込まれた、・・・・、という全く新しい仮説を立てることができます。すると、これまでの探査方法が一変することになります。

 従来は、金属探知機を使った探査が主流でした。しかし、この方法は”最新のテクノロジーを導入した探査”だったにもかかわらず、成果を上げることができませんでした。それもそのはず、彼らは、「海賊が埋めた財宝」を必死に探していました。しかし、「津波が埋めた財宝」という発想が全くなかった。だから、いくら探しても見つからない。

 いつの日か、・・・・、ココ島に、・・・・管理人が、・・・・財宝を探しに・・・、行く日が来る・・・
 ということはありません。管理人は船に弱いのでココ島までは行けません。机上で推論しているだけならタダですが、実際に行くとなると膨大な費用がかかります。さらに、下手に財宝が見つかってしまうと、欲に目が眩んだ同行者から殺されてしまうかも知れません。

 やはり、宝探しは、机上でやるもの。手を出したら人生を棒に振ってしまいます。

 「海賊の財宝伝説に迫る」シリーズはこれでひとまず終了します。約5ヶ月かけて書いた記事です。

 なぜ、財宝が見つからないのか、それが管理人にとっての疑問でした。自分なりに推論を提示できたので、満足しています。「宝島」の財宝の歌は、スチーブンソンの創作ではなく、当時伝わっていた話をそのまま書いたものだと思います。 “Fifteen men on the dead man’s chest Yo-ho-ho, and a bottle of rum! Drink and the devil had done for the rest Yo-ho-ho, and a bottle of rum!”

 海賊船には100人以上のクルーが乗っているのに、財宝を隠したのがなぜ15人なのか。この小説は、ココ島の伝説を色濃く反映して書かれていることが分かりました。
 

ココ島の財宝、ついに発見される!? (2015年3月10日報道)

 2015年3月10日付け「ワールド・ニュース・デイリー・レポート」が「ココ島で2億ドルの伝説の財宝出土」という見出しで、ココ島で財宝がついに発見されたと報じました。ほんの5ヶ月前のことです。

  『Fabulous 200 Million Dollar Treasure Hoard Unearthed in Cocos Island』

 この記事の内容は以下のようなものです。

 2105年3月10日、サン・ホセ発
 ココ島に駐留するコスタリカ国立公園レンジャーのグループが、最近発生した嵐の後で、現在、歴史上、最も価値のある驚くべき財宝を発見した。発見された宝物は、金貨や銀貨、金銀の延べ棒、宝石、燭台、宗教的な用具で構成されており、その価値はおおよそ200,000,000ドル(約249億円)と推定されている。
 ココ島は太平洋に位置する小さな島で国立公園に指定されており、コスタリカの太平洋岸から約550キロ(342マイル)に位置している。 この島には様々な宝物が隠されているという伝説はよく知られていたが、この島は「保護区」として1978年以来、そこでの宝探しが禁じている。
 6名のパークレンジャーたちが、渡り鳥など海鳥の営巣コロニーの嵐によるダメージの状況を評価するために、島の周りに調べていたとき、彼らは、波打ち際で埋もれた古い木箱、もしくは木製の衣装箱らしきものを見つけた。それを掘り出してみると、衣装箱は5つあり、他にも様々な物品が出土した。それらはかなり昔に埋められたものであることが分かった。
 「私たちは浜辺を歩いていました。すると、砂から何かが突き出ているのが目にとまりました。」パークレンジャーのイグナシオ・ラミレス氏(Ignacio Ramirez)は言う。
 「私たちはそれを掘り出しました。すると、いくつもの古い木製の衣装箱が出てきました。これらの箱は、すべて金と銀を満たされていました! その後、私たちは、二体の黄金の聖母マリア像、さらに、その他の宗教的な用具を掘り出しました。私たちは、自分たちの上官たちを呼び、『財宝を見つけた』と報告しました。 彼らは、私たちが冗談を言っていると思っていましたが、私たちが見つけたものを説明すると、専門家チームを派遣することを決めました。」
 宝物の中身は、天文学的数である89,000枚のコイン、金銀のインゴットと金銀細工の工芸品が含まれています。多くの宗教的用具は金や銀で作られており、貴重な宝石で飾られています。それらには、36の十字架、3つの聖杯、そして、幼子イエスを抱いた等身大の金無垢のマリア像2体が含まれます。
 (以下、略)

 この記事はとても良く書けていて、全く違和感を感じさせません。スペイン語の文章はいつもこんな感じです(この記事は英文ですが、たぶん、その原文はスペイン語でしょう)。

 しかし、この手のweb上の記事は、気を付けて読まなければなりません。書かれていることが本当にあったことか、まずはその真偽を確認する必要があります。

 この確認はとても簡単です。

 もし、上の見出しのような財宝が発見されたら、金の国際市場価格は少なからぬ影響を受けます。需要と供給の関係から、大量の黄金が発見されたというニュースは、急激な供給量の増加懸念から、金の価格低下を招きます。
 
 そこで、金の先物取引のチャートを見てみましょう。

 すると、2015年3月6日(金)に金の先物取引価格が大幅に下落しているのが確認できます(31.90ドル安)。財宝発見の記事が公開されたのは3月10日(火)なので、事前に情報を入手したグループが売り抜けたようにも見えます。

Source: http://chartpark.com/gold.html

 実際のところ、上のような金価格変動は平時でも起きるので、別の方法での確認が必要です。
 そこで、次にコスタリカの新聞記事で確認します。2億ドルもの財宝が見つかったのが事実であれば、現地の新聞報道は大変なことになっている筈です。

 コスタリカの全国紙として下の6紙がありますが、日刊紙では、”La Nación”と”La República”が有名です。コスタリカ赴任中はいつも読んでいた新聞です。この2紙の報道ぶりを調べてみました(実際には、以下の全部の新聞を調べました)。
 ① LA NACIÓN San José www.nacion.com
 ② LA PRENSA LIBRE San José www.prensalibre.cr
 ③ DIARIO EXTRA San José www.diarioextra.com
 ④ LA REPÚBLICA San José www.larepublica.net
 ⑤ AL DÍA San José www.aldia.cr
 ⑥ LA TEJA San José www.lateja.co.cr

 すると、案の定、想定していた結果となりました。「コスタリカの新聞各紙はどこも、この内容を報じていない」

 つまり、「でたらめの記事」だということが確定しました。

 まったく人騒がせな記事です。この記事を書いたのは「Barbara Johnson」という人です。ばからしいので、これ以上深追いするのは止めます。宇宙人やUFO出現の記事ならば、それなりに楽しめますが、こんな記事をもっともらしく書くこのHPの管理人はどうかしています。やっても許される程度の遊びとやってはいけない遊びの判別が付かない方のようです。ココ島の財宝伝説は、オカルト伝説とは一線を画します。オカルト伝説は儲かりませんが、ココ島の財宝伝説は大儲けできます。

 以下のサイトでも、この記事がフェイクであると指摘しています。ところが、HPの作り方が偽記事の発信元と同じなので、同一管理人でしょうね。自作自演か。あほらしい。


 Source: http://www.thatsfake.com/was-a-200-million-dollar-treasure-hoard-unearthed-in-cocos-island/

 書きかけの部分が過去記事のあちこちにあるので、順次、校正を加えます。最初から通読された読者の方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。一ヶ月後くらいに再度ご覧戴くと、きれいな文章になっていると思います。

 「悪意のweb管理人」はたくさんいるようです。「悪意のweb管理人」が発した、「悪意に満ちた情報」を垂れ流すのは、本人の意思にかかわらず、同罪です。ネット上の情報は、必ず複数のメディアでその真偽を確認した方が良いようです。

海賊の財宝伝説に迫る(5):ベネット・グラハム船長とデボンシャー号の宝

 ココ島にまつわる海賊が隠した財宝について、次に紹介するのが「海賊ベネット・グラハム船長」が隠したとされる「デボンシャー号の財宝(The Devonshire treasure)」です。

 この伝説は1818年から始まります。トンプソン船長の「リマの財宝」より2年ほど前のことです。

プロローグ

 1818年、ベネット・グラハム船長(Bennett Graham)は、ネルソン提督の指揮の下で1805年10月のトラファルガーの海戦に参加し殊勲を立てた英国海軍士官で、ホーン岬とパナマとの間の海岸の調査をするために英国巡洋戦艦「デボンシャー号」(HMS Devonshire)を率て、南太平洋に派遣されました。

 ところが、グラハム船長と彼のクルーは、調査を行う代わりに海賊行為を始めます。そして、それは大成功を収めます。やがて、彼らの海賊行為について英国政府が批判されることになったことから、英国政府はグラハム船長と彼のクルーを捕らえるために軍艦を派遣します。

 しかし、この戦艦は彼らによって打ち負かされてしまいます。生き残った軍艦の士官と乗組員たちは、海賊の仲間になるか、それとも船縁から突き出た”渡し板”の上を歩くか選択を迫られます。もちろん、彼らは海賊になることを選びました。

 デヴォンシャー号は戦闘でひどい損傷を被り、グラハムは人数が増えた乗組員を移動させ、船の装備を拿捕したスペイン船に積み替えました。

 英国政府は、彼らを捕らえるため、新たに三隻の軍艦をカーニョ島近くの「ゴロ・ドゥルセ」に派遣します。ここでの戦闘で、グラハムの船は沈みました。

 彼らはボートで逃げようとしましたが全員捕らえられ、イギリスに連れて行かれました。グラハム船長と彼の士官たちは処刑されました、そして残りのクルーはタスマニアの流刑地に送られました。

メアリー・ウエルチ

 この終身刑を受けたクルーの中に一人の若い女性がいました。彼女は、グラハム船長の冒険に同行していました。彼女の名前はメアリー・ウエルチ(Mary Welch)。コーヒー・プランテーション農場主の娘でした。グラハム船長と恋に落ち、海賊と共に暮らしていたようです。二人のロマンスをLisaGraceという作家が”True Treasure: Real – Life History Mystery”という小説で発表しています。

 メアリーはタスマニアで20年間過ごした後に、釈放され自由の身となり、すぐに結婚します。

 その後、メアリーは年を重ね相当な老婦人になったとき、彼女は、埋められた宝物を掘り出そうと考えるようになります。しかし、自分ひとりではとてもできるようなことではありません。そこで、誰かに埋められた財宝の発掘に関心を持ってもらい、出資者になってもらおうと1853年、サンフランシスコに行きました。一時期、彼女は、海賊ベニート・ボニートの愛人だったと言っていましたが、その真意は不明です。いずれにしても、グラハム船長、ベニート・ボニート船長、トンプソン船長の三人の海賊船船長は、1821年頃にココ島を根城にしていた海賊たちであり、仲間でもありました。(グラハム船長とベニート・ボニート船長が同一人物であると考える人たちはかなりいるようです。)

 伝承によれば、「デヴォンシャー号」がメキシコのアカプルコに向け北上していたとき、グラハム船長は3隻の軍艦に護られ航行する財宝を積んだ2隻のスペインのガレオン船を発見します。勝算にかかわらず、グラハム船長は、躊躇なく攻撃を開始し、5隻の船全てを打ち負かし、財宝の掠奪に成功します。

 グラハム船長は、その後、ココ島に向け航海し、ウエハー湾の山の断崖に面した狭い渓谷に、四角いシャフトを沈めました。そして、そのシャフトの底からトンネルを掘り始め、洞窟まで10メートル(35フィート)の距離を掘り進めました。
 掠奪したスペインの巨額の財宝は、この洞窟に移され隠されました。このシャフトはいつでも財宝を取り出せるように、固定されました。

 それからしばらくして、グラハム船長は次の獲物を探しに、略奪の航海に出発しました。そして、この時、傷から回復しなかった14人の水夫、船の外科医とメアリー・ウェルチが島に残されました。

 6ヵ月が経過し、グラハム船長がココ島に戻る前に、宝物を積んだスペイン船を見つけ、これを押収して島に持ち帰ろうとしました。

 しかし、この時期、グラハム船長の悪行を英国海軍本部は耳にしており、海賊に変節した英国の海軍士官と彼のクルーを捕らえるため2隻のフリゲート艦が太平洋に派遣しました。そして、デボンシャー号はフリゲート艦に発見されてしまいます。グラハム船長は、逃げることはできないと覚悟を決めます。

 グラハム船長は、宝の洞窟のありかを示す地図を作り、それを常に身につけていました。彼は、自分の逮捕が間近に迫ったとき、メアリーにその地図を渡しました。それは、自分よりも彼女の方が責任追及の尋問から逃れられるチャンスが大きい、と考えたからでした。

 彼女は、長い年月、この地図を護り続けました。後年、財宝を回収する時に使うためです。
 メアリーは裕福な出資者を見つけ、財宝探しの航海に出て、再びココ島に上陸します。しかし、彼女の努力は不首尾に終わりました。

 6ヶ月間をココ島で過ごした彼女でさえ財宝の隠し場所を見つけることができなかったのです。その理由は、財宝を隠した洞窟があるウエハー湾の外観が年月の経過とともに大きく変化していたからでした。
 彼女が目印の1つにしていたものは巨大な杉の木でした。そして、彼らはココ島に滞在していたときに、しばしばその近くでキャンプをしていました。そこは、グラハム船長の船が航海に行っている間、彼女と船医、そして、治療中の14人のクルーたちと滞在していた場所でした。

 ところが、この杉の木だけではなく、近くの樹木は全て伐採され、跡形もありません。すべての目印が消え失せていたのです。これは、水と燃料の補給基地としてココ島に立ち寄っていた捕鯨船により伐採されたものでした。

 財宝は発見されませんでしたが、この女性の話は、探検の資金を出した人々に信用されていました。それというのも、財宝を隠した洞穴の掘削に関連して、メアリーは、とても詳しく説明することができ、その内容が現地の状況ととても良く符合していたからです。

 ココ島についての彼女の深い知識、たとえば、生えている植物、動物の生態、特に鳥の生態は、そこにかなりの期間居住した者以外には絶対知ることができない内容でした。

 さらに、財宝の洞窟の掘削に関連して、メアリーはとても珍しい土壌条件を説明していましたが、その後の遠征で、地図に示された場所を実際に掘削してみると、メアリーが説明した通りの土壌でした。このようなことから、彼女の話が虚構ではないと信じられるようになります。

 地図は英国当局の探索の手を逃れました。しかし、英国政府は、宝の洞窟の場所についてのいくつかの情報を他のクルーから入手していたに違いありません。事実、海賊ベネット・グラハム船長によってココ島に隠された盗品を探す最初の発掘調査は、英国海軍の手によって行われました。

 グラハム船長は、彼が海賊をしていたすべての期間、ココ島を基地として使っていました。そして、そこには未だに、ガレオン船から略奪した積荷が埋められているのです。

 「デボンシャー号の財宝」は、ローア・カリフォルニア、メキシコ、そしてペルーからの金塊350トン、その現在価値は控えめに見積もっても1.6億ドル相当と見積もられています。

この伝説は真実なのか?

 グラハム船長の伝説は、どうも脚色されているようです。そもそも、グラハム船長という人物の存在が英国の海軍士官名簿で確認できないらしい。不名誉なので抹消したということも考えられますが、果たして実在の人物だったかどうかは疑わしい。さらに、「デボンシャー号」は太平洋に行っていないとか、当時のこの船の船長名が違うとか、いろいろ明らかになっているようです。いや、明らかになっているのか、闇が広がっているのか定かではないのですが、もっともらしい伝承だけに、あら探しをするとかなりボロボロの伝承のようです。
 
 世の中には、一つの誤りを見つけただけで、すべてが間違っていると思い込む人がいます。ご本人は、間違いを見つけたのだから「論破」したと考えるようです。

 「公式記録に名前がないからその人物は架空の人物である。」

 このように言い切るためには、もっともっと多くのことを調べる必要があります。資料を孫引きするのではなく、自分で丹念に調べ直す必要があるでしょう。でも、それはたぶん無理でしょう。日本で調べることができる範囲は限定されています。できるとすれば、「公式記録を調べた」と書いた人物が信頼できる人物かを調べることでしょう。でも、これも難しい。誰が調べたのかが「記録にない」(笑)。記録がないのに結論だけが一人歩きしている、という事例が散見されます。

 海賊の財宝は、存在しないという前提で話を進めてもつまらない。やはり、「財宝伝説は真実」という仮説の下で推理していく方が楽しいですし、いろいろ勉強になります。

 ココ島に隠された財宝を探しに、これまでに300を超えるトレジャーハンターチームがこの島を訪れました。 絶海の孤島で宝探しをするためには多額の資金が必要になります。彼らは多額の資金を投じて、存在しない海賊の宝物を必死に探していたということでしょうか。

 トレジャーハンターたちは、自分たちだけが見つけた「暗号」を他人に教えるということはないでしょう。同様に、海賊の財宝にまつわる伝承をそのまま鵜呑みにすることはできない、ということも冷静に考えれば分かることです。本当のことは誰にも教えない。教えるはずがありません。
 
 (この記事は書きかけです。)
True Treasure: Real - Life History Mystery (English Edition) -
True Treasure: Real – Life History Mystery (English Edition) –

【Reference】
“Cocos Island – Old Pirates’ Haven”, Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
Legends and Lore of Cocos Island” by Peter Tyson

海賊の財宝伝説に迫る(4):エドワード・デイビス船長の財宝

 ココ島に財宝を隠したといわれている海賊は何人かいますが、今日は、「エドワード·デイビス船長」について書きたいと思います。

 前回のトンプソン船長の『リマの財宝』は1821年頃の話でしたが、エドワード·デイビス船長の財宝はそれより140年ばかり時代を遡った1680年代の伝説です。

Hourglass pirate's ship

Photo: Nekoshi

プロローグ

 とても頑固で頑丈なバッカニア(buccaneer)、エドワード·デイビス船長は、1680年代にカリブ海で活躍したイギリスの海賊です。彼は紳士であり、すべての海賊とそのリーダーたちの上に立ち、残酷で非人道的な残虐行為は決して行わない男だと信頼されていました。そして、暗黙のうちに全ての部下たちから信頼されていました。

 当時、彼は、海賊クーク船長(John Cooke)の「リベンジ号“The Revenge”」に乗っていました。 

 海賊クーク船長は、18の大砲を持つ砲艦「リベンジ号 」でチェサピーク湾から出港して 、すばらしいデンマーク船を拿捕します。彼は、全ての積荷を奪った後、「リベンジ号」を沈め、奪った船を「バッチェラーズ・ディライト号(“Bachelor’s Delight”)」と名前を変更し、新たな海賊船に仕立てました。「独身者の喜び号」という船名のようです。

 その後、ホーン岬を周り、ゆっくりと南アメリカの沿岸を北に航行し、そこでスペイン船を捕獲し、また、スペイン入植地を攻撃し略奪しています。

 クーク船長は日本ではほとんど知られていない海賊です。名前が似ているジェイムズ・フック船長(Captain James Hook)は、別人です。フック船長はディズニー映画に登場する手にかぎ爪(Hook)がついた片足の船長で、架空の人物です。海賊ティーチ「黒髭」がモデルになったと言われています。

 エドワード·デイビスは1683年から1702年までの20年間、海賊として有益な経験を積んでいました。エドワードは、ジョン・クーク船長の船の操舵手として、最初に西インド諸島で、後になって太平洋で海賊行為を働き、船の中で確固たる地位を築いていました。

 1684年2月、彼が乗ったクーク船長の海賊船「「バッチェラーズ・ディライト号」はホーン岬を周り、南米大陸を北上していました。

ロビンソン・クルーソーには実在のモデルがいた!

 エドワード·デイビスの船乗り仲間の中で、貿易についてかなり知識を身に付けていたのはウイリアム・ダンピール( William Dampier)とライオネル・ワッフル博士(Dr.Lionel Wafer)でした。後年、ワッフル博士が探検旅行について書いた雑誌は、この時代のベストセラーで、彼らと同時代の人である有名なダニエル・ディフォーのような作家たちにとっての極めて貴重な原資料となりました。

 前述のダニエル・ディフォーが書いた有名な冒険小説「(ロビンソン・クルーソー(1709))は、まるでノンフィクションであるかのような迫力がありますが、それもそのはず、この小説には原典があり、実在したモデルがいました。アレクサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk)というスコットランド人です。

 ウイリアム・ダンピール(William Dampier , 1652-1715)が乗った船が、このアレクサンダー・セルカークを救出しました。
 ちなみに、探検家の高橋大輔氏が、アレクサンダー・セルカークが暮らした島、チリのロビンソン・クルーソー島を訪れ、彼の住居跡を発見しています。『探検家 高橋大輔ブログ』 。

 ココ島の「ダンピール・ヘッド」または「ダンピール岬」(Cocos島の南海岸にある)は、彼の名前に由来します。同様に、ウエハー湾と「ライオネル・ヘッド」は、ライオネル・ウエハー博士(Dr.Lionel Wafer, 1660-1705)の名前から命名されました。

ココ島に財宝を隠す

 話を続けましょう。

 南米大陸の太平洋岸を北上し、チリ沖を航行していた「バッチェラーズ・ディライト号」は、フアン・フェルナンデス(Juan Fernández、ロビンソン・クルーソー島:Robinson Crusoe Island)に投錨します。

 ロビンソン・クルーソー島の西160Kmに島があります。この島には、ロビンソン・クルーソーの実在のモデルであるアレクサンダー・セルカークの名が付いています。

 この島は、ウエハーにちなんで別名” Juan Fernández”とも呼ばれています。

 ちなみに、Google Mapで検索窓に「Alexander Selkirk, chile」として検索し、次に「Juan Fernández chile」と入力してみて下さい。どちらも同じ島が表示されます。

 その後、エクアドルのガラパゴスに到着します。「バッチェラーズ・ディライト号」は進路を東にとり、エクアドルの沖合のドレーク島(Drake’s Island、現Isla de la Plata)に寄航します。

 彼らは覚えていました。1世紀前、フランシス・ドレーク卿(Sir Francis Drake)が、彼の船を軽くするために、鉛と勘違いした数トンの銀のインゴットを海中に投じたのがこの場所だったということを。

 「バッチェラーズ・ディライト号」の乗組員たちは、ここで、財宝を釣り上げようと、毎日、財宝釣りをしましたが、うまくいきませんでした。

 この海賊、著者は、海賊バーソロミュー・シャープ、そして悪名高い「紳士」、私掠船のエドワード·デイビス、そして、彼の海賊船の外科医で自然主義者であるライオネル・ウエハー博士と一緒に、太平洋岸のスペインの町を略奪しました。ライオネルは財宝を埋め、暮らしていた当時のココ島ついて、生き生きとした記述を残しました。

 ダンピール船長もまた、自らの冒険の歴史「A new Voyage Round the World, 1697」を書き残しました。

 しかし、スペインの新世界の植民地は、魚を釣るよりもたやすく、「ゴールデン・ハインド号(Golden Hind)」の赤ヒゲ船長の時代と同じように、1684年には多くの富を生産していました。

 「バッチェラーズ・ディライト号」がココ島に到着する頃には、船倉は宝で一杯になり、そして、船長が新しくなっていました。1684年7月、クーク船長はコスタリカのニコヤ湾(Golfo de Nocoya)で死亡し、エドワード・デイビスが新しい船長に就任していました。その時、彼は、1000人以上の海賊を従えていました。

 エドワード·デイビス船長の下で、事業は成功しました。彼はまったく有能な男性で、全ての活動がビジネスライクであり、彼は生まれながらのリーダーでした。彼は、自分が海賊や罪人だとは決して考えたことがなかったでしょう。彼は愛国的英国人としての義務を果たし、当時のイギリスの敵国の船や町を襲撃しました。

 デイビス船長たちはココ島に彼らの拠点を築き、バハ・カリフォルニアからグアヤキルに至るスペイン植民地を襲撃しました。
 彼はニカラグアのレオンの街を襲って数十万枚のスペイン銀貨(piece of eight)を略奪しました。島にはその戦利品を保管するための貯蔵庫が造られ、財宝を運び入れました。船を傾け修理、整備し、彼の部下を数週間休ませた後、、再び、更なる冒険に出港していきました。

 海賊船の外科医で自然主義者であもライオネル・ウエハー博士は、デイビスとその仲間たちが財宝を埋め、暮らしていた当時のココ島ついて、生き生きとした記述を残しました。

 「バッチェラーズ・ディライト号」は、、時折、他の海賊船と行動を共にしました。たとえば、スワン船長(Captai. Swan)の有名な「海賊船シグネット号(The Cygnet)」(後に、ウィリアム・ダンピールが船長となる)、イートン船長(Captain Eaton)の「ニコラス号(The Nicholas)」そして、あるときは、フランスの私掠船とも一緒に活動しました。これらの海賊は全て、略奪した財宝を隠すために、必ずココ島に戻りました。

 海賊たちは、この時期、「数トンの銀のインゴット、宝石とスペイン銀貨(piece of eight)で満たされた衣装箱、砂金で一杯の革袋などの財宝」を島中に埋めました。そして、現代のトレジャーハンターたちは、過去に発見されたのは、隠された財宝のほんの微々たる部分に過ぎないと考えています。

 記録によれば、「バッチェラーズ・ディライト号」は、スペインへの航路上にあるリマのカリャオ(Lima, Callao)からパナマにかけての海域でスペインの貨物船を襲い、その積荷をココ島に運び込みました。そして、これらの財宝は、デイビスがホーン岬を周りジャマイカに帰国する直前の最後のココ島寄航の時、島に埋められました。

(管理人心の声: “おいおい! どんだけの量の宝物があるんだよ!”)

エピローグ

 <突然ですが、> 彼は逮捕されますが、彼は罪状のほんの一部だけを認めて、「陛下の慈悲(”Majesty’s mercy)」に基づく大赦より、彼の罪は許されます。これは、イギリス国王ジェームズ2世(在位:1685 – 1688年)よって全ての海賊(プライベーター)に提示された恩赦でした。その後、彼は、ココ島に戻って彼の財宝を回収する機会を待つ間、バァージニアで楽く快適な隠遁生活を送ります。

 彼は小さな船で出港しましたが、昔の誘惑が彼を破滅に導きました。カリブ海を敗走しながら、中米の海岸に沿って小さな略奪を繰り返した後、ポート・ベロに無駄な攻撃を行ない、その後、不思議なことに歴史のページから消えました。
 (途中ですが、ここまでで、取り敢えずアップロードします。文献調査が途中なので、後日、追記します。)

 エドワード・デイビス船長、キャプテン・クーク、ウエハー及びダンピラーの公海上における功績に続き、物語は『デボンシャーの宝(”Devonshire” treasure)』の移ります。

【参考】
“Cocos Island – Old Pirates’ Haven”, Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
Wikipedia: “John Cooke (pirate ) “  https://fr.wikipedia.org/wiki/John_Cooke_%28pirate%29