カテゴリー別アーカイブ: 古代の謎・歴史ヒストリー

ピリ・レイスの地図の謎を解明する

 「ピリ・レイスの地図」をご存じでしょうか。これは、オスマントルコの海軍提督ピリ・レイス(Piri Reis)によって1513年に描かれたとされる地図のことです。当時、知られていなかった南極大陸の海岸線が正確に描かれているとして、現代のオーパーツの1つに数えられることもある謎めいた古地図です。

 新大陸がコロンブスによって発見されたのが1492年のことですから、まだまだ南米の状況は、当時のヨーロッパで知られていませんでした。コロンブスは4回、大西洋横断の航海に出ています。三度目の航海ではベネズエラに達していますが、最後の航海ではパナマ付近で座礁し、本国に帰ったのが1504年でした。このように、少なくともスペインでは南米全体については全く知られていない状況でした。

注:この分野に詳しい方がたくさんいると思いますが、アメリゴ・ベスプッチについては、後日書きたいと思います。

ピリ・レイスの古地図の秘密に挑む

ピリ・レイスの地図が有名な理由として挙げられるのは、当時ほとんど知られていなかった南米大陸の海岸線が非常に正確に描かれていること、さらに、氷で閉ざされている南極大陸の一部が描かれていると言われていることです。

 この地図には、たくさんの文字が書き込まれています。その全文については、次回の記事でアップします。

 この書き込みの中に、西の海は、コロンブスの地図を用いて描いたと明記されています。ところが、ここにミステリーがあります。コロンブスは、合計4回の大西洋横断の航海に出ていますが、第1回の航海で新大陸を発見したこと以外、あまり大きな成果を上げていません。南米大陸もベネズエラまでしか行っていません。つまり、南米大陸の海岸線が正確に描かれているこの地図と、地図中の記載内容に矛盾があるということです。コロンブスの最初の航海で用いた地図は、大西洋の距離をかなり短く想定したもので、いつまでたっても陸地に着かないことから、水兵達が反乱を起こす寸前だったようです。

 ピリ・レイスの古地図についての説明は、YouTubeを見た方が視覚的に理解できます。


 また、この地図は、古代から伝わる古地図をかき集め作成したとされており、このことが、この地図をさらにミステリーなものにしているようです。古代になぜ、アメリカ大陸の地図があるのか。

 この地図を最初に見たとき、よく分からない地図だと思いました。縮尺がでたらめという感じがして、これでは航海にはとても使えないと感じました。ましてや、南極の地形など、現在の地図とぜんぜん合いません。

 ところが、先日、ふとしたことから、この地図って平面ではなく立体曲面をそのまま描いたものではないかと思いつきました。

 地図を作成するにあたって、もともと球体の地球を平面にいかに表現しようとするかで、様々な図法が考案されてきました。

 現在、地図の作図に使われている正角図法であるメルカトル図法(正角円筒図法)は1569年に発表されていますが、それ以前にも航海図の一般的図法として使われており、1511年の適用例も確認されています。磁石(後に羅針盤)、星の位置を頼りに航海するには、角度が重要で、方位を直線で地図上に示すことができる正角図法が多く用いられました。

 ところが、ピリ・レイスの地図は、この作図法とはどうも違うようです。いくつもの地図を使ったと書いてあります。

 そのことは、この地図の中に書いてあります。ラテン語で書かれてあり、一部読めない部分がありますが、英語訳され、webで読むことができます。無謀にも地図に書かれているラテン語を翻訳しようかと考えたのですが、よく考えたら、そんなことはこの分野の専門家がとっくにやっていました(汗)。

 この悩ましい地図の存在に学者たちは、南極大陸に見えるのは、実は南米大陸で、羊皮紙のサイズの関係で、回り込んで描かれている、などと子どもでも分かるような滑稽な説明をしています。羊皮紙というのは貴重なもので、描いてみたら用紙に入らなかったので歪めたというようなものではありません。

 さて、この地図が曲面をそのまま平面に投影するように描いたものだとするのなら、「地球に被せてみたら良いのではないか」とふと思い立ちました。以前ですと、そのようなことを思いついたとしても、実際に自分で確認してみる手段がありませんでした。ところが現代はそれが簡単にできます。
 
 前置きはこれくらいにして、驚くべき結果をご覧いただきたいと思います。

 Google Earthの地球画像に、ピリ・レイスの地図を被せたものです。

 無理に変形して合わせたのでないことは、方位線の形から分かると思います。

 これを作っていて驚いたのは、ピリ・レイスの地図を湾曲変形させ、地球の曲面に沿って被せようとすればするほど、地形の位置がピッタリ一致してくることです。特に、地図の縁の部分がピッタリ一致するのには、本当に驚きました。

 どれだけ一致しているのか理解してもらうために、作業過程をフラッシュにしてみました。海岸線が驚くほど一致しているのが分かると思います。

 最後から2枚目のスライドで最終的な位置調整をして、最後のスライドで、地図部分を切り取り、Google Earthの画像と比較できるようにしています。

 説明が長くなりましたが、下の画像をクリックするとフラッシュがスタートします。大きな音が出ますので、音量にご注意ください。

 今回はここまで。

 次回、もう一歩進めて、別の角度から書いてみたいと思います。画像の準備はできているのですが、文章をもっと詰めたいので、それは後日ということで。

追記

 第2回目の記事では、ピリ・レイスの地図そのものをもっと詳しく分析しています。また、地図に記載している書き込みを全文和訳しています。

東京スカイツリーが描かれていると話題になった歌川国芳の浮世絵のナゾに迫る

 東京スカイツリーができあがる前年に話題となった歌川国芳の浮世絵「東都三ツ股の図」に描かれた奇妙な『塔』。まるでスカイツリーのようだと注目を集めました。

 遠くに見える二つのタワーのようなものはいったい何なのでしょうか。
 多くのサイトでこの解明をしようとしているのですが、あまり良い結果が得られていないような気がします。

歌川国芳 東都三ツ股の図

 そこで、本サイトでもこの謎に迫りたいと思います。「何を今さら」という気もしますが、やはり、気になります。

塔の高さは何メートルなのか

 まず、誰もやらないことからスタートしましょう。
 川の対岸に見える二つの塔はかなりの高さがあるようです。では、何メートル?
 一つは「火の見櫓(やぐら)」のようです。もう一つの高い方の塔は井戸掘削用の櫓でしょうか。
 この高さはどのくらいあるのでしょうか。早速、計測してみます(笑)。

 

 当時火の見櫓の高さは何メートルだったのでしょうか。『火の見櫓図鑑』の『火の見櫓の歴史』を読むと、「最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた」そうです。

 江戸時代、構造物の高さは厳しく制限されていました。逆の見方をすると、「規格化」されていたということ。

 浮世絵の火の見櫓は、二階建ての家の屋根よりもはるかに高いので、定火消の15mサイズの火の見櫓だったと考えられます。
 これをベースにして、比例計算すると、問題の井戸櫓のような塔の高さを算出できます。

measuring-towers.png

 計測結果は、33.8m。ベースラインの位置の誤差を考慮すると、概ね35m(約15丈)程度だったと考えられます。東京スカイツリーって何メートルでしたっけ。さて、これは、井戸櫓なのでしょうか?

 

櫓の位置を特定する

 この櫓の位置については、他のサイトさんでも特定を試みているようです。でも、それを参考にせず、自分でやってみます。

 歌川国芳がこの絵を描いたのは、絵のタイトルにもなっている『三ツ股』と呼ばれた隅田川の中州。制作は、1831年頃とされています。

 絵の右側に見えるのが永代橋。対岸が深川。深川には三つの橋が架かっており、北から順に上之橋、中之橋、下之橋と言いました。火の見櫓があった場所は、下之橋の北側のたもと。

 1858年の古地図と現在の地図をGoogle Earth上で重ね合わせてみます。猫の足跡マークが歌川国芳が描いた場所であると、管理人は考えます。

Source: Google Earth上に表示

 火の見櫓の位置は、「深川佐賀町惣絵図」、寛永3年(1850年)[1]を使っているのですが、これだと、上で書いたように「下之橋の北側のたも」になります。しかし、「東都三ツ股の図」では、下之橋の南側に火の見櫓が見えます。歌川国芳がこの絵を描いたとされる1831年から20年の間に火の見櫓の位置が変更になったのかも知れません。

高い櫓は一体何か?

 管理人は、井戸掘り櫓だと思います。深川は埋め立て地なので、浅井戸では海水が混じり飲用に適しません。このため、30m程度の深井戸を掘ったようです。深層の伏流水を狙う方法です。ちなみに地質学上のデータでは、この地域は、海の底ではなく陸地であった期間の方が長いそうです。

 井戸を掘ったことのある方は少ないと思いますが、管理人は学生の時、井戸掘りのアルバイトをしたことがあるので、やり方は何となく分かります。

 管理人が掘った井戸は、櫓を組み、足場材に使われる「単管パイプ」を錘(おもり)を落下させることで打ち込んでいく工法でした(「掘り抜き井戸」)。錘を高い位置から落下させ、その反動で「単管パイプ」を地中に差し込んでいきます。この作業はすべて人力で行い、機械は一切使いません。そのための学生アルバイトでした。この作業のためには、ある程度の高さの櫓が必要となります。

 しかし、35mもの高さの櫓が必要か、と問われれば、必要ない、と答えるでしょう。長さ2mものの単管パイプをつないゆくので、落下させる錘の高さは1.5~2メートルもあれば十分。というか、それより高いと打撃で管が壊れてしまいます。深川の地下で岩盤が出るとは考えられないので、必要な櫓の高さは10メートル以内。実際には5メートルといった所でしょう。

 この他に、『金棒掘り』といって、径2寸、長さ4間、重さ24貫(90キロ)の丸棒を継ぎ合わせ、それを上から落下させることで井戸を掘る工法もありましたが、その落下高さは2尺程度のものでした。このため、35mもの高い櫓は不要なのではないでしょうか。

 ところで、深さ30メートルまで掘った水をどうやって取水するのか? 水中ポンプがない時代です。昭和30年代まであった手押し井戸ポンプも当時はありませんし、このポンプで揚水できる深さは10メートルが限界です。では、どうやって取水したか分かりますか?

 この現場で、地下30メートルの地下水層にある水は被圧されており、放っておいても地下水位が上昇しするのではないでしょうか。被圧地下水がある場合、場所によっては、地表面から吹き出ることもありますが、深川では、地下2~3メートル程度の水位だったのではないかと思います。つまり、その深さまで井戸の直径を広げればよいのです。

 では、なぜ、高い櫓が必要となったのか。

 真相は分かりませんが、硬い層にぶつかったのではないかと想像します。この層を破るために高い櫓を設置しなければならなくなった。または、水をたくさん必要だったため、打ち込む管の太さをかなり太いものにし、長尺ものを使った。この管は竹だったと思いますが、井戸が深いため、竹管を二重構造にしたのかも知れません。やはり、『金棒掘り』が使われたのでしょう。

 深川の地層で、たかだか30メートル程度で岩盤が出るわけがないので、この土地の埋め立ての材料に入っていた転石の可能性があります。それを高い櫓を使って力ずくで掘り抜いたというのが真相のように思います。仮設の櫓なので、幕府の規制はある程度免除されたのではないかと思います。そもそもの江戸町民の飲み水の供給は幕府の仕事だし。本所深川に水を供給していた本所上水が1722年に廃止されたまま復活しないし。

 しかし、あらためてこの浮世絵を見ると、当時としては想像を絶する高さの櫓です。このような工法を採用したのであれば、何らかの記録が残っていてもおかしくはない。そんな気もします。

この井戸はどこにあったのか

 深川は埋め立て地で、上水は通っていませんでした。隅田川を樋管で渡す技術がなかったからです。浅井戸を掘っても出てくるのは塩水だけ。このため住民は、洗濯などの生活用水には浅井戸の水を使い、飲料水は水売りから購入していたようです。

 ところで、この深川、そして井戸櫓が建っている場所である佐賀町には、『船橋屋(船橋屋織江)』という有名なお菓子屋がありました。ここの練羊羹はとてもおいしかったらしく、当時のさまざまな書物にも登場します。

 和菓子づくりには、良質な水が大量に必要となります。『船橋屋』ではその水をどうやって確保していたのでしょうか。実は、『船橋屋』は自前の深井戸を持っていました。近所でも評判の美味しい水だったそうです。

 この『船橋屋』があった場所は、現在の住所では『東京都江東区佐賀2丁目9 番地』。この条件で、井戸の場所を特定します。

 この住所を古地図上に表示すると、歌川の浮世絵にある対岸の橋は、「上之橋」であったことが分かります。そして、火の見櫓の位置は、上之橋のたもとであると特定できます。上で示した位置よりもかなり北側となります。

Source: Google Earthに1858年古図を重ねて表示

 『船橋屋』屋敷跡の発掘調査の結果、100 平方メートルの範囲で4つの井戸跡が見つかっています。「東都三つ股の図」に見える井戸櫓の大きさから、当時としても大がかりな井戸掘りだったことが伺えます。近くで見つかった井戸跡では、最大直径1メートルの桶の底をくり抜き、それを逆さに積み重ねて井戸の壁にした遺構が確認されています。しかし、それが30m下まで続いている分けではないでしょう。直径1メートルの桶の中で30mもの深さの井戸を掘るのは無理です。そもそも、高い櫓を必要としないし。

 船橋屋の主人が、天保12年(1841)に出版した近世菓子製法書の最高峰といわれる『菓子話船橋(かしわふなばし)』という書物があります。甘味好きのためにお菓子の製法を被歴・伝授した本ですが、その中で、練羊羹の作り方も詳しく書いています。

 この本の挿絵には、以下の絵が使われています。火の見櫓の位置が悩ましい。この挿絵では火の見櫓は上之橋の北側にあります。しかし、この位置だと浮世絵のようにはならない。つまり、この火の見櫓は、「東都三つ股の図」が描かれた1831年から『菓子話船橋』が出版された1841年までの10年の間に位置が変更になった、という結論になります。

  船橋屋織江、『菓子話船橋』、1841

 火の見櫓の位置が変わるのは、大火災があった場合でしょう。この期間に発生した大火災としては、天保5年2月7日(1834年3月16日)の『甲午火事』があります。深川についての被害は確認できませんでした。

 最後に、井戸櫓の高さを補正しておきます。上で示した33.8mという高さは、火の見櫓を基準にして、そこの真横にあった場合の高さになっています。実際には、歌川の位置から見て、井戸櫓は火の見櫓よりも108mあまり遠くにあります。これを勘案して、補正すると、井戸櫓の高さは、「43.18m」になります。現代で言えば、10階建てのビルと大体同じ高さです。40m以上の高さまで荷を吊り上げることのできるラフタークレーンもあるので、我々の目からは驚くほど高いとは感じないと思いますが、当時はとても目を惹く櫓だったと思います。

 以上で謎解き終了です。

【出典】
1. 「資料館ノート 第112号、長屋と人々の暮らし④」、江東区深川江戸資料館、平成27年11月16日
2. 「水の歴史館 わが故郷の打抜師たち」、西条市
3. 「下町文化243号」、2008.9.25発行、江東区
4. 「資料館ノート 第113号」、平成28年1月16日発行、江東区深川資料館

葛飾北斎の謎を追う

 江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎。「富岳三十六景」「北斎漫画」などの代表作で知られる北斎を知らない人はいないのではないかと思います。

葛飾北斎の肖像

 そして、海外でもとても有名な人物です。1999年にアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一選ばれたのが葛飾北斎でした(86位)。

   海外で最も人気のある北斎の「神奈川沖浪裏」 GIFアニメーション版

 北斎のお墓は、浅草の「誓教寺(せいきょうじ)」にあります。

 ぶらりとお墓参りをしたとき、墓前に花が添えられていると、故人の現在における人気のバロメーターのように思えます。
 例えば、2013年11月8日に亡くなった歌手の島倉千代子さん。彼女のお墓は品川の東海寺にあります。長州ファイブの一人、井上勝のお墓の隣にあります。井上のお墓には花1本供えられていないのですが、島倉千代子のお墓にはたくさんの花が供えられていました。

  Photo: なんでも保管庫

 葛飾北斎については、調べている人がたくさんいて驚いてしまいます。

 今回、管理人が『北斎のなぞ』を書くにあたり、他の研究者にはとても太刀打ちできないので、視角を変えることにします。

 このサイトのなぞ解きの記事は、誰も見たことも聞いたこともない新たな説を唱える・・・ことに執着しているのですが、なかなか思い通りにはなりません。

 管理人が北斎についての様々な情報に触れて感じたことは、北斎がなぜ長寿だったのか、という極めて素朴な疑問に誰も答えを持っていないということでした。書かれている内容は、とても”なおざり”。知識としての情報しか持っていない人たちの書き方のように感じました。

 そこで本記事は、葛飾北斎がなぜ長生きをしたのか、という視点で書いていきたいと思います。
 記述は、「葛飾北斎伝」(飯島虚心著、1893)をベースとします。その理由は後ほど出てきます。

北斎の生まれは?

 北斎は、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉に生まれました。他の資料では、『江戸本所割下水の百姓・川村某の子として生まれる。幼名は時太郎。四、五歳の頃、本所松坂町に住む幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となる。』というような記述も見受けられます。これがおかしいことは直ぐに分かります。

 宝暦10年に江戸本所割下水という場所に百姓の川村氏が住んでいたのでしょうか? そもそもその場所は、現在の住所でいうとどこにあたるのでしょうか?

 北斎生誕の地とされている「江戸本所割下水」は、東京都墨田区亀沢2丁目15−10。現地に「北斎生誕の地」という案内柱が立っています。

 ここを目印にGoogle Earthで幕末、1858年の古地図を重ね合わせてみると、そこには武家屋敷が並んでいます。昔は、武士・寺の区域と町民の住む区域は明確に区分けされていました。ここは『百姓の川村氏』が住める場所ではないようです。この百姓の子や養子の話は、北斎の孫娘白井多知女の遺書に依っているのですが、間違っているように思います。

北斎生誕の地 1858年古地図  Source: Google Earth
北斎生誕の地 1858年古地図拡大  Source: Google Earth

 「葛飾北斎伝」には、北斎の出自について次のように書かれています。

 父は、徳川家用達の鏡師であった中島伊勢、母は、吉良上野介の家臣で、赤穂義士の討ち入りの際に討ち死にした小林平八郎の孫にあたる人なのだそうです。北斎自身が自らの出自をそのように話していたとか。

 そもそも、百姓の子供が武家に養子に入るなどあり得ない。神童といわれるような、とりわけ聡明な子供ならばあり得るかも知れませんが、養子に出たのが4、5歳ということなので、この線はない。北斎の長男は旗本の家に養子に出ているので、やはり、北斎は武家の出身と見るのが妥当なように思います。「葛飾北斎伝」では、北斎の母は、吉良上野介の孫娘であったという説があることも紹介しています。

 面白いことに、他の説で出てくる養子先である本所松坂町の家があった場所は、吉良上野介が討ち取られた正にその屋敷があった場所。どちらの説が正しいかは分かりませんが、忠臣蔵との関係が深そうです。

北斎はなぜ長生きできたのか

 葛飾北斎は88歳の天寿を全うしました。亡くなったのは、1849年5月10日(嘉永2年4月18日)のこと。数えでは90歳。江戸時代後期に88歳まで生きたのですから、かなり長寿だったと言えます。

 弘化3年閏5月10日生まれの皇女和宮は、この時3歳でした。幕末については、和宮を中心に考えるのが管理人のスタイルです。
 管理人の最初の疑問は、北斎はなぜ長生きできたのかということ。というのは、北斎の生活はお世辞にも健康的であったとは言えないからです。

 家の中はゴミだらけ。ゴミが溜まると引越。これを繰り返し、生涯で93回も引っ越ししたことは有名な話です。さらに、食事は出前をとっていたとか、よそから頂いた生魚は調理が面倒なので誰かにあげた、布団に入ったままで絵を描き、眠くなったらそのまま寝た、など長寿とは無縁の暮らしぶりだったようです。

露木為一「北斎仮宅之図」 お栄(応為)と北斎、露木為一「北斎仮宅之図」

 北斎は酒・タバコはやらなかったそうですが、健康的な情報はこれだけ。どう考えても、同世代の人たちよりも長生きしそうにありません。同居していた出戻り娘のお栄はタバコを吸っていました。北斎にとっては間接喫煙していたことになります。でも、北斎が肺の病に罹ることはなかったようです。

 管理人と同じ疑問を持った方が『Yahoo!知恵袋』に質問していました。その回答を参考に見てみましょう。この手の話題にとても詳しい方がたくさんいます。

 質問 「葛飾北斎はかなり長命でしたが、なにか特別な食事か療養をしていたのでしょうか?」(Yahoo!知恵袋

 回答 「着ている着物はボロボロ、まともに掃除もしないため部屋はゴミや埃や塵だらけ(部屋が汚れるたびに引っ越ししたという。引っ越し回数は生涯に93回。ただ70代半ばでも56回というので、死ぬまでの約15年で40回近く引っ越ししたことになる)、買ってきた食べ物も皿にもらず、箸も使わず手でつまみ、食べたものは散らかしたままという、まあ不潔極まりない状態で生活していたこと。

 生活は赤貧そのもので、版元にも借金を申し込み(そのくせ金には無頓着)、70代では素行の悪い孫には手を焼くなど、私生活も決していいという状態ではない、普通ならとても90歳まで生きられる状態ではありませんでした。

 ただ不潔極まりない生活をしていた北斎も、健康には気を使っていたようです。

 絵師の河鍋暁斎によると、北斎は酒もたばこも一切やらず、お茶も上等なものは好まなかったといいます。食事には全く気を使わず、娘の阿栄が買ってきたものや、人から貰ったものを食べる程度でした。ただお菓子だけは大好物でしたが。

 そのくせ薬は自分で作っていました。70歳手前で脳卒中に襲われた時は、自分で中国の医学書を調べ、ユズを煮込んで作った漢方薬で治療したといい、またリュウガンを乾燥させたものと砂糖、焼酎を混ぜたオリジナルの「長寿の薬」というものもあり、これを朝晩2回服用してたため、そのため晩年も健康であったといわれます。」(”jasonkodai2199“さんのベストアンサーを引用)

 上の文中で「阿栄」とは「お栄(葛飾応為)」のことですね。北斎の生活を見ていると、とても長生きできるようには思えません。酒やタバコはやらなかったとしても、このような生活、そして食事では長生きできるとは思えません。でも、北斎は88歳まで生きました。

 管理人がこのことにこだわる理由は、もし北斎が68歳の時に患った中風(脳溢血)で死んでいたら、これほど有名にはならなかったと思うからです。代表作である錦絵『富嶽三十六景』が描かれたのは北斎が72歳の時です。そして、75歳の時に絵本『富嶽百景』、『絵本忠経』が刊行されています。

 幕末・明治維新の歴史を見ていると、結局、長生きした人が他の人の手柄を総取りにしている、という構図が見えてきます。北斎の場合はなんと言ってもその圧倒的な数の作品数。やはり、長生きが名を残す秘訣のようです。

 生涯現役の絵師。北斎の人生は、現代人にとってもうらやましいと感じてしまう。高齢化社会の現在、北斎の長寿の秘訣こそ、大きな謎なのではないでしょうか。現代の健康法に従えば、長寿などあり得ない生活を続けていた北斎がなぜ長命だったのか。不思議ですよね。

 なぜ、北斎は健康だったのか? 『Yahoo!知恵袋』の回答を読んでもその答えは見つからない。確かに、この回答はよく書けていると思いますが、少なくとも、管理人の疑問の答えにはなっていないと思います。
 北斎の長寿の根源はもっと別のところにありそうです。

食事とゴミ屋敷のなぞ

 長寿の理由としてまず着目べき点は「食事」でしょう。
 北斎は、料理は買ってきたり、もらったりしており、自分では作りませんでした。

 料理もせずにゴミ屋敷? でも、奥さんがいたはずです。
 この辺の情報が怪しいことが分かります。

 北斎の後妻”こと女”が亡くなったのは、北斎が中風を患った翌年(1828年7月4日)のことで、この時、北斎は68歳でした。それ以降も娘のお栄が同居していました。このような状況で、料理もせず、家の中は『ゴミ屋敷』だったとはとても考えられない。もし、『ゴミ屋敷』だったことが真実ならば、”こと女”もお栄も、北斎に負けず劣らず考えられないほどの『変人』だったことになります。まあ、お栄は変人だったようですが。

 このため、管理人は『ゴミ屋敷』であったというのは都市伝説だと考えます。確かに、その現場を見た人物がいたのでしょう。その記録を軽視するつもりはありません。でも、北斎はたびたび転居しており、”こと女”が北斎と一緒に同じタイミングで転居していたとは、管理人には思えないのです。引越にタイムラグがあったのではないか? 北斎だけが先に転居し、そこを訪れた人物が「ゴミ屋敷」と感じた。そんな気がします。

 たいして大きくない長屋です。余程ずぼらな奥さんでもそれなりに片付けるのではないでしょうか。
 ある場面を見た人の言動がそのまま北斎の人生全体のことであるかのように曲解されていると、管理人は考えます。

 ここで、再度書きますが、管理人の関心は、北斎の長寿の秘訣。北斎が不衛生な生活をしていたという根拠はどこにもないように思います。ボロを着ているのと不衛生は違います。書き損じの紙があちらこちらに散らばっているのと不衛生とは違います。先行研究を読むと、ここら辺を混同しているように思います。

  Wikipediaで「料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した」という記述があります。

 このような記述からゴミ屋敷が連想されるようです。でも、ゴミ屋敷の住民が長寿とはとても考えられない。情報が間違っているのです。ひとつひとつの情報は正しいのかも知れませんが、それぞれの状況説明を無視して、それをつなぎ合わせた時点で間違いが生じているように感じます。

 そもそも長屋は6畳のスペースしかありません。そこに、台所と土間で1.5畳。住居スペースは4.5畳。ゴミが溜まったから引越を繰り返した、という主張は腑に落ちません。「ゴミが散乱」と「引越93回」という伝聞をつなぎ合わせて誰かが創作したもののように思います。

葛飾北斎が作った脳卒中の薬を作ってみる

 北斎が68歳の時、脳卒中で倒れます。その時、自分で作った薬『そつちうのくすり』を飲んで完治し、その後はますます精力的に作品作りに励むことになります。
 北斎が作った『卒中の薬(そつちうのくすり)』とはどんなものだったのでしょうか。そんな良いものがあるのなら、是非飲んでみたい!

歌川国芳の団扇絵「名酒揃 志ら玉」改変「卒中の薬 元絵は歌川国芳、団扇絵「名酒揃 志ら玉」

 そこで、早速作ってみました(笑)。

 まずは、作り方を調べます。これは飯島虚心の『葛飾北斎伝』上巻の50ページから51ページにかけて書かれています。
『そつちうのくすりの事 
 二十四時(とき)たたざる内に用ゐる 二十四時半時かけてもききます。
 極上々の酒壹合 ゆず一ツ こまかにきざみ、どなべにてしずかに、につめ、水あめくらいににつめ、さゆにて二度くらいにもちゆる。たねは につめた上にて とりすて候。』

 図には、
 ○ゆず 
 ○こまかにきざみ 
 ○竹へらにてきざみ候、鉋丁、小刀、鉄胴の類はきらひ申候
 ○鍋 鉄銅は、きらひ申候

 Source: 『葛飾北斎伝』上巻 pp.57-58、国立国会図書館デジタルコレクション より作成

 原文は読みにくいので、現代語訳すると以下のようになります。時間は不定時法。
 『卒中の薬のこと
 二日以内に服用。その後でも効く。
 材料は、柚子1個、特上の純米酒1合。柚子を刻み、土鍋に入れて静かに煮詰め、水飴くらいになるまで煮詰める。これを白湯に入れ、一日二度ほど服用。
 作るときの注意として、柚子の成分が鉄や銅を嫌うので、柚子を切るときは竹へらを用いる。』

 レシピが分かったので作ってみます。

【材料】
 柚子 2個
 純米酒 180cc(1合)
 水 3カップ
【作り方】

  • 柚子をきれいに洗い、水気を拭き取る。
  • 竹ナイフがないので、柚子の皮を手で細かくちぎって土鍋に投入
  • 日本酒を入れて、弱火で30分煮る。
  • すると、酒がほとんど蒸発するので、そこに、水3カップを加え、1時間半弱火でコトコト煮る。

 北斎のレシピでは水のことは書いていないのですが、水を入れないと長時間煮ることができないので加えました。2時間煮た柚子がこちら。自家製の『葛飾北斎レシピによる卒中の薬』です。これで脳卒中の心配ともおさらばです。

北斎の卒中の薬

 味見してみたら、「・・・・」。砂糖が入っていないので、美味しいはずがありません。しかし、長時間の加熱により柚子の酸味はかなり飛んでいます。問題は、柚子の皮に含まれる苦み、というか”えぐみ”。

 これを美味しく飲むには、日本酒にこの液体を小さじ一杯入れて、・・・、(日本酒好きの管理人の発想です)。氷砂糖を入れても良いかも。また、できあがったシロップをホワイトリカー35度に漬け込むのも良さそうです。でも、グビグビ飲んでしまいそうで怖い!

 北斎が中風を患ったのは1827年(文政10年)、68歳の時。では、何月に発病したのでしょうか。記録はないのですが、『柚子』がヒントになります。柚子が市場に出回るのは10~12月のみ。北斎が罹患したのはこの時期だったことが分かります。

 レシピを見て気づいたのですが、このレシピのままだと柚子が出回る10月から12月頃しかこの薬を作れないことになる。脳卒中はいつ発病するか分からないので、やはり焼酎漬けが良いように思います。

 やっと半分書き終えたのでアップします。

 「葛飾北斎伝」を原書で読んでいるので、執筆がなかなか進まない。
 実は、全体版で執筆していたのですが、書き終わらないので、前半部分だけ切り離してアップすることにしました。残りの部分は、このまま、この記事に追記します。この記述が消えた時点が最終稿です。

 記事の後半部分に使う画像をアップします。北斎ファンなら、この画像がなんなのかは分かるはず。そして、その意味することとは?

男浪・女浪の秘密     男浪・女浪の秘密

1. 「北斎絵事典【完全版】」、永田生慈、東京美術
2. 「葛飾北斎伝」、飯島虚心著・鈴木重三校注 、岩波書店、1999
3. 『葛飾北斎伝』上巻・下巻、飯島半十郎 著、蓬枢閣、1893、国立国会図書館デジタルコレクション
4.  http://www.boston-japonisme.jp/japonisme/hokusai.html
5. 「飯島半十郎の生涯と思想」(その一)~(その三)、小林恵子、国立音楽大学、1999
6. 『北斎の七つのナゾ』、中右 瑛、里文出版、2002