日別アーカイブ: 2017年12月2日

日本書紀と古事記の暦の違いを考えてみる

 

はじめに

 いろいろ話題性のある『古事記』と『日本書紀』。

 どちらも、神代から7世紀頃までの日本の歴史が記載されています。

 ところで、『古事記』が完成したのは西暦712 年、また『日本書紀』はその8年後の元正天皇の養老4年(西暦720年)に完成したとされているようです。

 両書物の違いは、研究者により、視点が異なった解釈が行われているようです。『古事記』は、万葉仮名で書かれた物語風の書物で、『日本書紀』は漢文を用いて、事実の起こった順に年月を追って記載する編年体で書かれているようです。歴史好きの人でも、これを読める人は少ないような気がします。管理人にはとても無理です。

 『日本書紀』は、元々、漢書・後漢書などの中国正史にならって『日本書』を目指した日本最初の勅撰の歴史書だったのですが、『日本書』としては完成せず、その一部が『日本書 紀』となったようです。この『紀』は小さく書かれているそうで、『日本書紀』というものは存在せず、『日本書』の『紀』が正しいという主張を誰かがしていました。

 さて、今回、本記事では、ふたつの書物の暦の違いを考えて見たいと思います。

 『古事記』と『日本書紀』は、重複している内容が多いのですが、そこに書かれている年代が大きく異なる。

 これは、両書で使っている暦が違うからだと主張する人もいます。でも、そのように主張する方の文章を読んでも、管理人にはまったく意味が分からない。なにしろ、素人なので。

 ネットで、同じようなことをやっている方もいますが、管理人には理解できません。

 なぜ、理解できないのか考えて見ました。すると、それらの書籍やネット情報に共通していることが分かりました。それは、前提条件の提示もなく、いきなり結論・筆者の主張になっていること。グラフを使うのであれば、縦軸と横軸の意味くらい説明しないと、そもそもお話にならないレベル。それに、他人の批判に多くの字数を使いながら、自説の説明は、出典・根拠を示さずに、論旨を展開している。これが管理人の理解を妨げる原因かと思います。

 人ごとではなく、自分の書く文章も同じような過ちを犯していないか、反面教師として活用することにします。

 そこで、素人なりに、自分で考えて見るとこにしました。

 管理人には、これらの書物の編纂に携わった人たちが、いい加減に日付けを記載した、あるいは、ねつ造したとは思えないのです。

古事記と日本書紀の日付け

 『日本書紀』にはたくさんの日付けが記載されており、その数1700件以上。これに対して、『古事記』には、ほとんど日付けは記載されていません。序文を除くと、記載されているのはわずかに13件のみ。そして、その全てが天皇の崩御の日付けです。

 ここで大きな問題が判明します。同じことが書かれている筈なのに、『古事記』と『日本書紀』とでは、日付けが全く違うのです。まさに、完全に違う。

 上述したように、両書の成立は、8年の隔たりがあるだけです。それなのに、日付けが全く違うということは、ふたつの書物で採用した暦が違うと考えるのが合理的です。

 実際に、どのように違うのか見てみましょう。古事記に記載のある13人の天皇の薨去日を日本書紀のそれと比較したものが下表です。

  出典: 1), 2), 3)より作成

 古い年代の日付け単位の比較をする場合、「ユリウス日」を用いるのが暦の世界では常識だと思います。日付けの分析をするのに、年単位の数値で分析しても意味がありません。

 ユリウス日はユリウス暦を-4712年 (紀元前4713年) 1月1日まで遡って適用し、そこから数えた経過日数です。 -4712年 (紀元前4713年) 1月1日はユリウス日では0日になります。古代の日付けを計算するときに重宝します。

 上表を見ると、『古事記』と『日本書紀』で、年代が全く違うのが分かると思います。しかし、この表からだけではどこがどのように違うのか分かり難い。

 そこで、このデータを散布図に表示してみます。縦軸が日本書紀、横軸が古事記で、単位はユリウス日です。

 『古事記』と『日本書紀』の日付けが一致している場合は、赤い線上に全てプロットされることになりますが、実際はかなりのズレがあります。

 散布図から読み取れるのは、13代成務天皇から19代允恭天皇までと、允恭天皇から33代推古天皇まででは、明らかな変化点があるように見えること。すなわち、允恭天皇を分岐点として、2本のラインが引けそうです。もう一つ重要なことは、允恭天皇から推古天皇までは、古事記と日本書紀でほとんど同じ日付になっていること。そして、どの天皇の日付が違うのか、その違いの程度も、視覚的に観察できます。

 二本のラインが引けそうだということは、そのラインの式はどうなっているのでしょうか。実際にやってみましょう。

19代 允恭天皇 ~ 33代 推古天皇 まで

 19 允恭 ~ 33 推古 までの8人の天皇のうち、26 継体を除外した7人の天皇の薨去日をプロットします。

 近似線を入れてみると、決定係数(R²)が0.9973と高い値を示しています。しかし、よく見ると、[21 雄略]が少し離れています。そこで、これを除外したもので作図します。その理由は、この作業は通常の統計情報を得るのが目的ではなく、日単位の相違を見分けることを目的としているためです。

 かなり直線上の乗ってきました。決定係数は0.9999です。

 回帰式は y = 1.0061x – 11616 (R² = 0.9999)

 この式の意味を考えます。傾きはほぼ1であることから、ふたつの書物の日付けは比例関係にあることが分かります。

 Y切片、「-11616」は何を示しているのでしょうか。古事記の日付け(X)が「0日」の時、日本書紀の日付け(Y)は「-11616日」であるということです。これは概ね32年に相当する日数です。

 さらに詳しく見てみましょう。近似式はわずかですが、実際の日付けのプロットからはズレています。  では、19 允恭 – 33 推古でラインを引いたとき、そのプロットを通る一次式はどうなるのでしょうか。計算してみます。 

 19 允恭 – 33 推古、2点間を通る一次式

 Y = 1.00562795742875X – 10985.3647325148

 計算結果は、上の式になります。Y切片(10985.3647325148日)は、ちょうど30年です。

13代 成務天皇 ~ 19代 允恭天皇 まで

 次に、13 成務 ~ 19 允恭 までの6天皇でプロットしてみます。

 最初に思ったより、直線に乗りません。

 そこで、13 成務 、17 履中、19 允恭 の3天皇でプロットし、14仲哀、15応神、16仁徳を除外してみます。

 ここで、13 成務 – 19 允恭、2点間を通る一次式を求めてみます。

 Y = 2.656740811X – 3126462

神武天皇元年1月1日は、古事記の暦ではいつになるのか

 この式を使って、古事記の年代を計算してみましょう。

 神武1年1月1日は、グレゴリオ暦で紀元前660年2月11日です。そのユリウス日は、「1480407日」(Y)です。既におわかりのように、ユリウス日を使っているからこの計算が可能なのです。

 これから計算すると、古事記におけるユリウス日(X)は、「1734030日」。グレゴリオ暦では、西暦35年7月6日となります。

 この頃の日本の出来事として記録にあるのは、西暦57年、倭の奴国の王が後漢に朝貢し、光武帝より「漢委奴国王」の金印を授かる([後漢書」東夷伝)、という最古の記録でしょう。後漢光武帝建武中元2年1月に、光武帝の即位と新年の朝貢したようです。

 ついでに、倭の使節は西暦57年の何月に朝貢したのでしょうか。

 後漢光武帝建武中元2年1月は、西暦換算すると、西暦57年2月23日から始まります。倭の使節は、2月末頃に当時の都、洛陽に行ったようです。すると、冬の玄界灘を渡ったということでしょうか。実際には、洛陽までは、半年から1年かけて行ったようです。「玄界灘から黄海にかけての海域は、現在でも同じであるが、三月から七月初めごろまで、おだやかな南の風が吹き、小舟でも渡れるような日和が多い」らしい。4)

 冬の玄界灘を渡るのは、あまりにもリスクが高いので、海の穏やかな日が続く季節に渡航したのではないでしょうか。そう考えると、中国の記録にある倭の使節が、いつ出発したのかが注目されます。

Source: 『兩千年中西曆轉換

日本の暦の歴史

 日本の暦は、西暦457年に雄略天皇が即位し、この年から『元嘉暦』による記録が開始されたようです。『元嘉暦』は、中国では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、元嘉22年(445年)から天監8年(509年)までの65年間用いられました。

 その後、690年に、『元嘉暦・儀鳳暦併用』の勅が出され、697年、『儀鳳暦』への改暦が行われます。

 735年、吉備真備が『大衍暦(たいえんれき/だいえんれき)』を唐から持ち帰りますが、これを理解できる暦博士がおらず、お蔵入りに。858年に『大衍暦』と『五紀暦』が併用されます。翌859年、渤海使・烏孝慎が『宣明暦』をもたらし、それまでの『大衍暦・五紀暦』に代わり用いられることになります。

 実際の改暦は、862年になってから。貞観4年1月1日(862年2月3日)に『大衍暦・五紀暦』から『宣明暦』に改暦され、この暦が貞享元年12月30日(1685年2月3日)まで、823年間使用されました。

 古事記は、和銅5年(712年)に、日本書紀は、養老4年(720年)に完成しました。

 当時は、『儀鳳暦』が使われていたことが分かります。しかし、記紀編纂当時に参照した古い文献・古文書の日付けは、主に『元嘉暦』が使われていたと思われます。

日本の暦の歴史

西暦 和暦 出来事 出典
553年7月 欽明天皇14年6月 百済に医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本の送付を依頼。 日本書紀巻19
554年3月 欽明天皇15年2月 求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日。 日本書紀巻19
602年11月 推古天皇10年10月 百済の僧観勒が来日、暦本などを献上。陽胡玉陳が暦法を、大友村主高聡が天文・遁甲を習う 日本書紀巻22
604年2月9日 推古12年正月 百済から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、日本最初の暦が作られ、正月、暦の使用開始。『元嘉』と考えられる。 日本書紀巻19、政事要略
690年12月 持統天皇4年11月 勅を奉りて始めて『元嘉暦』と『儀鳳暦』を行う。 日本書紀巻30
 674年2月 天武天皇3年春正月庚戌 占星台が設置される。  
697年 文武天皇元年 『儀鳳暦 ( 麟徳暦)』が本格的に使われる。  
735年 天平7年 唐に留学していた(のちの)吉備真備が『大衍暦}を持ち帰る。  
763年 天平宝字7年 孝謙上皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇の覇権争いのなか、『大衍暦』の採用が決定。  
780年 宝亀11年 遣唐使が『五紀暦』を持ち帰えるも、学ぶものがおらず、しばらく放置される。  
856年 斉衡3年 暦博士大春日朝臣真野麻呂が『五紀暦』による推算を進言し、『大衍暦』との併用が決まる。  
859年 貞観元年 渤海国の大使が『宣明暦』を献上。  
862年2月3日 貞観4年1月1日 『大衍暦・五紀暦』から『宣明暦』の改暦。  
1685年2月4日 貞享2年1月1日 823年間使用された宣明暦から、渋川春海の手によって編纂された和暦『貞享暦』に改暦。  

出典:国立天文台、『暦Wiki

 日本における暦の使用という視点でまとめると次の表のようになります。

暦法 中国 始行年 使用年数 選者 暦法掲載 平朔/定朔
景初暦 魏・西晋・東晋・劉宋(237年 – 444年)・北魏(398年 – 451年)          
元嘉暦 劉宋・南斉・梁(445年 – 509年) 持統天皇6年(692) 5年 何承天 宋書 平朔
儀鳳暦 唐(麟徳暦:665年 – 728年) 文武天皇元年(697) 67年 李淳風 旧唐書・唐書 定朔
大衍暦 唐(729年 – 761年) 天平宝字八年(764) 94年 一行 旧唐書・唐書 定朔
五紀暦 唐(762年 – 783年) 天安二年(858) 4年 郭獻之 唐書 定朔
宣明暦 唐(822年 – 892年) 貞観四年(862) 823年 徐昻 唐書 定朔

 現在確認できる日本最古の暦は689年のものだそうです。

 (本当かどうかは別として)日本書紀は、681年に天武天皇が川嶋皇子らに歴史書の編纂を命じ、完成したのが720年です。古事記は、その序文を信じるならば、天武天皇が、稗田阿礼に命じてこれを『誦習』せたものを、711年に元明天皇が太安万侶に、稗田阿礼の誦習したものを本にして献上せよと命じ、翌712年に献上したもののようです。

 暦との関連で見ると、日本書紀の編纂中に二度の改暦がありました。天武天皇が日本書紀編纂を命じたとされる681年当時、どんな暦が使われていたのでしょうか。

 『元嘉暦』は、上述したように、(南北朝)宗の時代(445年)から65年間だけ使われたもので、古い暦です。日本は、この後、遣隋使も派遣しているのに、隋の暦を使わず、『元嘉暦』が200年間も使われ続けたようです。

分岐点の意味とは

 上で分析した、暦の違いと思われる分岐点は允恭天皇の薨去のあたりです。天皇が薨去されたのは、允恭天皇42年1月14日(西暦453年2月9日)のこと。続く20代安康天皇は、在位2年8ヶ月で暗殺されます。その後が21代雄略天皇。即位の年から元嘉暦による記録が始まります。

 このように見ていくと、允恭天皇(あるいは、古事記に没年の記録がないが安康天皇)が暦の分岐点になっていると見て良さそうです。 

天皇 在位(和暦) 在位(西暦)
 19 允恭天皇  允恭天皇元年12月 – 同42年1月14日  413年1月~453年2月9日
 20 安康天皇  允恭天皇42年12月14日 – 安康天皇3年8月9日  454年1月29日~456年9月25日
 21 雄略天皇  安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日  456年12月26日~479年9月9日

 雄略天皇以前に書かれた書物、それに使われていた暦は何だったのでしょうか。

 記紀の編纂にあたり用いられた資料は、日本各地で伝えられてきたもので、そこに記されている日付けは、暦の統一性を欠いたものであったと思われます。大陸との交易を独自に行っていた地方豪族たちの中には、その時代の中国の最新の暦を入手し、使っていた可能性も否定できません。

 Wikipedia(「日本書紀」)には、「稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。」とあります。「『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている。 帝紀、旧辞、古事記、諸氏に伝えられた先祖の記録、地方に伝えられた物語、政府の記録、個人の手記、寺院の縁起、日本国外の記録、その他

 日本書紀に書名を明らかにした上で記述された文章が書かれているものとして、『日本旧記』、『高麗沙門道顯日本世記』、『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』、『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』、『譜第』、『晋起居注』、があるようです。(Wikipedia(「日本書紀」)

 日本書紀は、編年体という形式を用いていることから、たくさんの日付けを記載することになります。古事記は物語なので、日付けは基本的には不要です。天皇の崩御の日付だけは、過去の文献に書いてあった日付を、”分かる範囲でそのまま載せた” という感じでしょう。その日付がおかしいかどうかという確認は、編者の関心外のこと。

 これに対し日本書紀は、起こった出来事を年代順に記してゆく方法(編年体)を採っているので、それぞれの出来事が起きた時期、できれば日付けまで分かると書きやすい。そのため、過去の文献の日付けを洗い出し、それを並べ替え、同じ出来事に複数の日付けがある場合には、どれを採用するか検討する。そして、日本(朝廷)の歴史を権威付けするために、大胆な日付けの遡りを行った。

まとめ

 本記事をまとめると、次のようになります。

  1. 古事記と日本書紀に共通する出来事の日付けの違いは、二本の直線で表すことができるかなり高い相関がある。
  2. そして、その分岐点は、允恭天皇のあたりになっている。
  3. 「允恭-推古」の直線は極めて高い相関がある。允恭、推古の二点を通る一次式のY切片はピッタリ『30年』である。
  4. 「成務-允恭」間は、高い相関があるものの、直線から少し外れているものも見受けられる。これは、引用した文献・史料の暦の問題や古い時代の記述方法の問題もあると思われる。
  5. 神武天皇元年1月1日は、古事記で使われている暦にあてはめると、『西暦35年7月6日』と計算できる。
  6. 古事記、日本書紀間の日付変換は、次式が拠り所となるのではないか。

 『19 允恭 – 33 推古、2点間を通る一次式』、『13 成務 – 19 允恭、2点間を通る一次式』

 19 允恭 – 33 推古、2点間を通る一次式
  Y = 1.00562795742875X – 10985.3647325148 (454年1月15日以降)
 13 成務 – 19 允恭、2点間を通る一次式
  Y = 2.656740811X – 3126462          (454年1月15日以前)

 

   このパラメータを少しいじると、いろいろな伝説と結びつけることができそうです。

 回帰式の分析過程で、計算から除外した天皇がいます。その顔ぶれをみると、いわく付きの天皇たちが並んでいます。その一つ一つを詳しく見ていくと、なぜ、日付けがズレが生じているのか、その理由が見えてくるのではないでしょうか。それは、意図的な日付の改ざんなのか、ルールに基づいた年代変更のための改ざんなのか、それとも、伝承の誤りなのかも推測できそうです。そして、明らかな日付の改ざんが見つかったとき、本来の日付けを推定することも、一次式から可能になります。年ではなく、日付けで調べることができます。

 古事記は、1年程度で編纂した即席本のようです。(現存しない)当時入手できた史料に基づき、それらの史料に書かれてある年をそのまま記載しているという感じです。

 日本書紀に書かれている古い年代の『年』が本当のことだと考える人はいないと思います。神武天皇が紀元前660年に即位したなど、だれが記録し、それは、どんな暦を使って7世紀まで伝えられてきたのか、という基本的な問題に直面します。暦がないと、昔のことは語れない。

 弥生時代晩期の遺跡から日付のある文書、あるいは遺物が見つかると楽しいのですが。

おわりに

 この記事は、元々、「卑弥呼の日食」のデータ解析について書こうと思って執筆を始めたのですが、まずは暦の勉強をということで調べていくうちに、日食にたどり着く前に記事のボリュームが増えたので、ひとつの記事としてアップすることにしました。

 この記事を書くために、いろんな文献を読んだのですが、共通して言えることは、執筆者が「自分の主張を認めて欲しい」という願望から、他のまっとうな研究者の成果を貶すという書き方です。議論をするのは全く問題ないのですが、相手を貶したり、「だから歴史学会は・・」的な論調になるのは避けた方がよいと思います。その部分を削除すると、結局は、自分の説のアラが浮き彫りになります。

 井沢元彦氏の小説は好きなのですが、「逆説の日本史」シリーズは、この手の批判が多すぎます。過去の研究者の成果を使って書いているのに、お山の大将になりたい人の文章にはウンザリします。この批判部分を全面削除すると、ページ数は2割は減るのではないでしょうか。その字数があれば、もっと自説を分かりやすく読者に伝えることができるのに、と思ってしまう。他の研究者の批判という部分を取り除いて読むと、その人の論旨の矛盾が赤裸々になります。

 とはいいながら、管理人も、同じような書き方をしてしまうので、自戒!  他者の説を批判することに字数を使うのではなく、中身で勝負! これが理想かも。

 欠史八代の分析も上で示した式でできそうですが、管理人は興味がないのでやりません。管理人のここでの目的は、この式を得ることなので。

出典:
1) 古事記・日本書紀の日付け: 『倭人の暦を探る -数字から読み解く歴史の謎-』、谷崎俊之(大阪市立大学理学研究科)
2) 和暦・西暦・ユリウス日: 『換暦
3) 日数の差: カシオ、KEISAN
4) 『邪馬台国発掘』、奥野正男、PHP文庫、1989
5) 『日本の暦』、国立国会図書館