月別アーカイブ: 2016年10月

映画「インフェルノ」を見てきました

 今日公開の映画「インフェルノ」を見てきました。「ダ・ヴィンチ・コード」で有名になったダン・ブラウンの小説の映画最新作です。

INFERNO

 小説は以前読んでいたので、映画化されると聞いて今日の日を待ちわびていました。
 久しぶりに見るトム・ハンクス。年をとったなぁ~。

 映画自体は、・・・・、小説の方が面白い。

 監督は「ダ・ヴィンチ・コード」と同じロン・ハワード監督なのですが、「ダ・ヴィンチ・コード」の方が出来が良かった気がします。
 
 やはり、キャストに問題があるのかも。吹き替え版で見たのが問題なのかも。

 少し違和感を覚えました。その違和感とは、たぶん、CGに頼り切っている映画の作り方のような気がします。場面の切り替えを多用して、CGのつたなさをごまかそうとしている。そんな気がしました。映画全体が嘘っぽい。これが結論でしょうか。

 管理人が気に入ったのは、WHOの女医エリザベス。シセ・バベット・クヌッセン(Sidse Babett Knudsen)という女優さんが演じています。50歳は過ぎているのかと思ったら1968年11月22日生まれで、今年47歳なのだそうです。少し、しわが目立ちますが素敵な女優さんです。

 ヒロインはイギリス人のフェリシティ・ジョーンズ。彼女がいまいちという感じでした。ダ・ヴィンチ・コードのヒロイン、オドレイ・トトゥと比較するとかなり見劣りします。

 ダン・ブラウンの小説の映画では、ヒロインはそれほど美人ではない個性的な人を使っていると思います。それでも、今回のヒロインは、ちょっと期待外れかも。

 次に映画化されるのは『ロスト・シンボル』(The Lost Symbol)でしょうね。次回作に期待します。
 

世にも不思議な明治の贋札事件の謎を追う

 今日は、明治11年(1878年)に発生した偽札事件について書きたいと思います。皇女和宮が亡くなった翌年の事件です。

 

 

とても奇妙な明治の偽札事件

 明治時代にも偽札(贋札)事件がありました。「藤田組贋札事件」と「熊坂長庵贋札事件」という何とも奇妙な事件です。

弐圓の札束   Photo: 弐圓札、by Nekoshi

 この二つの事件は、実際には同じ偽札事件に関わるものですが、前者は不起訴、後者は終身刑となり獄死という明暗を分ける結末を迎えることになります。

 何が奇妙かというと、両方の事件ともに冤罪らしいのですが、今なお真相は謎のままなのです。

事件の何が謎なのか

 まず、事件の発端は、明治11年(1878年)秋に各地から納付された税金の中に『弐圓(2円)』の贋札が大量に発見されたことでした。その犯人とされたのが藤田組(当時は藤田傳三郎商社)の社長、藤田傳三郎で、元従業員木村眞三郎から告発されたことで発覚したものでした。

 ここでもう一人、キーパーソンが登場します。当時、大阪の判事補であった桑野禮行です。

 「1879年春に、大阪の判事補の桑野禮行に友人の石原厳が、かつて藤田組に勤務していた木村眞三郎を紹介した。木村は、1876年末に藤田組に雇用され、西南戦争に際して長崎に出張して相当に働きを認められていたが、不都合があり1877年末に解雇された。そのため、木村は藤田組と訴訟中であった。その木村が贋札事件への藤田組の関与を桑野に告白したのである。そこで、桑野は木村に事情を文書にするよう求めた。そこで木村の書いた「実地録」が、藤田組贋札事件の発端となった。[p.47-48]。

 「「実地録」の要旨は、傳三郎は井上馨と共謀し、井上が欧州巡遊中にドイツ・フランスで紙幣を贋造した。そして、1876年10月に贋札を参議井上馨御用物として日本に送り返した。木村は、舶来の函の中に確かに青紙幣を見た。また反物の中に巻き込んである紙幣をも実際に見た。長崎に出張した際に、まだ世間に通用していない新紙幣数万円を見た。そして、1877年11月に藤田組大座敷次の間で、藤田辰之助と手代の新山陽治から、これらの秘密を聞き、その後、四畳半の間で両人から他言しないよう誓約を求められ、誓約書を認めたなどの内容であった。井上が、1876年6月から1878年7月まで、理財研究のため欧州に滞在していたのは事実であった。」[p.48]

 桑野は「実地録」を警視局中警視の安藤則命(のりなが)に提出します。安藤は、後で出てくる大警視川路利良の洋行中、さらに死亡した後に川路の代理として本件捜査の責任者となる人物です。

 1879年(明治12年)9月15日、早暁の大阪で、東京警視局の権大警部佐藤志郎はじめ中警部、少警部率いる巡査70人により藤田傳三郎、共同経営者の中野梧一をはじめ藤田組幹部の多くが逮捕されました。一部の幹部は東京などでも逮捕されました。その後、逮捕者について厳重な取り調べが行われました。なぜ、東京警視局が管轄外の大阪で・・という疑問が生じます。

 警察では逮捕時に店の現金・諸帳簿類を封印し、また、取引先の第一国立銀行支店、第三十四国立銀行へも現金・帳簿の調べが行われました。

 しかし、贋札製造の証拠は一切見つからず、現金の中に贋札は一枚も発見されません。そのうえ、逮捕者たちの自供も得られません。このため、この件は不起訴となり、藤田らは釈放されます(12月2日)。誤認逮捕だったことになります。したがって、『藤田組贋札事件』ではなく、『藤田組贋札冤罪事件』が正しい記述です。その後、虚偽の告発を行った木村眞三郎は、翌1880年(明治13年)1月9日、東京裁判所にて懲役70日に処せられます。

 さらに、桑野禮行は逐電し、行方をくらませますが、逮捕されます。

 犯人逮捕に向け捜査が進展するのはそれから2年後のこと。1882年9月20日に神奈川に住む医師、熊坂長庵という人物が偽札製造・同行使の容疑で逮捕されます。熊坂長庵は一貫して無罪を主張しましたが、最後には自白したようです。

 裁判は極めて慎重に行われましたが、熊坂長庵逮捕の際に自宅から押収された偽札等の証拠物件の存在は動かしがたく、1882年12月8日、神奈川重罪裁判所で贋札偽造同行使の容疑で無期徒刑(無期懲役)を宣告されました。判決から3年後(1238日後)、明治19年(1886年)4月29日、熊坂は収監先の札幌市郊外にあった樺戸集治監で獄死しています。ちなみに、樺戸集治監は、明治14年(1881)8月に内務省所轄で開庁した重罪犯を収監する刑務所でした。

 熊坂という真犯人が見つかり、明治の偽札事件も無事に解決。めでたしめでたし!  ではないのです。この事件にはとても多くの謎があり、現代では、熊坂冤罪説が主流のようです。そして、真犯人は、長州ファイブのひとり、「井上馨」という説も当時から囁かれていました。

 最初に書きますが、管理人は「井上馨」という人物を高く評価します。偽札事件の黒幕とはとても考えられない。井上馨にしろ、北海道開拓使官有物払下げ事件における五代友厚にしろ世間の誹謗中傷に対して一切の言い訳をしませんでした。それをいいことに一方的に汚名を着せられ、それが本当のことであるかのように思い込んでいる現代人もたくさんいます。

 「井上馨」黒幕説は、何ら根拠がありません。出てくるのは当時の風評ばかりです。それをあたかも有力な状況証拠であるかのごとく扱って仮説を構成しています。そのようなインチキをしなければならないほどこの事件の情報が少ないということでしょう。

 そこで今回の記事では、少し詳細にこの事件を追ってみたいと思います。

 この贋札事件については、Wikipediaの関連記事の唯一の出典になっている佐藤英達氏の『藤田組の発展その虚実』という本に詳しく書かれているので、本記事でもこれを参考に記載したいと思います。以下、引用箇所は同書を基本とします。

藤田組贋札事件

 「藤田組の発展その虚実」から以下、長文の引用をします。

 「この贋札は、京都・大阪・兵庫・岡山・鹿児島から集められた税金のうちの2円紙幣であった。贋札は、きわめて精巧で真贋の鑑定は困離であった。

 この2円紙幣は、1871年の新貨条例により、従来の太政官札、民部省札、藩札などと交換回収し、紙幣を統一するために1872年から流通した100円から10銭までの9種の「新紙幣」という名称の政府紙幣の一つであった。明治政府の発注で、ドイツ・フランクフルトの印刷業者ビー・ドンドルフ&シー・ノーマンス・ドルグレー印刷会社が印刷し、日本で通し番号を打ち押印した紙幣と、同図柄で1877年にドイツから印刷設備一式と原版を輸入し、日本で生産した紙幣があった。このうち2円紙幣は、ドイツ製539万円余、日本製1958万円余が生産され、1905年末まで流通した。

 藤田組贋札事件に関する贋札と確隠される偽造紙幣は、現存していない【偽札は発見次第即時切断処分の規定があったため】。今日、日本銀行と警視庁に保管されている2円札の贋札には、技術的に異なる3種がある。これらの贋札は(日本製の)真札が和紙に凸版印刷であるのに、鉱物質の填料の混じった雑用紙に凹版印刷でインクも異なっていた。

 1878年11月に、大蔵省出納局から内務省警視局に捜査の依頼が行われた。捜査のために大蔵省の機密費が警視局に支出されたという。当時は、西南戦争の直後で、政府内部の薩摩派が逼塞し、長州閥がかなりの勢力を誇った時期であった。わずかに警視局がほとんど薩摩出身者で固められていたのみであった。そして、当時の大蔵卿は、たまたま肥前出身の大隈重信であった。

 このため、藤田組贋札事件に関して、政府内部の長州出身者を妬む嫉長派の存在と暗闘が、しばしば指摘される。」(p.46。カギ括弧【 】は管理人) 

熊坂長庵贋札事件

 「藤田組の発展その虚実」から以下、長文の引用をします。

 「藤田組贋札事件の真犯人に関して、1882年9月20日に逮捕され同12月8日に神奈川重罪裁判所で贋札偽造同行使の容疑で無期徒刑を宣告された、神安川県愛甲郡中津村の熊坂長庵の名がしばしば挙げられる。

 この熊坂長庵こと熊坂澄(くまさかちょう:1844.1.1-1886.4.29)は控訴したが、1883年に大審院で上告が棄却され判決が確定した。熊坂は、北海道の札幌郊外の月形村(現月形町)にある樺戸集治監で服役し、1886年に獄死した。

 時の政府が藤田組贋札事件の真犯人を必要としていたことは確かであった。捕縛時に贋造紙幣などが押収されていることから、熊坂が紙幣を贋造していたことは事実と思われる。弁護人の森大次郎は、贋札製造容疑に関しては争わなかったとされる。熊坂自身は哉判では、一貫して無実を主張している。

 一審判決文には、贋札815枚、偽造用の器具用紙などが自宅から押収されたことの他、贋札行使に関しては「遊蕩ニ漫遊ニ其他処々行使シテ」と記し、「充分ナル証憑ニ因リ認定」とある。贋札行使に関して、判決文は具体的に明確に記していない。贋札2000枚余の行使は、尾佐竹の記述による。

 1882年に熊坂長庵が摘発された当時は、1880年太政官布告第36号(刑法改定)が適用されるべき法規で、182条で「内国通用ノ金銀貨及ヒ紙幣ヲ偽造ンテ行使シタル者ハ無期徒刑ニ処ス」とされていた。使用しなければ、通貨の贋造を行っても罪に問えなかった。その意味で、今日的視点からは、通長庵の裁判の判決文は明快さを欠く所があるのは否めない。同時に判決文には、藤田組贋札事件との関連は全く示されていない。

 当時の新聞には「神奈川県下相模国愛甲郡中津村17番平民熊坂長庵は(中略)先年藤田疑獄の際に発見したる者と似寄りの向もあれば彼の贋造も全く此の者の所業ならんかと言へる者あり」と記したものがある。

 熊坂長庵の固有名詞のないまま「藤田組贋札製造人神奈川県にて捕縛せられたり」云々と記した記事もある。

 藤田組贋札事件との関連では、「熊坂の裁判は慎重に行われ、特に藤田組との関係について相当突っこんだ訊問が行われたが一切を否定し」たともいう。前述のように、判決は押収した贋札を815枚としているが、当時の新聞には押収された2円紙幣は300円余と報道しているものがある。

 しかし、藤田具も贋札事件の際のような精巧な偽札製造は「長庵の技術では、とてもできないものであった」とされる。 自由新聞の記事をもとに検証し、判決の前提となった自白は拷問の結果によるものという推論もある。

 官営鉄道東海道線の開通以前のこの時期、個人犯罪で神奈川県で製造された贋札が、関西を中心に通用していたというのは考えにくい。熊坂が、藤田組贋札事件にかかる紙幣贋造犯であったとは思われない。」(前掲書pp.52-53)

 佐藤英達氏の書籍「藤田組の発展その虚実」は本当によく調べられています。本記事でこの書籍からあえて長文を引用している理由は、後で出てくる他の書籍との対比をしたいからです。

そもそも贋札の『弐圓紙幣』って何?

 井上馨黒幕説にも関係するので、偽札『弐圓紙幣』とはどんな物だったのかを調べてみました。

 明治政府は、1868年(明治2年)に金座や銀座を貨幣司に吸収し、藩札については、1871年(明治4年)の藩札処分令によって廃止。同年2月に現在の造幣局にあたる造幣寮が開設されて、5月に新貨条例の制定があり、『円』という単位が正式に採用されました。当時はイギリスから広まった国際的な金本位制が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、アメリカ・ドルの1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする本位貨幣が定められました。貿易専用貨幣として、1円銀貨も発行されました。そのモデルとなったのはメキシコの8レアル銀貨です。海賊の財宝によく出てくる有名な銀貨で、国際貿易決済上の標準通貨でした。

 1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)まで、戊辰戦争の戦費や殖産興業の費用調達を目的として、明治政府により金への交換の裏付けがない不換紙幣である『太政官札』が発行されます。明治政府は1871年(明治4年)7月に紙幣司(現在の国立印刷局)を設置します。この時に発行された新紙幣はドイツで印刷・製造されたため『ゲルマン紙幣』とも呼ばれました。1873年(明治6年)には国立銀行紙幣の旧券が印刷さます。(出典:Wikipedia)

 さて、問題の『弐圓紙幣(2円札)』ですが、次のように造られ流通しました。

 ・サイズ:111mm×72mm
 ・製造元:明治3年10月にドイツに注文。明治5年2月に紙幣寮にて準備に着手。明治10年7月~11年6月にドイツ原版を使い日本で製造。
 ・発行枚数:(独製)2,695,298枚(21.6%)、(日本製)9,792,989枚(78.4%)
総発行枚数 12,488,287枚(額面総額:24,976,574円)
 ・発行期間:明治5年6月~32年12月

 このように、贋札が発見された明治11年という年は、日本で弐圓札の製造を開始した時期と重なります。後で出てきますが、この贋札がドイツ製だったのか、日本製だったのかと部分にも関係してきますので、このことは覚えておきましょう。

 当時、紙幣にはどんなものがあったのでしょうか。

 明治5年に『ゲルマン紙幣』9種類が発行されています。この中の1種類が偽札製造のターゲットになります。

  データ出典:明治期のお金

 現在、日本のお札を印刷しているのは独立行政法人の「印刷局」であり「造幣局」ではありません。造幣局は硬貨の製造を行っている機関です。

 今回の贋札事件の頃までの「印刷局」の動きを年表にまとめると以下のようになります。国内では、どこで紙幣を印刷していたのかが分かります。

西暦(年号)

月日

事    項

1871年(明治4年)

7月27日

大蔵省内に紙幣司創設

1871年(明治4年)

8月10日

大蔵省紙幣司を紙幣寮と改称

1872年(明治5年)

9月20日

太政官正院印書局設立

1875年(明治8年)

4月

抄紙局設置(現王子工場)

1875年(明治8年)

9月4日

大蔵省紙幣寮と太政官正院印書局が合併され大蔵省紙幣寮となる

1876年(明治9年)

4月5日

抄紙局操業開始(現王子工場)

1876年(明治9年)

10月10日

印刷工場が東京大手町に落成

1877年(明治10年)

1月11日

大蔵省紙幣寮を紙幣局に改称、現業官庁となる

1877年(明治10年)

国産第1号紙幣を製造(国立銀行紙幣一円(新券)12月28日発刊)

1878年(明治11年)

12月10日

大蔵省紙幣局を印刷局と改称

  Source: 「国立印刷局

 ついでに、「政府発行のお札」の歴史を見てみましょう。明治時代にはたくさんの種類の紙幣が発行されているので、混乱してしまいます。

出来事

慶応4年(1868年)

日本で初めての全国通用の政府紙幣「太政官札(だじょうかんさつ)」発行

明治3年(1870年)

単純な製法のため偽造券が多発した太政官札にかわる「新紙幣」(ゲルマン紙幣)製造をドイツに依頼(明治5年発行)

明治4年(1871年)

「国立銀行券(旧券)」製造をアメリカに依頼(明治6年発行)

明治10年(1877年)

国産第1号の様式紙幣「国立銀行紙幣(新券)」発行(キヨッソーネが日本で初めて彫刻した紙幣)

明治14年(1885年)

初めての「日本銀行兌換銀券」が発行され、大黒天の絵柄から「大黒札」として親しまれる。

    Source: 国立印刷局HP

 上の表を見て気づくのは、贋札が見つかった明治11年には、明治5年発行のゲルマン札と明治10年発行の「国立銀行紙幣(新券)」が流通していたということ。ゲルマン札はこの後、明治32年まで流通しています。まさに、紙幣乱立の時代です。

 「弐圓贋札」は極めて精巧につくられていたとされています。

 これって、本当でしょうか。もし、本当ならば、だれがその精巧な偽札を税金の中から見つけ出したのでしょうか。どうして、偽札と気づいたのでしょうか。疑問は膨らみます。

明治時代の2円は現代ではいくらの価値があるのか

 というおバカなサブタイトル。明治は45年間もあるのに、そんなことを答えられるわけがありませんね。当然、年による変動が大きいはずです。などと調べもしないで知ったかぶりをしていると批判を浴びそうです。

 明治期の物価変動は、かなり小さかったと見ることができます。明治元年から45年までの年平均物価上昇率は7.8%でした。事件のあった明治11年から10年間の物価は0.5%しか上昇していません。完全にデフレ状態で、物価が前年より下がっている年もあります。物価が急激に上昇するのは戦争が原因になっているようです。

         Source: [5]参照

 では、偽札事件が発生した明治11年(1878年)の”2円”は、現在の価値ではいくらなのでしょうか。これなら、調べることができそうです。

 でも、これは、かなりめんどくさそうです。

 最初に、設問の内容を確認しておきましょう。問いは「偽札事件が発生した明治11年(1878年)の2円紙幣は、現在の貨幣価値ではいくらなのか」とします。

 明治11年の草履の値段と現在の草履の値段を比較しても意味がないことは誰でも分かります。そもそも、草履を買うことすら難しい。

 一般には『米価』で比較します。しかし、この方法もかなり問題があります。

 昔の人って、一日にどのくらいご飯を食べていたのか知っていますか?
 今から見たら信じられない量のお米を食べていました。

 明治時代に入ると、庶民の1日の米消費量は一人当たり5合と計算されていました。ネット上には、一人一日3合という記述も目にしますが、お米好きの日本人がそんな量で済ますわけがありません。また、軍隊では一人1日6合が支給されていたようです。(ちなみに、お米1合の重量は約160gです。)

 お米の一人当たりの年間消費量は、明治11年から15年では、116Kg(0.778石)でした[1]。これが現在は、59.5kg(平成15年、農林水産省(試算))に半減しています。現在は、お米の加工品も含め、様々な原料の食べ物があるのが消費量減少の理由の一つでしょう。

 このように、資料に基づき根拠立てて説明されると、本当のことのように思ってしまいます。

 人の書く文章は疑ってかかりましょう!(笑)。

 明治の人が毎日5合の米を食べたとします。その重さは、5合 x 160g/合 = 800g
 ご飯は毎日食べるので、これに365日を掛けると、一人当たりのお米の年間消費量として292kgという値が得られます。 800g/日 x 365日 = 292,000g = 292kg

 上で書いた説明では、116Kgとなっているので、全く数値が違います。3倍も違えばもはや誤差などというレベルではない。この答えは、・・・・自分で考えましょう!

 この項の設問の答えは、書くのがとても難しいように思います。

 そもそも、1俵、2俵という単位に使われる「俵(たわら)」の中に入っているのは、籾米(もみまい)ですか、玄米ですか? それとも白米ですか。それによって、重さも、価格も異なります。

 最初に書いた「貨幣価値」って何ですか? このようなそもそも論にぶち当たります。要は、(あなたが知りたいと考えている)「貨幣価値」とは何かを定義しないと、この話は前に進まないのです。
 
 理屈ばかりでそんな細かいことは誰も知りたくないよ。結論は?

 根拠を書くのは難しいし、書いても意味があるとは思えないのですが、ざっくり言って、・・・。
 物価上昇が小さかったことを考慮すると、当時の1円は現在の2万円程度と言えそうです。

 2円紙幣の偽造なので、4万円相当です。このことから、贋札製造犯にとって、かなりモチベーションが高い仕事であったと思われます。

 なぜ、偽造紙幣が「弐圓札」だったのか。その理由は、これより高額面の紙幣は流通が少なく、すぐに足がつく。逆に、低額面の紙幣では偽札の製造コストから考えてペイしない。

 だから、偽札としての金種には『弐圓札』が選ばれたと管理人は推測しています。

 「日本銀行金融研究所貨幣博物館」が面白い資料を提供しています。「江戸時代の1両は今のいくら?  ―昔のお金の現在価値― 」というタイトルで、その中に以下のような記述があります。


 
 この計算式の中で、現在の精米価格と当時の玄米価格を比較している点が気にかかりますが、ザックリ言えばこんな感じでしょう。玄米⇒精米の換算に0.9を掛けてもよいのですが、そもそも、現在の精米と当時の精米では精米する程度、”つき方”が違います。当時の人たちが食べていた「精米」とは何分づきだったのでしょうか(笑)。きりがないですね。だから、ザックリと。

「ゲルマン紙幣」の印刷所の謎

 「ゲルマン紙幣」は、ドイツで印刷されました。では、ドイツのどこで印刷されたのでしょう。そして、誰が印刷したのでしょうか。つまり、「ゲルマン紙幣」を印刷したのはドイツのどいつだ?

 これを調べてみます。

 「ゲルマン紙幣」が造られたのはフランクフルト。1871年1月1日、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立ました。明治政府が「ゲルマン紙幣」をフランクフルトの民間印刷会社に発注したとき、つまり、明治3年(1870年)には、ドイツという国はなく、フランクフルトは北ドイツ連邦に属していたと思います。ドイツの歴史はとても複雑でさっぱり分からない。

 明治政府から依頼を受け「ゲルマン紙幣」を印刷したフランクフルトの会社は『ドンドルフ・ナウマン社』(ビー・ドンドルフ、ドンドルフ・ナウマン印刷会社)でした。

 当初、日本政府はイギリスに新紙幣を発注する予定でしたが、ドイツのドンドルフ・ナウマン社による当時最先端の印刷技術である「エルヘート凸版法」による印刷の方が偽造防止に効果があるとの売込みがあったことからこれを採用します。そして、1875年(明治8年)、同社の技師であるエドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone, 1833年1月21日 – 1898年4月11日)を日本に招聘することになります。

 ここで重要なことは、『弐圓紙幣』が当時最新鋭の「エルヘート凸版法」で印刷されていたにもかかわらず偽造されたということです。

 この技術を使って、日本で贋札を造ることができたのは誰でしょうか。

 「キヨッソーネの下で最新の印刷技術を学び、その後凸版印刷の創始者となる木村延吉と降矢銀次郎の二人の技術者は、当時最先端の印刷技術である「エルヘート凸版法」を基礎に、日本の印刷業界のさらなる発展を考えていました。(凸版印刷HP)」

 凸版印刷の創始者となる木村延吉と降矢銀次郎の二人の技術者であれば、贋札を造ることができそうです。しかし、それはあり得ません。警察が最初に疑いをかけるのは、この二人だからです。当然、捜査の手は二人の所まで及んだと思いますが、具体的な捜査線上に浮かんだというような記録を確認できません。

 それでは、ドイツで製造された贋札が日本に持ち込まれたのでしょうか。もしそうであるのなら、紙幣印刷を受注した『ドンドルフ・ナウマン社』が最も怪しいということになります。

川路利良大警視の二度目の欧州視察の本当の目的とは

 川路利良(としよし)という人物をご存じでしょうか。初代大警視(警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」と呼ばれている方です。1877年(明治10年)1月、内務省警視局大警視として、贋札事件の最高責任者でした。

 彼は現在、青山にお住まいです。今年4月にお邪魔して、写真を撮らせていただきました。

  Photo: Nekoshi 2016

 管理人としては、川路利良は『岩倉使節団の後発隊メンバー』として記憶しています。1871年12月23日に横浜港を出帆した『岩倉使節団一行』の後を追うように、翌1872年3月に左院視察団として、左院5名(高崎正風、安川繁成、西岡逾明、小室信夫、鈴木貫一)、さらに司法省8名(河野敏鎌、鶴田晧、岸良兼養、井上毅、益田克徳、沼間守一、名村泰蔵、川路利良)がヨーロッパに派遣されます。

 これとは別に、1872年3月26日、吉田清成・大鳥圭介・由良守応・中島政之允などからなる外国債券募集のための『吉田使節団』も派遣されています。この使節と岩倉使節団については過去記事『岩倉使節団のなぞの解明』をお読み下さい。

 さて、話を川路利良に戻します。明治5年の左院視察団に参加した川路は、帰国後、明治7年(1874年)に創設された東京警視庁の初代大警視(後の警視総監)に抜擢され、辣腕を振るいます。

 弐圓贋札が発見された当時は、内務省警視局のトップである大警視でした。

 明治12年(1879年)1月、川路は二度目の洋行に出かけます。欧州の警察を視察が目的とされています。これは、どう見ても不自然です。内務省警視局トップの大警視である川路がわざわざ視察に出かける。それも、派遣期間は2年間とされていたようです。これは単なる欧州の警察視察ではなさそうです。

 薩摩藩閥で固める警視局の贋札捜査に対する動きを牽制し、事件を穏便に終わらせるため、長州派閥で固めている政界上層部が、警視局トップの川路に突然の洋行を指示し、捜査から外した、という見方もあるようです。しかし、もしそのような意図による洋行命令であったなら、川路はその指示には従わなかったのではないでしょう。

 川路が自ら二度目の洋行に出かけた理由は他にあるのではないでしょうか。
 Wikipediaの記事でこのあたりを確認してみましょう。

「明治12年(1879年)1月、再び欧州の警察を視察。しかし船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩したが、宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまう。咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島尚信駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなかった。同年8月24日、郵船「ヤンセー号」に搭乗し、10月8日帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日に死去した。享年46。関西の政商である藤田組が汚職の捜査を恐れ毒殺したという噂も立った。(Wikipedia:「川路利良」)」

 Wikipediaの記述を読んでも要領を得ない。川路の二度目の海外視察は謎が多い気がします。情報がほとんどないのです。
 視察の目的は何だったのでしょうか。目的地はどこだったのでしょうか。なぜかどこにも情報が見つからない。同行者も不明だし、出発した日付けすら分かりません。分かっているのは、明治12年(1879年)1月の出発し、パリに到着したこと。8月24日、郵船「ヤンセー号」に搭乗し、10月8日帰国。そして、その5日後の10月13日に亡くなったこと。

 帰国の時に乗った船の名前は書いてあるのに、それ以外のことは何も書いていない。どうでもよい情報を羅列することで、重要な情報が欠落していることをごまかそうとする。情報を隠蔽するときに使われる典型的な手法です。

 Wikipediaの記述にある「転地療養」も気になります。どこで療養していたのでしょうか。

 「転地療養」と聞いて思い浮かぶのがNHK大河ドラマ「八重の桜」で有名になった新島襄。彼は、アメリカで岩倉使節団に参加し、ヨーロッパに渡りますが、1873年1月、立ち上がれないほどリュウマチが悪化した新島は使節団を辞職し、ドイツに残って温泉治療に専念します。

 新島襄が療養のため滞在したのがドイツのフランクフルト郊外にある国際温泉保養地のヴィースバーデンでした。

 Wikipediaにある「関西の政商である藤田組が汚職の捜査を恐れ毒殺したという噂も立った。」という記述は本当のことで、それだけ川路という人物の正義感が世間から評価されていたといえます。

 では、なぜ、警視局トップの要職にある川路自らが、解決すべき難題が山積している日本を離れ、ヨーロッパに二度目の旅に出たのか。西郷を尊敬する川路が下野せずに政府内に留まった理由から考えてもこの旅はとても不自然です。

 本当の目的は、贋札の製造がドイツで行われたとの情報を得て、その真偽を確かめるために、渡航経験のある自分が出かけた。このように考えるのが妥当のように思います。偽札というとてもデリケートな問題なため、渡航経験のない他の官吏では現地調査など不可能です。だから自ら現地調査に赴いた。

 もし、そうであるのなら、その時の捜査対象とは何だったのでしょうか。

 それは、弐圓紙幣の印刷を明治政府から受注して製造した『ドンドルフ・ナウマン社』ではないでしょうか。

 川路の渡欧の真の目的が贋札製造の証拠固めであるとするならば、彼の行動が記録に残っていないことも理解できます。渡航経験のある川路だからこそ、贋作製造の証拠をドイツで見つけることの困難性を知っていた。だから、部下に任せず、自らが渡航する必要があったとも推察できます。

 外国の警察組織の視察であれば、当時、世界で最も優れた警察機構を持つフランスだけで十分です。しかし、川路はフランクフルトに行かなければならない。贋札はフランクフルトの『ドンドルフ・ナウマン社』が大きく関与していると睨んだのでしょう。直接、フランクフルトに向かうと、この贋札事件を政治的に終決させようとする明治政府上層部との衝突は避けられない。下手をすると帰国させられる。

 パリに到着早々、病気を発症(あるいは悪化)させ、転地療養が必要となります。その療養先はドイツのフランクフルトだったのではないでしょうか。

 川路がこの視察旅行でヨーロッパに滞在していた期間は、半年に及びます。

 このあたりをさらに調べてみました。
 明治12年1月9日、川路の洋行に随行する次の随員が決まります。派遣期間は2年間。

  少警視兼太政官 佐和正    高等警察事務一般
  一等警視補   小野寺元熙  監獄及び消防制度、警察費について
  同       林誠一    司法警察制度
  同       田中耕造   翻訳専務
  二等警視補   大山綱昌   憲兵と巡査の関係
  内務省御用掛  駒留良蔵   通訳
  同       藤井三郎   通訳
  川路の従者   五代与七(金次郎) 川路の甥

 川路の西欧警察視察団は、明治12年2月12日に横浜をフランスの郵船「チーブル号」にて出港。本港、サイゴン、シンガポールなどを経由して、3月27日にマルセイユに到着。

 川路はこの船中で病を発します。佐和が残した日記から川路の病は結核であったと考えられています。一行は4月3日にパリに到着しますが、川路はホテルで寝込んでしまいます。

 病状は回復せず、”南方への転地療法を行った”が、病状悪化により、8月27日、帰国することになりました。

 大山、駒留、五代の三人が付き添って、8月24日マルセイユを出港。10月8日に横浜に着きましたが、危篤状態のまま自宅に搬送。帰朝から5日後の10月13日、川路は46年の生涯を閉じました。[11]

 川路の最後の洋行期間は、明治12年2月12日から10月8日までの238日間でした。
 藤田傳次郎らが逮捕されたのは、明治12年9月15日。釈放されたのが12月2日でした。
 ということは、川路の洋行と贋札事件とは何の関係もないことが分かります。

 危うく欺されるところでした。

 川路は、この洋行の前年5月14日に発生した大久保利通暗殺事件を防げなかったことに責任を感じ、ひどく落胆し、気力も体力も最悪の状態でした。そこに病魔が侵入したようです。

『ドンドルフ・ナウマン社』とは

 「ゲルマン札」を印刷製造した『ドンドルフ・ナウマン社』は、ベルンハルト・J・ドンドルフ(Bernhard J. Dondorf、1809年 – 1902年)がつくった印刷会社です。

 ドンドルフは、ユダヤ系移民の子供として、1809年3月19日にフランクフルトで生まれました。

 印刷関係の見習いをした後に、1833年に有価証券と紙幣専門の印刷会社を設立しました。ドンドルフは、あらゆる種類の印刷を引き受けます。特に、ゲームカード(トランプ)の印刷は好評だったようで、現在でも高い技術で印刷された当時のトランプは現在でも収集家に人気があります。1871年、彼は、フランクフルトの「Bockenheimer Landstrasse」に新しい工場を造りました。1872年、ドンドルフは、すべての仕事を子供に譲り引退します。

 明治7年(1874年)、「ブラキストン紙幣事件」が発生します。この事件はややっこしいのですが、ザックリ書くと、以下のようなものです。

 イギリス人トーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston)が、1863年に箱館を訪れ、製材業に従事、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立しました。1867年、友人とともにブラキストン・マル商会を設立し、貿易商として働いていました。明治に入り、経営が悪化したブラキストン商会では、局面打開のため、清国向け貿易会社の設立を計画しました。しかし自己資本が不足したことから、「現金100円を差し出すと、利息二割前渡しの120円の証券を渡す」という内容の証券を発行することとし、明治7年(1874年)、ドイツのドンドルフ・ナウマン社へ依頼したところ、別途同社に紙幣印刷を依頼していた明治政府の知るところとなり問題となります。ブラキストン商会は届いた証券を流通させ始めていましたが、外務省は、本証券は会社設立資本金集めの株券であり、発行差し止めはできないとの見解を示したのに対し、大蔵省はこれを紙幣とみなし、外国人が政府の許可なく国内で発行することは国権を侵す重大な問題であるとして、真っ向から意見が対立しました。その後、明治政府と英国公使パークスとの交渉等により、ブラキストン商会の証券は通用禁止、イギリス側で回収することになりました(Wikipedia 「トーマス・ブレーキストン」)。

 当時の外務省と大蔵省の見解が二分した大事件だったわけですが、現代の日本人は誰も知らない。

 Wikiの記述を読むと、重要な情報が抜け落ちているように思います。その根拠は、したたなかパークスがこの文面通りの行動をする筈がないから。在日本イギリス公使館は、自国民、つまり、イギリス人の権益を守るのが仕事の一つ。もし、文面通りなら、外交上、イギリスの一人負け。パークス相手にそんなことはあり得ない。重要な情報が抜け落ちている。日本側が支払った大きな代償もあるのではないでしょうか。

 ちなみに、当時の外務卿は寺島宗則。井上馨が外務卿になるのは1879年(明治12年)です。

 また、大蔵卿は大隈重信でした。(管理人の独り言:ここで大隈か・・。ふー↓ ため息)
 いずれにしても、明治政府と「ドンドルフ・ナウマン社」との関係は、紙幣印刷・製造の発注者・受注者という単純なものではなく、紆余曲折があったことが分かりました。

 すると、推理する上で何が変わるのか。贋札製造の容疑者が増えたということです。贋札製造の容疑者としてドイツだけではなく、イギリスも含まれるということ。

 精巧な贋札が多量に出回った場合、先ず疑うべきは、外国政府による国家レベルでの関与。個人レベルでできることではない。日本人は、誰一人としてこのような視点を持っていない。旧陸軍や北朝鮮など過去の事例には事欠かないのに。

 やっかみや嫉妬に基づく世間の噂をおもしろおかしく報道するという狭視眼的な当時の三流新聞の責任が大きいと思いますが、なんと、当時の三流新聞は現在でも同じ地位を死守しているようです。

 残念ながら現時点で、ドンドルフの会社『ドンドルフ・ナウマン社』については、これ以上追うことができません。暇をみて、さらに追跡したいと思います。

誰がつくった『弐圓贋札』

 偽札を造ったのは、熊坂長庵でした。証拠も見つかっているし、最後には自白したようなので、犯人であることは間違いない!

 さて、本当にそのように断言できるのでしょうか。贋作者は本当に熊坂長庵だと言い切ることができるのでしょうか。
 
 前述したように、熊坂長庵の一審判決文には、『贋札815枚、偽造用の器具用紙などが自宅から押収されたことの他、贋札行使に関しては「遊蕩ニ漫遊ニ其他処々行使シテ」と記し、「充分ナル証憑ニ因リ認定」とある。』と記載されています。

 当時の警察による捜査がいい加減なものではなかったことは、本記事冒頭で引用した部分でも分かると思います。古今問わず、世間の注目を浴びる贋札の裁判です。かなり慎重に行われたと考えられます。

 判決文によると、熊坂長庵の自宅から押収された贋札は815枚です。現在価値では3260万円くらいでしょう。
 
 しかし、判決文には肝心の「版木」についての記述がありません。
 贋札に使われた「版木」とはどのようなものだったのでしょうか。

 現在のお札は、5 x 4 の20枚を一つのシートで印刷しているようです。冒頭の弐圓紙幣の画像はこれをイメージして作りました。

 しかし、もし熊坂長庵が贋札を製造したとするならば、版木は紙幣1枚用だったと考えられます。シート状に印刷するには、版木をコピーしなければなりませんが、そのような技術が当時あったとは思えません。

 熊坂長庵宅にあったとされる815枚の贋札を、版木で本当に印刷できるのでしょうか。

 偽札は木版画彫りだったのでしょうか。

 浮世絵、特に錦絵と呼ばれる多色刷りの木版画は、絵師・彫師・摺師の三者の分業により完成するそうです。一人でできるものではありません。さらに、摺師が1日に摺る分量を“一杯”と呼び、刷られるのは普通200枚前後とされています。実は、これが版木の限界。その後は数ヶ月版木を休ませないと版木は使い物にならなくなるのだそうです。

 つまり、紙幣1枚用の版木を使って刷っていたのでは、815枚の贋作をつくるだけでも1年以上もかかることになります。家内工業的な製造方法で大規模な贋札製造をすることはかなり無理があることが分かります。

 そうであるならば、やはり、この事件の贋札は外国の工場で印刷製造されたものであると考えるのが妥当なように思います。

本当に精巧にできた贋札だったのか

 調べていくうちに、確認すべき重要な点は「本当に精巧にできた贋札だったのか」ということなのが分かります。「精巧で国内では製造できないほどの贋札だったのか」ということです。個人が家内工業的に、手作りで製造したものなのか、それとも、印刷機械を使って大規模に製造したものなのか。

 それにより、犯人像が全く変わってしまいます。

 ところが、この確認はできないのです。当時の規定では、贋札が発見された場合、直ちに処分することになっていました。このため、この事件の贋札はただの一枚も現存していません。

 しかし、本当は存在するのかも。

 上で引用した佐藤英達氏は『藤田組の発展その虚実』の中で、現存しないと書いておきながら、直ぐ下の記述に現存するような書き方をしています。これは、出典が二種類あるためなのですが、悩ましい記述の仕方になっています。

 そこで、佐藤英達氏の書籍「藤田組の発展その虚実」だけではなく、中嶋繁雄氏の「事件で見る明治100話」の記述も見てみることにします。

 「贋造紙幣は、明治11年、第一国立銀行で二円札が初めて発見されている。真贋の判別が困難なほど精巧なものだった。警察はその後、西日本各地で二円の贋造紙幣を入手したが、一般の混乱をおそれて公表せず、秘密裏に捜査していたのだ。[6]p.91」

 当時、9月15日の藤田組幹部の逮捕劇は、その容疑については秘されていたため、当時の新聞がその内容を報道したのは9月20日になってからでした。

 9月24日、東京曙新聞に彼らの容疑について次のような記事が出ます。

 「藤田、中田らは巨万の紙幣を贋造し、一昨年、西南の役、わが政府が怱忙(そうぼう)の時に際して、これを正紙幣3百万円に交換し・・・・[6]p.91」
 
 ここで、偽造紙幣の総額が3百万円であったとの情報が報道されます。

 さらに、東京日日新聞、10月7日の記事では以下のように掲載されました。

 『その贋造紙幣は、先年我が方より新紙幣の製造をドイツ国のある製造所へ委託せし時、同国へ派出したる某が紙幣製造機械を密買し、二円、五円、十円、五十円の紙幣およそ3百万円を贋造して、これをわが国に船送し、藤田らが秘計をもって一昨年、西南戦争の際に会計部の準備紙幣3百万円と密かに取り換えたるに、二円札のごときはその贋造まことに精密にして、容易にその真贋を分かちがたく、4百倍顕微鏡に照してようやく裏面右円輪のトンボの足の1本足らざるを見るに過ぎず・・。(管理人が現代語に修正)[6]』

 ここでも、贋造紙幣の総額は3百万円としています。さらに、ドイツで偽造されたと書かれています。
 この新聞記事が正確なものとすれば、贋札は、顕微鏡を使ってやっと偽札と判別できるほどとても高度な技術で製造されたものであったようです。個人が製造できるレベルのものではないことは明らかです。さらに、当時の認識として、贋札はドイツで偽造された、あるいは、偽造のための偽札原版をドイツから持ち帰り日本で製造したものだと認識されていたことを窺い知ることができます。
 
 これらの記事のソースは何なのでしょうか。

 管理人の見解を書きます。

 管理人は、この事件の前年の「和宮薨去」の新聞報道を調べました。その時に感じたのは、当時の記者たちの文章がへたくそだということでした。ところが、東京日日新聞の記事(原文)はきれいな文章になっています。当時の新聞記者の文書力でこの文章は書けない。このため、これは明らかに警察側からのプレスリリースをそのまま掲載したものと考えます。推敲された文章です。当時の記者にはとても書けない内容であるとともに、文章力も足りない。

 もしそうであるのなら、(警視局が考える)「偽造紙幣の総額が3百万円」という推測はどこからきたものなのでしょうか。警察側が把握している発見された偽造弐圓札の総額なのでしょうか。

 顕微鏡を使わなければ真贋の区別が付かない贋札を3百万円分、つまり、弐圓札で150万枚見分けたということでしょうか。どうも違うように思います。

 警視局は、そもそも、藤田組に対する捜索は贋札容疑ではなく贈収賄事件としての立件を目指していました。そして、贋札事件で起訴するには証拠不十分であることも理解していました。警視局は贋札事件にはあまり重点を置いていなかったのです。
 新聞報道に唐突に出てくる『3百万円』という金額。2百万円でも4百万円でもなく「3百万円」という金額に意味があったのではないでしょうか。

 この事件の弐圓贋造紙幣の写真は、内務省警保局で贋札鑑定に長年従事した山鹿義教氏の著書(『贋造通貨』精文館、1933年)に掲載の贋札の写真(写真5・6頁の贋札の表裏)で見ることができるようです。警視庁科学捜査研究所に現存する1枚であるらしい。早速、国会図書館に行って調べてみました。

 上述したように、弐圓紙幣は、ドイツで印刷されたものと日本で印刷されたものの二種類があります。日本で印刷されたものは、「明治10年7月~11年6月にドイツ原版を使い日本で製造」とされるので、原版がドイツから日本に運ばれたことは間違いありません。この原版はシート印刷の都合上、複数枚あったと考えられます。そのうちの1枚が外部に流出した・・・・・。その責任者は、「大蔵卿」。あれっ、誰でしたっけ。当時の大蔵卿は?

 もし、弐圓贋札が科捜研に現存するならば、それがどこで印刷された物かなど、多くの手がかりが残されているように思います。

 そこで、早速調べてみます(笑)。

弐圓贋札が精巧な偽札だったという嘘を暴く

 発見された弐圓贋札が本当に精巧なものだったのか。これにより、この事件をめぐる様相は大きく変わることが分かりました。
 もし、顕微鏡を使わなければ識別できないほど精巧な贋札だとすれば、贋札の原版は、「本物」を用いた可能性が出てきます。そうであれば、それをできる人、グループはとても限られている。

 もし、精巧な贋札というのは、過去の贋札に比べてという比較の話であり、顕微鏡云々の話は、後で作られたお話しだとするならば、熊坂長庵単独犯行説もあり得なくもない。

 キーを握るのは、この時の贋札の精巧度の確認です。
 下の画像をご覧下さい。左側が贋札、右側が真札です。
 この贋札写真は、山鹿義教氏の『贋造通貨』に収録されているものです。


  
『贋造通貨』の写真の解説には、以下のように記載されています。

 「藤田組贋札事件の贋造弐圓紙幣。大きさ 縦123粍、横70粍。明治の三大疑獄事件の一として世間周知の藤田組贋札事件に絡まるところの明治通寳(大日本政府大蔵省発行紙幣)の金二円券であります。此の贋造紙幣は明治十年頃から市中に出はじめて市民は非常に迷惑を被ったものであります其の贋造及び行使犯人といふ熊坂長庵は捕らわれて明治十六年十月二十四日に大審院で神奈川重罪裁判所の判決の通り無期徒刑を言い渡されましたこの贋造紙幣は熊坂長庵の作品で明治十三年に関西方面で発見されたものであります(p.5)」

 なぜ、この贋札が処分されなかったのか。それは、処分に関わる規定が変更になったからです。当時、偽札は発見次第切断処分していましたが、熊坂長庵贋札事件後、発見された偽札に「贋札」または「偽造」の朱印を捺して大蔵省銀行局へ送付することになりました。

 さて、上の画像をよくご覧下さい。
 拡大表示して、贋札と真札の比較をしています。

 先ず気づくのは、「2」という英数字のフォントが違うこと。贋札は、まるで「2」という数字を書いたことがない人の文字に見えます。

 さらに、紙幣の下部にある英文字に着目します。
 これもフォントが違うことは明らかです。

 この違いを見つけるのに400倍の顕微鏡など不要です。確かに良くできた贋札ですが、よく見ると違いが見つかります。中央に向かい合っている鳥(鳳凰でしょうか?)の羽の先端の部分も明らかに違います。贋作の方はかなり雑な印象を受けます。

 贋札を見分けるには400倍の顕微鏡が必要。全く違いますね。この情報。情報がねつ造されたのです。

導き出される結論とは

 この贋造紙幣の特徴として、管理人は、英数字に着目しました。明治11年の事件です。英数字を流暢に書ける人が何人いたかは分かりませんが、英語を話せる人でも英数字はきれいに書けなかったのではないでしょうか。このことから、管理人は、この贋札は、日本人が作ったものだと思います。
 
 こう考えると、ドイツ説もイギリス説も消えます。

 井上馨を陥れようとする木村眞三郎が書いた告発書「実地録」も否定されます。

 すると、やはり、熊坂長庵の犯行ということなのでしょうか。
 では、熊坂長庵という人物は、どんな人物だったのでしょうか。

熊坂長庵の謎

 今からちょうど50年前に出版された『あいかわの炉辺史話』、1967 ([8]参照)という冊子の中に、中村昌治という方が「熊坂長庵のことども」という文を寄稿しています。この本は熊坂長庵の出身地である愛川町教育委員会が出版したものです。中村昌治は他にも「熊坂長庵の伝説」、日本放送出版協会『歴史への招待』8巻、1980、も書かれるなど、熊坂長庵の研究では名の知れた方のようです。

 著者の中村昌治について調べたのですが、よく分かりません。熊坂長庵が生まれ、暮らしていた愛甲郡愛川町中津にお住まいの地元の歴史研究家、郷土史家の方だったのではないかと推測しています。この冊子の中で、他の記事も執筆されていました。1986年に「八十八歳の郷土誌」という本を出版されています。ということは、1898年頃の生まれの方で、もし現在ご尊命なら118歳くらいになります。

 なぜ、執筆者のことを詳しく書くのか。それは、「熊坂長庵のことども」に書かれている内容が、通説とは全く違うからです。にわかには信じられない内容が書かれています。

 通説と大きく異なる記述は、熊坂長庵は、終身刑ではなく、懲役7年の実刑を受けたが、成績がよかったので5年に減刑され、刑期満了により釈放されたという記述です。

 さらに、熊坂長庵は、内地に帰る旅費を工面できず、結局はその地で亡くなりますが、後年、遺骨は長庵の生まれ故郷愛川町の中津に戻り、お墓が建てられたとか。

 このような内容はどこでも見たことがない。

 「熊坂長庵のことども」、中村昌治、『あいかわの炉辺史話』、愛川町文化財保護委員会、愛川町教育委員会、1967、pp.74-77
熊坂長庵(弘化元年(1844)- 明治19年(1886)4月29日)

 熊坂長庵は、中津511番地(現在、松台公会堂や消防器具舎のあるところ)俗に長庵屋敷といっているところに住んでいた。(中略)

 弘化元年(1844年)1月生まれ。先祖の七左衛門は貞享5年(1687)6月7日没。長庵はこの七代目にあたる。六代目の七左衛門を父に、中村とくを母とするそのひとり子である。生まれつき背が高く色白で貴公子のような容姿をもち、頭が良く、能弁で、文章や書をよくし、その上、画も巧みで優れた才能の持ち主であった。

 16歳のとき江戸に出て、当時新進の女流南画の大家奥原晴湖(1837-1913)に就いて学んだ。このとき晴湖は22歳だった。ここでの精進は5年程度だった。その間、晴湖は彼に恋したらしいが、彼は年上の異性からの関心を快しとせず、断然決意して帰郷した。時に元治元年(1864年)彼が20歳の年であった。翌々年の慶応二年(1866年)、縁あってヤオ女と結婚した。

 明治6年(1874)6月、足柄県第一大区二九中学区第一二六番公立小学救幣館の仮校舎を竜福寺に開港した。この時の校長に熊坂長庵が就任した。彼はまだ29歳であったが存分の敏腕を振った。

京都・大阪・兵庫、岡山・熊本・鹿児島地方の税金の中にきわめて精巧な銅板印刷の2円の贋造紙幣がしきりに検出された。その精巧度は400倍の顕微鏡で漸く真偽がわかるほどのものだった。

 この贋造紙幣をめぐって大阪の豪商藤田傳次郎(後に男爵)、時の大蔵卿井上馨(子爵)に疑惑がかかり藤田組の幹部は捕縛された。この波紋はさらに拡大して藩閥や政党の争いに発展し、国内は大混乱になったが、どうしたことかこの大事件も12月20日、証拠不充分で関係者は無罪放免となり、大団円を告げた。

 ところが、二ヵ月後、突然、熊坂長庵がただ一人真犯人として検挙された。ほんとうに大山鳴動して鼠一匹の結着となった。長庵は7年の実刑を受けて札幌監獄で服役した。しかし成績がよいというので5年に減刑され出獄した。ここで付記しなければならないのは、これほど国内を騒がせた贋札事件が僻陬に住む南画師の長庵一人に絞られたことと、当時の刑法によれば、極刑に処断されるべき大事犯が、僅か7年の処刑、さらに5年にされたこと等を考えると、当時の上層部と長庵の間には何か隠された問題があったのかもしれない。

 この事件について戦後、明大教授 尾佐竹 猛氏はその著書「難獄大疑獄」の中に触れ、また最近推理作家松本清張氏は「相模国愛甲郡中津村」に、また『西郷札』に書いて紙価を高められている。しかし、その真相は誰も知らない。

 長庵は放免となったものの長い獄舎生活のうえに、石狩の荒野に出たのでどうすることもできず、余儀なく郷里の同族の豪農に帰郷旅費の無心をしたが送金はなく、遂に明治19年4月、札幌郊外で42歳の一生を終えた。この金無心の手紙がその家に保存されていたが、現在ではどうなったか解らない。

 後年、遺骨は帰郷し、そね山の墓域に「宝山跡昌居士」と諡されて静かに眠っている。無事帰郷して天寿を全うすることができたなら、あるいは明治史の一頁が書き換えられるようなこともあったかも知れない。墓を訪れて墓石を撫でても、いまはただ冷たい感触が伝わるだけである。(中村昌治)

 

 なに、これは!

 松本清張氏が短編小説『相模国愛甲郡中津村』を発表したのは1964年のこと。中村昌治氏のこの記事の3年前になります。

 この中村氏の文章内容は若干問題箇所があります。

 たとえば、奥原晴湖と関係する部分。

 南画家奥原晴湖は、1837年(天保8年)、古河藩士池田政明の四女として生まれ、1865年(元治2年)、29歳の時に関宿藩奥原家の養女となり江戸に出ます。熊坂長庵が16歳(1860年)の時、奥原晴湖は江戸にはいませんし、長庵が江戸を離れ帰郷する1864年(元治元年)にも、奥原晴湖はまだ江戸に来ていません。

 また、「時の大蔵卿井上馨(子爵)」も違いますね。これは上述した通りです。

 中村氏の文章にはいくつかの事実誤認がありますが、郷土史に詳しい中村氏の書く「中津」に関する部分は、真実、あるいは地域の言い伝えなのでしょう。長庵からのお金を無心する手紙が存在することは間違いないと思います。

 すると、かなりおかしなことになります。

  • 熊坂長庵に対する判決が、これまでの定説とされる無期徒刑ではなく懲役7年だった?
  • 刑期はその後、5年に減刑された?
  • 刑期を終え、出所した? つまり、獄中死ではなかった?

 熊坂長庵の墓は、北海道月形町の篠津囚人墓地にあるのは間違いありません。訪問した人がブログに書いているので。

 次に、判決で出た7年の刑期が5年に短縮され、釈放された。これって本当でしょうか。
 計算すれば解ります。

   逮捕 1882年9月20日
   判決 1882年12月8日
   死亡 1886年4月29日
   逮捕~死亡  3年7ヶ月1週 1317日
   判決~死亡  3年4ヶ月3週 1238日

 懲役の日数カウントは、判決確定の日からスタートします。ただし、未決拘置期間の日数の一部が既に刑に服している期間として懲役期間にカウントされます。つまり、日数が差し引かれます。この日数は判決文に書かれています。

 熊坂長庵の場合は、未決拘置期間が最大となる逮捕日を採用したとしても、彼の死亡時には短縮されたとする5年の刑期を終えていないことが解ります。ということは、この木村氏の記述は明らかに間違っています。

 このように記載内容がボロボロだと、他の部分の信憑性が疑われても仕方がありませんね。

 さらに面白いことが。

 松本清張が『相模国愛甲郡中津村』を発表したのは、前述したように1964年ですが、それから9年後の1973年にやはりこの贋札事件を題材にした短編小説『奇妙な被告』を発表しています。

 その中で、以下のような記述があります。伊藤痴遊の書いた読物では、次のように書かれているそうです。

 「熊坂長庵、本名 中村久太郎。判決文には器械のこともインキのことも出てこない。その他、十六品となって至極曖昧になっていて、はっきりごまかしということが分かります。」「大隈のところで庭番のようなことをやっていた。大隈が偽札の犯人。木村が大隈邸から暇を取ったのが、ちょうど警視局で藤田組の取調が難しくなりかかっていたころです。裁判記録だけ。本人は監獄なんかに行っちゃいません。」

 ここでも中村氏が登場します。『相模国愛甲郡中津村』と『奇妙な被告』を続けて読むと、どうも中村昌治氏と重なってきます。松本清張のファンの方でも知らない事実です。

事件は終わらない

 贋札事件で最初に容疑者として逮捕された藤田傳三郎、そして、共同経営者の中野梧一は、証拠不充分で釈放されます(1879年12月26日)。二人はその後どうなったのか。

 藤田傳三郎は、1912年3月30日、70歳で亡くなるまで数多くの事業に関わり成功を収めました。

 一方、中野梧一は、1883年(明治16年)9月19日、何と猟銃自殺を遂げます。自殺の理由は不明とされています。熊坂長庵が無期徒刑の判決を受けてから285日後のことでした。

 この事件は、結局、何も解決していない。そんな気がします。

 歴史的な事件を面白おかしく小説やドラマにするのではなく、真相の究明はできないのでしょうか。
 『時効警察』のような専門の捜査官がいても良いような気がします。

 漫画『ゴールデンカムイ』に出てくる贋作師である『熊岸長庵』とは、誰でしょう? 樺戸集治監も出てきます。でも、時代が合わない。日清戦争はずっと先のことだし。

 偽札事件と言えば、管理人がかなり以前に読んだ本の中に、真券と区別が付かない偽札を作れる人がいて、贋札造りとしての犯罪を立証できないことから、政府はその人物にお金を支払って贋札造りをやめてもらったというものがありました。たぶん、明治の話だと思うのですが。ネット上でそのような記事を確認できません。でも、気になります。

 本記事では、藤田傳次郎や井上馨についての様々な疑惑には敢えて触れていません。その理由は、根拠となるような情報を確認できないからです。世間の噂は、往々にして妬み、やっかみに由来しています。

 後になって事実が判明し、噂の通りだったという事例は稀ではないでしょうか。そもそも、後になっても真相は不明という場合がほとんどなので。

 管理人は、藤田傳次郎が贋札事件について一切の言い訳をしなかったということを評価しています。同様に、五代友厚が開拓使官有物払下げ事件について一切の言い訳をしなかったことを評価しています。多言を弄して言い訳をする人が多い中で、沈黙する勇気を感じます。

 贋札事件を指揮した警視局トップの川路利良は病没。捜査・逮捕を指揮した佐藤権大警部は懲戒免官に、安藤中警視は免官になり、位階を返上しました。

 藤田組を狂言で告発した木村眞三郎は逮捕・起訴され、懲役70日。告発書を内務省警視局に伝えた大阪の桑野禮行判事補も逮捕。

 熊坂長庵は無期徒刑の判決を受け獄中死。墓地は、北海道樺戸郡月形町の篠津山囚人墓地。墓碑銘は「樺川堂宝山跡昌居士」

 逮捕・釈放された藤田組の共同経営者中野梧一は自殺。

 無傷なのは藤田傳次郎ただ一人という感じでしょうか。しかし、藤田の会社もうまくいかず、危機的状況に陥ります。藤田が成功を収めるのはずっと後になってからのこと。

 なんとも凄まじい状況です。この贋札事件で、関係ない多くの人たちが不幸になったことは間違いありません。
 

参考文献

1. 「米穀市場の近代化」、持田恵三、「第1表 米供給と1人当り消費推移」
2.「藤田組の発展その虚実」佐藤英達、三恵社、2008
3. 「相模国愛甲郡中津村」松本清張、1964年
4. 明治期のお金(2)
5.「わが国物価の歴史的分析」、花輪俊哉
6.「事件で見る明治100話」、中嶋繁雄、立風書房、1992、pp.91-95
7. 本文中に「東京警視庁」と「内務省警視局」という二つの表記がありますが、事件の捜査を行ったのは、「内務省警視局」です。
 1874年(明治7年)1月15日 東京警視庁を設置(太政官達6号)。
 1877年(明治10年)1月11日 東京警視庁が廃止され、内務省に警視局を設置(太政官布告4号、太政官達15号、内務省達)。27日 東京警視本署を設置(警視局布達甲3号)。
8. 「熊坂長庵のことども」、中村昌治、『あいかわの炉辺史話』、愛川町文化財保護委員会、愛川町教育委員会、1967
9. 「夢はるかなる: 近代日本の巨人・久原房之助」、古川薫、PHP文庫、2009
10. 「奇妙な被告」、松本清張、松本清張傑作短篇選、中公文庫、2009
11. 「大警視・川路利良」、神川武利、PHP研究所、2003、pp.329-331

日本では偽札を見かけない理由とは?

 外国で買い物をする時、レジの店員さんが必ずといってよいほどやっているのが偽札かどうかの確認です。日本人観光客が外国で買い物をして驚くのは、この光景ではないでしょうか。日本の銀行で購入したピン札のドル紙幣などは入念にチェックされます。

 実は、その逆も言えます。来日した外国人が買い物をするときに、客が出した紙幣をレジの人が偽札かどうかのチェックをしないことに驚く人も多いようです。

 偽札の確認方法は色々あるようですが、ブラックライトをあてたり、特殊なペンで紙幣面をなぞったりするのが一般的ではないでしょうか。時々、紙幣の透かしを確認している店員さんもいます。偽札の識別方法は、出回っている偽札のタイプにより異なるため、万能の識別方法はないようです。

 日本で偽札を目にすることははずありません。高額な宝くじに当たるくらい稀なケースで偽札を掴まされます。それは、もはや、ラッキーとしか言いようがありません。

 日本円の偽札がほとんどない理由は、さまざまな工夫が施された芸術品のようなお札だから。ホログラム、すき入れバーパターン、潜像模様、潜像パール模様、マイクロ文字、特殊発光インキ、深凹版印刷、識別マークという異なった偽造防止対策を施している紙幣は世界の中でも日本円だけです。たまに、じっくりとお札を見ていると、いろいろな発見があるので楽しめます。

 そして、偽造紙幣の拡散を防いでいるのが日本人。指先の感覚だけで偽造紙幣を見破ります。日本には、日本円しか流通していないということも理由の一つかも。そんなの当たり前じゃないかと思った人は、外国の実態をご存じない。多くの国で米ドルで買い物ができますし、ウズベキスタンなど中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の国では、中国元で普通に買い物ができます。

 世の中には偽札のコレクターがいるようで、オークションに出品されたりしているようです。偽造が困難な日本円の精巧な偽札を掴まされたら・・・・、家宝ですね。現実社会では使えないから「家宝」になるわけですから。偽札を所持していること自体を禁止する法律はないようです。その紙幣が「廃貨」となる数十年後くらいに価値がでてくるかも。

Counterfeit bill 壱万円札

 上の壱万円札で、なぜこれが偽札なのか分かりますよね。偽札ではなく、印刷エラーだったらまさに「家宝」です。

 偽札コレクター間の売買を禁止する法律はないと思いますが、それは現在使われていない「廃貨」の場合であって、現行紙幣の偽札を取引すれば警察に捕まるでしょうね。裁判になるか、そもそも公判が維持できるかは疑問ですが。

 刑法第148条(通貨偽造及び行使等)は次のようになっています。

 行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は3年以上の懲役に処する。

偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。
 
 解説を読むと、「本罪の行為は、偽造通貨を、①行使すること、②行使の目的で人に交付すること、③行使の目的で輸入することです。とくに、①「行使」と、②(行使目的での)「交付」との区別が重要になります。」と書かれています。

 麻薬は所持しただけで罪に問われますが、偽札は所持ではなく「行使」が罪を問うキーとなっているようです。コレクター間での売買が「交付」にあたるかどうかが微妙ですね。検察側はここを衝いてくるのでしょうけど。行使目的が推定されるとか言って捜査に入るでしょう。

 いずれにしても、偽札は、「行使」、つまり、偽札と知っていて使うことで罪に問われるので、一般人は関わらない方が無難でしょう。しまっておいた偽札を見つけた奥さんが、偽札と知らずに使ってしまったということも起きないとは言えません(笑)。収得後知情行使等の罪(刑法第152条)もあるので、とてもやっかいなことになります。毎日毎日、警察で取り調べを受けることになります。偽札は、殺人罪や誘拐罪に並ぶ重罪なので、警察の本気度が違います。関わらないのが一番です。

 低額面の偽札ほどレアな気がします。偽札は製造コストが高いため、低額面の偽札はそもそも作られないようです。コピー機で作るお手軽なものは低コストでできますが、お手軽だからといって逮捕されたときに罪が軽くなる分けではない。

 管理人が見たことがある本物の偽札は、50ドルの偽札です。とてもレアです。ボリビアの中華レストランのレジのところに貼ってありました。サインペンでたくさん落書きをして、さらに偽札と書いてある。店主に、売ってくれと言ったのですがダメでした。

 その偽札の造りは粗雑なもので、よく見れば偽札と判読できる程度のできばえでした。
 日本で日本円の偽札を掴まされたらどうしたらよいか。

 警察に持っていくと、正規の紙幣に交換してくれるそうです。名目は「交換」ではないようですが。ババ抜きのように、偽札が別の人に渡り、流通するのを防ぐための措置なのだとか。

 日本における偽札事件は、それほど多くはないようです。コピー機を使ったオモチャのような偽札ではなく、原版を作り、本物と同じ紙を使い、印刷機で大規模に印刷されたような偽札についてはほとんど聞きません。精巧な偽札であればあるほど、それを作ることができる人間は限られており、すぐに逮捕されてしまうからでしょう。

 特に、日本は現金による買い物が主流の国で、日頃から現金に触れているので、指触りのちょっとの違いでもすぐに見つけてしまう。管理人は、毎日、数万枚の壱万円札を数えているので、指の指紋が消えそうです。お金など見たくもない・・。当然、嘘です(笑)。そんなことを言ってみたいものです。

 そういえば、外国人のお札の扱い方にも違いがあります。

 例えば、千円の買い物をして、1万円札で支払ったとします。おつりが千円札で9枚戻ってきます。あなたは、その紙幣の裏表と上下をそろえてから財布にしまいますか? そんなことをしている日本人はほとんど見かけませんね。ところが、外国人は違います。きれいに並べ替えてから財布にしまいます。

 これは、ちょっとした違いのように感じますが、実際には根が深い。日本人がずぼらで、外国人が几帳面なわけではありません。外国にいたとき、たまたま紙幣をそろえる状況を目にしたので、その人に管理人が聞いてみました。

 「なぜ、紙幣の表裏、上下までそろえるの?」

 その答えは、本人も分からないというものでした。無意識のうちにそうする。誰もがそうしているので習慣になっている、という回答でした。

 別の人に聞いたときは、偽札を見つけやすいからと言っていました。

 紙幣の受け渡し、財布へのしまい方など、日本と外国とではちょっと違う。

 今日は、そんなお話しでした。

 実は、この記事では、この後に、明治時代のとても奇妙な贋札事件について書いたのですが、少し長くなったので、その部分は次回の記事に回すことにしました。次回をお楽しみに。