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屋久島旅行を計画している人に役立つ情報らしい

 昨年夏、息子が屋久島に行ってきました。台風が接近しており、そもそも旅行自体が無理そうだったのですが、運良く当日は台風が通過し、無事に観光できたようです。

 台風が接近しているけれど本当に旅行に出かけてよいのかといろいろ迷ったようです。管理人は、「台風で飛行機が飛ばないからキャンセルしたら」と言った記憶があります。屋久島は島なので、そこにたどり着くには天候の影響を大きく受けます。

 息子から、「この時の旅行スケジュールの立て方がこれから屋久島旅行を計画している人に役立つと思うので、ブログで紹介したら?」と言われ、遅ればせながら今日の記事で掲載することにしました。以前にもこんなことがあったような・・・。以下、息子のメモからの引用です。

屋久島の恐竜

今回の旅行のスケージュール <概要>

日 数

旅     程

1日目

・成田空港から鹿児島へ

2日目

・鹿児島から高速船で種子島に立寄、観光
・屋久島への最終便(高速船)で屋久島へ、そこで一泊 

3日目

・屋久杉、白谷雲水峡観光

4日目

・屋久島から鹿児島へ高速船で鹿児島へ
・鹿児島から成田へ

詳細日程と旅程

 旅行は三泊四日。出発地が東京。目的地が屋久島。屋久島観光がメインの日程です。成田-鹿児島間の利用航空会社は「ジェットスター航空」。時期は8月のお盆のあたりの超繁忙期。

1日目:


15時:成田空港からジェットスター航空を利用し鹿児島へ出発(お盆休みの一ヶ月前に東京⇔鹿児島間を往復運賃4万円程度で羽田発のスカイマークを予約しようとしたが満席、そのため成田発のジェットスターを予約)
※ジェットスターは運賃に加え、別にオプション(13000円程)を追加しなければいかなる理由があっても予約のキャンセルはできない。
 欠航の際は運賃分の金券(別日程でジェットスターを使用するときに使用可能)が現金の代わりに渡されるようである。
>17時:鹿児島空港着
>17時15分頃:鹿児島空港からバスを利用し、鹿児島中央駅へ向かった
>18時頃:鹿児島中央駅着
・宿にチェックイン
宿の名前:「リトルアジア」
宿賃:一泊1500円、食事なし
アクセス:鹿児島中央駅から徒歩3分ほど
内装:男女別室のドミトリー形式で、男性は16人ほどが同じ部屋に寝る。寝床は二段ベッド
   ロッカーあり
   シャワーあり
   近くに銭湯がある、入浴350円ほど
路面電車があり、市内を移動可能、運賃は一律170円、子供料金は別

2日目:

路面電車で高速船乗り場近くへ移動
>朝7時半:高速船で種子島へ
高速船名:トッピー・ロケット
通常のフェリーに比べ半分以下の時間で目的地に着く
※お盆休みの直前に予約を試みたため、鹿児島→種子島への直通便が満席であった
 そこで、時間はかかるが屋久島経由の便で種子島へ向かった
10時過ぎ:種子島の西之表港へ到着
12時半:種子島種子島観光協会が運営する観光バス周遊バスツアーに参加(http://tanekan.jp/)
フェリーが到着した西之表港から島の最南端の門倉岬までをバスで往復した
16時半:バスツアー終了
17時半;種子島から屋久島へ
18時半:屋久島の安房へ到着
案房は屋久杉への登山口である荒川登山口へ向かうための専用バス乗り場までの最寄りの町であるため、宿泊先をここに決定
18時45分頃:観光センターで屋久杉自然館バス停留所から荒川登山口までの往復バスチケットを購入、また観光センターのスタッフが翌日のお弁当も予約してくれた
※「できたて屋」という弁当屋は弁当を4時から受け取り可能
※5時発の一便から人がいる限りバスは出るためチケットに締め切りはないため、チケットは登山前日までに島で購入すればよい
※荒川登山口までの専用バスのチケットは屋久島でのみ購入可能
※専用バス以外はタクシーで登山口まで行ける、その他の車両は通行規制がかかっているためレンタカーなどでの移動は不可能
※登山装備がない人は観光センターで装備のレンタルを手配してくれるようだ
19時:宿にチェックイン
宿の名前:「ゆかいな仲間たち」
宿賃:一泊2800円、食事なし
アクセス:案房港から徒歩15分ほど
内装:男女別室のドミトリー形式で、男性は16人程が同じ部屋に寝る。寝床は二段ベッド
   シャワーあり

種子島 rocket

3日目:

4時45分発の屋久杉自然館バス停留所行きの公共バスに乗った、6分程で屋久杉自然館バス停留所へ到着
※公共バスは宿の目の前にバス停がある
5時半頃:第4便のバスで屋久杉自然館バス停留所を出発
6時頃:荒川登山口へ到着、登山開始
※水は登山道に豊富にあるため少量で問題ない
8時50分頃:屋久杉到着
※荒川登山口から屋久杉までは4〜5時間ほどかかるのが一般的であるが今回は白谷雲水峡にも立ち寄るためにペースを早めたことで3時間弱で到着した
9時10分:朝食後、白谷雲水峡へ出発
13時頃:白谷雲水峡到着
14時頃:白谷雲水峡バス停到着
16時頃:宿へ到着
※屋久杉自然館バス停留から荒川登山口までの往復チケットを購入したが、帰りは白谷雲水峡からのバスで帰ってきたため、チケットを使用しなかった
 使用しなかったチケットは観光センターで返金可能

4日目:

7時:種子島経由の高速船で屋久島から鹿児島へ
9時半:鹿児島へ到着
10時頃:鹿児島空港へのバスに乗車
10時40分頃:空港へ到着
14時半:鹿児島から成田へ

反省点

・荒川登山口までの専用バスが混雑のため第4便になってしまったことについて

屋久杉自然館バス停留へは宿から6分ほどの距離のため、タクシーなど利用して公共バスより先に向かった方が、第1便などの早い専用バスに乗れただろう。
 以上です。

 管理人は今のところ屋久島に行きたいとは思っていないので、書かれている内容に関心はないのですが、旅行を計画している人には確かに役立つかも知れません。宿泊先などを見ると若者向きの旅程でしょうね。

 参考までに、息子は時々山登りをしています。登山の部分の記述は、体力のある人向きです。

シルクロードの旅:サマルカンド ~ ブハラ

 (本記事は、4本の記事を一つに統合したものです。)

 ウズベキスタン共和国は、シルクロードのほぼ中央に位置する。人口は約2685万で、約80%がウズベク人です。首都は、タシケントで、国の東部に位置しています。シルダリア川流域の交易都市として栄えた町です。

 国の中東部にあるサマルカンドは人口約36万の古都である。チムール帝国時代に造られた青色のタイルで覆われたドームや尖塔などからなるイスラム建築が立ち並び、「青の都」と謳われて、文化交差点として世界文化遺産に登録されています(2001年)。

 いわば、チムール帝国の遺産の町で、それ以前の建物はチムールによって徹底的に破壊されたという。
 どうもサマルカンドと聴くと「ファイナルファンタジー」にも名前が出てきたような? イスラムっぽい響きがあり、異国情緒をもり立ててくれます。

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ウズベキスタンの概要

1.概要

 ウズベキスタンは、ユーラシア大陸の内陸部、北はカザフスタン、南はタジキスタン、アフガニスタン、東をキルギスタン、西をトルクメニスタンに囲まれて存在します。その面積は447.4千km2で日本の国土の約1.2倍、旧ソ連邦の中では第4位の大きさである。国土のおよそ3/5は、ステップや砂漠で、国の東部、南部には天山、ギザル、アライなどの山脈がつらなり、山々の間にはフェルガナなどの盆地が存在する。また、内水面としてアラル海(塩湖)に面しています。

ウズベキスタン位置図

ウズベキスタン位置図2

 アラル海沿岸から中央部にかけて、乾燥した砂漠気候とステップ気候になっています。国土の60%が乾燥地または砂漠である。年間降雨量は平野部で150mm、山麓部で450mm程度です。降雨は10月から4月の冬の期間に集中しているため、山沿い地方を除いて作物の栽培には灌漑が必要になります。平均気温は1月がマイナス6℃~2℃、7月が26~32℃で、気温の日格差も大きい。

 ウズベキスタンの総人口は26.5百万(2004年)で、中央アジアの旧ソ連諸国では最大、旧ソ連全体でもロシア連邦、ウクライナに次いで3番目です。人口増加率は2.3%と開発途上国平均1.9%よりも高く、急激な人口増加が問題となっている。総人口の64%が農村で生活しており、この割合は開発途上国平均の57%を上回っています。また、総人口の25%が農業に係わっており、ウズベキスタンの基幹産業となっています。

 平均人口密度は5つの中央アジア共和国の最も高い約52人/km2です。人口密度が最も高いのはフェルガナ渓谷にあるAndijand州の464人/km²以上で、最も低いのはKarakalpakstanの8人/Km2です。年人口増加率は70年代および80年代の2.8~3.2%で安定していましたが、1990年から1994年までの間は2.2%に下がりました。この低下は独立後の困難な経済状態が原因で、他の国(ロシア連邦、ドイツ、イスラエル共和国、等)に人口の一部分が移住したことによります。

 全人口の71%を占めるウズベク人は、チュルク語派のウズベク語(アルタイ諸語)を話し、イスラム教を信仰しています。少数民族ではロシア人が最も多く8.3%を占めるが、近年はロシア連邦などへの移住により減少しています。ロシア人についで多いのがタジク人(4.7%)、カザフ人(4.1%)で、さらにタタール人、カラカルパク人、朝鮮人、キルギス人、ウクライナ人、トルクメン人、トルコ人と続く。

 住民の大半は農村に、約36%が都市部に居住しています。ほとんどのロシア人はタシケントをはじめとする工業都市に住んでいます。タジク人はブハラやサマルカンドなどの古都に多く住んでいます。カラカルパク人はおもにカラカルパクスタン自治共和国に住んでいます。首都のタシケントは人口212万人(1991年推計)で、中央アジア最大の都市であり、旧ソ連全体でもモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフについで4番目に多い。そのほかの主要な都市はサマルカンド(37万1000人(1991年推計))、ナマンガン(31万9200人(1991年推計))、アンディジャン(29万7000人(1990年推計))、ブハラ(22万8000人(1990年推計))で、東部に集中しています。

2.歴史

 ウズベキスタンの地には何世紀も前からウズベク人が住んでいましたが、国家として統一されたのは1920年代のことです。
 
 古代にはペルシャのソグディアナ州が置かれていたが、前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王に、8世紀にはアラブ人に征服されました。13世紀にチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国に併合され、14世紀にはティムールの支配下に入りました。16世紀にはウズベク人のブハラ・ハーン国とヒバ・ハーン国があらわれ、18世紀にホーカンド・ハーン国が成立します。1865~73年にはロシアの支配がこの地域にもおよび、ヒバとブハラはロシアの属国となりました。

 帝政ロシアが支配する同地域での綿花栽培が拡大されるにつれて、ウズベク人をはじめ地域の諸民族とロシアとの間で数度にわたって大規模な紛争がおこりました。ロシアが従来の作物に替えて綿花栽培を推進したため、住民は食糧が減産となったことに激しく抵抗したのです。いくつかの大規模な灌漑施設の建設計画が、劣悪な労働条件と低賃金に抗議する地元の労働者の反乱のために中断されています。1916年、各地に広まっていた帝政ロシアの支配に対する反乱にウズベク人や中央アジアの諸民族が加わり、数千人が死亡しました。

 ロシア革命後、ソビエト権力は、バスマチとよばれるウズベク地域の民族主義ゲリラの頑強な抵抗にあった。戦いの末、ロシアの属領ヒバとブハラは1920年、それぞれホラズム、ブハラの両人民ソビエト共和国となりました。

 1924年、トゥルケました。

 ウズベク共和国内のタジク自治共和国は、1929年タジク・ソビエト社会主義共和国として分離し、カラカルパク自治共和国(現カラカルパクスタン自治共和国)は36年ウズベク領となりました。第2次世界大戦後、カザフ・ソビエト社会主義共和国とウズベクの間で数回にわたって領土の移転がなされています。91年8月、ウズベキスタンは独立を宣言し、同年のソ連崩壊後、独立国家共同体(CIS)の結成に加わりました。

 独立後のウズベキスタン第1の権力者は、大統領イスラム・カリモフです。カリモフは、ソ連の解体直後に実施された選挙で86%の得票を得て大統領に選出されました。カリモフの指示により、すべての反対派勢力が弾圧されました。1992年に隣国のタジキスタンではじまった内戦の影響で、反対派に対する弾圧がさらに強化されます。ウズベキスタン当局は、タジキスタンからの難民の流入を制限し、タジク人がウズベキスタン国内で政治結社などを組織することを禁じ、またサマルカンドのタジク大学を閉鎖しました。95年、議会の要求で実施された国民投票によって、カリモフ大統領の任期を2000年まで延長することが決まりました。97年1月、キルギスのビシュケクにウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの大統領が集まり、経済と軍事関係を強化する条約に調印。同条約にはタジキスタンも98年1月に参加しました。2000年1月、カリモフ大統領が再選されました。
( 以上は「エンカルタ百科事典」より引用、一部加筆)

[略史]
 15 世紀 中頃、チンギス・ハーンの末裔のアブー・アルハイル・ハーンがキプチャック草原に遊牧民族国家建設(ウズベク民族の始まり)
1507 年 ウズベク人、ティムール帝国を滅ぼし、ブハラを中心にブハラ・ハーン国を建設
16 世紀 初頭、ウズベク人の他の一派、ホラズムにヒバ・ハーン国を建設
18 世紀 初頭、ウズベク人の他の一派、フェルガナにホーカンド・ハーン国を建設
1867 年 ロシア帝国が進出し、ウズベキスタン地域を管轄し、トルキスタン省を設立
1868 年 ブハラ・ハーン国、ロシアの属国となる
1873 年 ヒバ・ハーン国、ロシアの属国となる
1876 年 ホーカンド・ハーン国、ロシアの直轄地となる
1917 年 ロシア革命の勃発により、タシケントにソビエト政府が成立し、フェルガナ州ではイスラム勢力による政府がコーカンド自治体が成立する
1918 年 タシケント・ソヴィエト政府がコーカンド自治体を倒し、トルキスタン自治共和国を樹立1920 年ヒバ・ハーン国においてホラズム人民ソビエト共和国成立。ブハラ・ハーン国においてブハラ人民ソビエト共和国成立
1923 年 ホラズム人民ソビエト共和国、社会主義共和国となる。
1924 年 ブハラ人民ソビエト共和国、社会主義共和国となる。スターリンの中央アジア民族間国境設定により、3 ハーン国の領土にトルクメニスタン・ソヴィエト社会主義共和国及びウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立し、ソ連邦の一部となる
1990 年 ウズベキスタン共和国の主権を宣言
1990 年 3 月最高会議の選出でカリモフ大統領が就任
1991 年 8 月ウズベキスタン共和国として共和国独立宣言
1991 年 12 月独立国家共同体(Commonwealth of Independent States 略称:CIS)協定に調印・参加
1991 年12 月 大統領の直接選挙が行われ、カリモフ大統領が再選される
1992 年12 月 新憲法採択
1994 年7 月 新通貨「スム」を導入
1994 年12 月 新議会オルイ・マジリスの選挙が行われ、人民民主党が圧勝する
1995 年3 月 大統領の任期延長を国民投票90%の賛成で承認
2000 年1 月 大統領選挙、カリモフ大統領が再選

ウズベキスタンで美女発見

 二人は姉妹で、右側が現地ガイドの女性、左側がこの中のお店の店員として働いている女性です。姉妹でしっかり稼いでいます。えらい!

 でも、二人の顔立ちは全然似てない。

サマルカンドの姉妹

ウズベキスタンでコタツ発見

  なんとコタツを発見しました。やはり冬は冷えそうです。特に石造りだから。

サマルカンドで見つけたコタツ

ウズベキスタンで再び美女発見

(またか。おいおい、またかよ。

 これは首都タシケントで撮影した女学生?です。

 サマルカンドの見所は何といっても「レギスタン広場」。

 この規模には、圧倒される。尖塔が周囲に3本あった。たしか? 

 現地のガイドから聞いた話では、この建物は僧院として、子ども達が寝泊まりしながら神学を学んでいたらしい(2年前なので記憶がだんだん薄れてきた、というか、ほとんど忘れてしまった)。当時はまさかブログを書くとは考えてもいなかったので。

 ちなみに、ウズベキスタンではウズベク語とロシア語が大体半々の割合で使われていて、インテリほどロシア語を話すそうです。

 ちょっとロシア語に挑戦してみたけど、文字を覚えるのが精一杯。読めないと発音もできないので、これには困った。

 やはりスペイン語が簡単で私には合っているみたいです。
 次は、やはり世界遺産のブハラに足を伸ばしましょう。

(写真の撮影:2006年9月)

シルクロードの町ブハラ

 ウズベキスタンの世界遺産、お約束のブハラです。

 9~10世紀のサーマーン朝の時代には首都として栄え、現在もブハラ州の州都になっています。当時の面影を色濃く残すモスクや日干しレンガの街並みがあることから、1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されました。

 町全体がこのレンガ色一色で覆われていて、いやがうえにもシルクロードに立っていることを感じさせてくれます。

 この町は、サマルカンド以上に日本人の大好きなシルクロードの古代都市という感じがします。サマルカンドに並ぶシルクロードの要衝の地でした。日本人のイメージ通りの町です。

 ここでも、お土産屋の売り子も日本語を話していました。たしかに、日本人の観光客が多い。日本から比較的近い(南米に比べてですが)ことが理由の一つでしょう。

 町は小さく、1キロ四方ほど。土産売店ばかりが目に付く。移動は徒歩で十分、というか、それ以外は無理。

 下の写真は、玄関を撮そうとカメラを構え、シャッターを切る直前にたまたま出てきた女の子です。私も先方も唖然!

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ブハラ その2

 前回に引続きまして、ウズベキスタンの世界遺産の古都ブハラです。

 ブハラは小さな町で、ほぼ1キロメートルの中に主な見所が集まっています。

 市内(といっても、非常に小さい)のホテルから外に出て、歩き出すと、すぐにバザールにたどり着く。道の両側は土産物店ばかり。あまり質のよう物は売っていないので素通り。

 5分も歩くと、巨大な塔が見えてきます。カラーン・ミナールです。

カラーン・ミナール

 1172年、カラハン王朝時代に建造。高さは47mで、昔からブハラの町を示す道しるべのミナール(尖塔)としても使われていました。

 この塔から罪人を落としたとも言われています。

景観とは文化であるということをご存じでしたか。
 景観とはその地域の文化そのものなんです。

 ウズベキスタンのことを知らなければ、ただの通行人になってしまいます。中央アジアの情報はネットで見てもほとんどないですね。断片的なものばかりです。というわけで、・・・・。

ウズベキスタン ブハラ

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 次は、ここから徒歩5分のアルク城へ。わくわく!
 こんな感じのお城です。

アルク城を歩く

 シルクロードのオアシスの町”ブハラ”編の最終回です。

 ブハラは小さな町でする。前回ご紹介したのカラーン・ミナールから歩いいくと5分くらいのところに、奇妙な赤っぽい城壁が見えてきます。

 何が奇妙なのかというと、直線と曲線を巧みに組み合わせた、丸みを帯びた城壁であることです。このタイプはここでしか見たことがありません。材質は赤砂岩のように見えます。

 城壁の一部は崩壊しかけていますが、全体としてはよく保存されています。

 この城はアルク城といって歴代ブハラ・ハーンの居城だったものです。アルクとは、歩くこと・・・ではなく、城塞という意味で、アルク城というのは何か変ですが。

 アルク城のあたりが古代ブハラの発祥の地といわれ、最初に城塞が造られたのは2000年も前。その後何度も破壊され、そのたびに造り直され、現在の城は18世紀のものです。シルクロードの要衝の地として、過去にたくさんの血なまぐさい戦いが繰り広げられたのではないかと感じました。

 現在、中は土産物屋と博物館になっています。

 城の正面は広場になっていて、入り口に向かって右側上方に、ブハラ汗の玉座があり、正面のレギスタン広場で公開処刑が行われたといわれています。

 なんとも血なまぐさい城のようです。

 ウズベキスタンでは、「金」が採れます。重要な輸出品になっていますが、ブハラの近郊に金鉱があります。…しゃれです。

 露天掘りの金鉱で、あたりには何もない平坦なところを掘っているようです。外部からは見えないように塀で覆われています。

 現在のブハラ周辺は、アムダリヤ川とシルダリヤ川から取水することでアラル海を消滅させたと名高い旧ソ連時代に建設された用水路の水を使って、一面、綿花畑が広がっています。しかし、これができる以前、この地域は水がなく、作物の育たない不毛の地でした。その中でもブハラは、僅かな水がわき出た、まさに、シルクロードのオアシスだったのです。

 シルクロードが栄えた時代は、今とは全く景観が違っていたと思います。水の存在は大きいです。

 ブハラ全体が当時の面影を留めているように感じますが、実際に当時の面影として残っているのは、このような城塞跡だけかも知れません。

カラーン・モスク

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アルク城

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レギスタン広場からカラーン・ミナールを望む

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カーニバルの写真を大量にアップしています

 本館に大量にアップしています。関心のある方は是非、ご訪問ください。本館は、猫と世界遺産のブログです。ボリビアの世界遺産として登録されているスクレの最大の祭り、グアダルーペ祭の写真です。

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