邪馬台国の謎を追ってみるけど、もう解決しているらしい

ディープ・プロファイリング

今日は、古代ミステリーの金字塔『邪馬台国の謎』に迫りたいと思います。

世の中には、歴史好きの方がたくさんいるようで、質問サイトに回答を寄せられている方々の知識の深さには驚くばかりです。語り尽くされているような『邪馬台国の謎』など、もうみんな知っているよ、と思われた方もいるでしょう。

では、歴史の素人の管理人は何を書けば良いのか。

本記事のカテゴリー『古代の謎・歴史ヒストリー』は、これまでだれも書いていない視角で書くことを目指しています。

だれも思いもしなかったような視点で書きたいと思います。

最初にネタばらしをすると、原典は、原田常治氏が書いた『記紀以前の資料による古代日本正史(1976年)』を用います。

この書籍は、邪馬台国の場所を明快にスパッと特定しています。

「あっ、それ読んだ。知っているよ」と思ったあなた。本当に知っているの? 何を知っているの? 毎年多くの歴史的発見がある中で、この1976年に出版された本の評価は? どこをどう評価している? その判断根拠を出典を示して言える?

もちろん、この本の内容については多くの批判があるようです。それを百も承知でこの記事を書きたいと思います。

プロローグ

この本は、学術書として書かれたものではありません。学術的研究成果を発表する目的で書かれたものでもありません。そもそも、論文としての体裁はとっていないのです。

もし、これが論文だと主張するのであれば、最初からお話になりません。論文査読者は決して認めないでしょう。それは、論文としてのルール違反をしているからです。

このようなことを長々と書いた理由は、この書籍は論文として読んではダメだということを言いたいためです。出典・根拠が不明示、論旨の展開が独断的・・・など、論文を期待した読み方をしてはいけない本だと思います。

もう一つ付け加えれば、理論の提示者にはその証明義務はないということです。新たな説を唱えた人は、その説に至った経緯を説明すればよく、その証明は、他の誰かがやっても良いわけです。

ただし、何でも先に言ったものが勝ち、という訳ではありません。理論を整然と説明する必要があります。理論も説明せずに、思いつきを書いて、自分が最初に提唱したと主張しても、誰も認めません。

例えば、『ビッグバン理論』はルメートルにより提唱されたとされていますが、ルメートル自身はそれを証明していません。理論を提示しただけです。証明するのは後塵を拝する輩の仕事なのです。

本書の著者は、昭和期の出版事業家で、講談社『講談倶楽部』編集長を務めた後、株式会社同志社(のちの婦人生活社、2003年に倒産)を創立した原田常治氏(はらだ つねじ、1903年4月26日 – 1977年8月23日)で、彼の最晩年に書かれたものです。原田氏は本書の出版の翌年に74歳で亡くなっています。

この年齢を知ると、本書の中の独善的な記述も「さもありなん」と受け流すことができるのではないでしょうか。

なお、管理人は、出版界の人間はまったく信用していません。原田氏の文章を読むとかなりムカつく部分もありますが、そこは大人読みすることにします。書籍の子供読みはやめます。あくまでも、原田氏に敬意を払い、読み進めることにします(結構苦痛かも。大人読み、大人読み、と暗示をかけながら)。

実は、この記事を書こうと思ったきっかけは、日本人のルーツに迫るDNA解析が行われたということを知ったからでした。遺伝子情報の多くが欠落したミトコンドリアDNAではなく、核DNAの解析に成功したのです。これにより、古代日本人のルーツが朝鮮系・中国系ではないことが明らかになりました。このことを知ると、巷の歴史家の言っていることがいかに時代遅れなのかが分かります。

最初に触れておきたいこと

上で書いたように、この本が出版されたのは、1976年のこと。かなり前のことなので、この本自体が絶版となり、現在、入手できないようです。管理人は図書館で見つけました。

では、邪馬台国に関連して、この本が出版された1976年以降にどのような歴史的発見があったのか。最初に、この辺をおさらいしておいた方が良さそうです。

本の出版以降、邪馬台国の場所を特定する発見として注目されたのが「吉野ヶ里遺跡」と「纒向遺跡」の発掘でしょう。邪馬台国九州説と近畿説の双璧をなす学説を裏付けると期待される大きな発見でした。

吉野ヶ里遺跡

およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。

纒向遺跡

2009年(平成21年)、奈良県の纒向(まきむく)遺跡で卑弥呼の王宮といわれる巨大な建物群が発掘され邪馬台国の最有力地になる。翌年、さらに発掘調査が行われ、連合国家を示す土器や人為的に破壊された銅鐸、そして2700個を超える桃の種が出土した。

縄文人のゲノム解析に成功

2014年、縄文人の核DNAを用いたゲノム解析に初めて成功し、縄文人のルーツを辿れるようになる。これまで行われていたミトコンドリアDNAではなく、核DNAの解析に成功したことで、古代史の謎を解明する大きなツールとなることが期待される。

田熊石畑遺跡の発掘

2008年4月、宗像市の田熊石畑遺跡の発掘調査が始まり、調査開始からほどなくして、弥生時代中期前半頃の墓域が見つかり、6基の墳墓から銅剣・銅矛・銅戈の武器形青銅器が計15点出土。ひとつの墓のまとまりから出土した点数としては日本最多級となった。これまでの通説に反して宗像地域の弥生時代に有力者集団の存在が確認されるとともに、北部九州における弥生時代の集落や墓制を考える上でも、きわめて重要な発見であることがわかった。7)

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に登録

今年、2017年7月、ユネスコの世界遺産として『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』が登録される。
1954年(昭和29年)- 1971年(昭和46年)にかけて三次にわたる発掘調査が行われ、沖津宮社殿周辺の巨石に寄り添う23の古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物が出土(そのほか約2万点の縄文時代・弥生時代の遺物が出土)した。それ以降順次、国宝、重文に指定されていったが、2008年(平成20年)に、発掘された8万点に及ぶ関連遺物全てが国宝に指定された。

『記紀以前の資料による古代日本正史』の概要

この本は、古代史の研究が古事記・日本書紀をベースに組み立てられてきたことに異議を唱え、為政者の都合の良いように正史に修正が加えられた記紀ではなく、それ以前の資料にこそ本当の古代日本の歴史が刻まれているとの考えから、執筆されているようです。

気になるのは、記紀以前の資料とは何を指すのかということ。これは、記紀編纂以前から存在した神社に残された古文書、古記録、風土記、地域の伝承、そして神社の全国配置などから読み解くという作業のようです。

そして、本の帯に書かれた結論に至る。

  • 日本建国の祖は素佐之男尊だった
  • 今の天照大神は素佐之男尊の現地妻だった
  • 記紀以前の天照大神は男性だった
  • 神武天皇は婿養子だった
  • 邪馬台国は宮崎県西都市だった

ところで、冒頭に書いたように、この本では、出典を示していません。どの神社のどのような古記録なのか示していません。記紀以前から存在する神社を調べたと書きながら、そのリストも示していません。調べた、現地に行ったという記述はたくさんあるのに、肝心の出典についての記述はほとんどない。調べたらこうだと分かった的な論調で、何をどう調べたのかが分からない。それなのに断定的な結論に至る。

普通の人が読めば、これは著者の感想文か旅行記と位置づけられるような内容になっています。原田氏は論文というものを書いたことがなかったのでしょう。

だから、「大人読み」が必要なわけです。

そもそも、歴史学者の書く歴史書にも出典はほとんど示していません。これは、学術論文を書籍にしたときに見られることですが、紙幅の都合でとか読者が読みやすいようにとか言い訳しながら出典を示さずに本を出版できるのが日本の出版界の常識のようです。これはまさに言い訳で、本来、やってはいけないことです。

ということで、この本は、読み手が上手に読むことが求められているのかなぁ、と思いました。

今回のテーマである邪馬台国については、本書の最後の部分に載っています。 この本は結構厚いのですが、原田氏は独自の理論を展開し、その最後で邪馬台国について語っています。そして、その場所とは、中国の『三国志』における「魏志倭人伝」に書かれているとおりの場所であるとして、邪馬台国は宮崎県西都市にあったとこれまで謎とされてきた邪馬台国の場所を特定しています。

この本を読む限り、邪馬台国は西都市にあったことは間違いないように思えてきます。原田氏の「魏志倭人伝」の解読方法には無理がなく、他の説を唱える研究者のような曲解もなく、とても説得力があります。

管理人としては、邪馬台国の場所などどこでも良いので、西都市でも奈良でもかまいません(笑)。それよりも、日本の神話の世界の出来事を現実の時代に、それも2、3世紀という短い時代に全て押し込めてしまうという原田氏の手法に驚きました。この手法なら謎などなくなります。これまで分からないとされてきた事柄を伝説の登場人物を総動員して説明するのですから、謎などなくなります。この手があったかという感じです。

別に揶揄しているわけではなく、この本に書かれているように考えると、確かに古代史が1本の道でつながっているように思えてくる。1次資料がないから確定的なことは言えず、結果、分からない、と研究者のだれもが避けてきた部分を説明してくれる貴重な本のように思えます。

管理人の関心は、邪馬台国の場所そのものではなく、そこに至る『魏志倭人伝の読み方』です。

邪馬台国がどこにあったかを考える前に

邪馬台国が注目を集める理由は、2~3世紀の日本の歴史が分からないからではないでしょうか。その頃のことが書かれている唯一の文献が「魏志倭人伝」であり、その中に書かれている邪馬台国だけが着目されるというとても奇妙な現象が発生しています。なお、後に書かれた『後漢書』東夷伝の方が「魏志倭人伝」よりも扱う時代は古いのですが、信憑性には疑問があります。

『後漢書』東夷伝を引用する研究者は、それを引用する妥当性の証明をしていないという特徴があります。この本を引用した時点で、さらなる不確定要素を抱え込むことになるのですが、それには触れず、自説の根拠にしようとします。

邪馬台国だけが着目されている現状をみると、まるで邪馬台国が日本国のルーツであるかのような錯覚に陥ります。

そもそも、日本の歴史について考えるのであれば、それは縄文時代にまで遡る必要があります。邪馬台国など、たまたま中国の歴史書に書かれた当時の日本にあった一国家に過ぎません。

日本人の祖先である縄文人が日本列島に暮らし始めたのは今から1万6千年前のこと。私たち日本人のご先祖様です(NHK、サイエンスZEROでは約1万6000年前としていました)。

縄文時代は、約1万4000年前から約2300年前(紀元前4世紀頃)まで続いたとされています。ところで、それに続く弥生時代はというと、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃までとWikipediaには書かれています。あれれ、縄文時代の後に弥生時代という流れではないの?

もし、縄文時代が紀元前4世紀まで続いていたのなら、縄文時代と弥生時代は600年もの間共存していたことになります。日本列島は縦に長いので、狩猟採取の時代から農耕の時代に変わるのに600年かかったということでしょうか。

そして、弥生時代の終わりは、紀元後3世紀中頃。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれたとされ、卑弥呼は、生年不明で、247年あるいは248年頃に没したとされています。

頭だけで考えるのは良くない。手を動かして考えてみます。日本の時代区分を等倍表示してみます。縄文時代の長さを視覚的に知るためです。作ったのが下の図です。Wikipediaに書かれている区分に従いました。

この図を見て最初に感じるのは、縄文時代がとても長いということ。縄文時代は狩猟採取の時代で、弥生時代は農耕の時代と学校で習った記憶があります。でも、それは本当のことなのでしょうか。より原始的な縄文時代から、より文化的な弥生時代へと発展したのでしょうか。

縄文遺跡から『土偶』と呼ばれるものが多数発見されています。全国で約1万1千個程度が資料化されているそうです。たくさんある土偶の中でも青森県亀ヶ岡遺跡から出土した通称『遮光器土偶』は異彩を放っています。これと同じデザインの土偶は東北地方の他の遺跡からも発見されています。

亀ヶ岡遺跡出土『遮光器土偶』。両足を付けてみました。

この『遮光器土偶』は、とても洗練されたデザインで美しい。土偶が作られた目的は分かっていませんが、多産や豊穣を祈願するための儀式に使われたのではないかと考える人もいるようです。でも、『豊穣』という日本語は、五穀がゆたかにみのることを意味しています。縄文時代って狩猟採取の時代の筈なのに、『豊穣』を祈る儀式に使われたとは奇妙です。


長井市古代の丘資料館で撮影した『遮光器土偶』 Ⓒなんでも保管庫

亀ヶ岡文化が栄えたのは今から3000年~2300年前の縄文晩期のこと。縄文時代と聞くと、土器に縄で模様を付けていた原始的な文化のような錯覚を覚えますが、少なくとも亀ヶ岡文化では、土器は磨かれ、彩色が施されたりと、まさに、文化と呼ぶにふさわしい豊かな生活を送っていたものと思われます。

さらに、土器についても飛び抜けたデザイン性を持つものがあります。それが縄文時代中期を代表する土器である『火焔型土器(かえんがたどき)』です。日本最古の国宝です。この燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器は、当然、実用的なものではなく、装飾的なものであろうと推測されています。

Wikipediaで縄文時代に関する記事を読むと、結局の所、何も分かっていない、ということがよく分かります。どうでも良い誰かの憶測がタラタラと書かれているだけで、確実なことは何も分かっていない。

イヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器のような形をしていることからこの名称がつけられたなどと、誰かが適当に付けた名前にいつまでもこだわっている感じがします。

この大きな二つの輪っかが、もし目だとしたら、鼻と口と顎はどこにあるの? これだけ優れたデザインをする製作者が、目だけの頭を造るとは思えない。むしろ、この輪っかは『鼻の穴』ではないのか。

もし、これが目だとするのなら、『3Dゴーグル』を付けているように見えます。土偶の頭の後ろにゴーグルのバンドがはっきり見えます。

重要文化財の亀ヶ岡遺跡出土の『遮光器土偶』でさえ、どの地層から見つかったのか誰も書いていない。概略のとても幅広い年代を示すことでお茶を濁しています。学術的発掘ではない出土の経緯から考えて、縄文時代のいつなのか特定できなかったと言うことなのでしょう。

遺伝子情報が明かす縄文人のルーツ

昨年放映されたNHKのサイエンスZERO「日本人のルーツ発見!~”核DNA解析”が解き明かす縄文人」で、とても興味深い内容をやっていたので、放送内容をまとめてご紹介します。

今から1万6千年前、日本列島に暮らし始めた私たちのご先祖様がいました。縄文人です。

縄文人がどこからやってきたのか。ほとんど残っていないと考えられていた縄文人の遺伝情報が発掘された骨から解読されています。そこから見えてきたのは、縄文人が持つ意外なルーツ。他のアジア人と比べると遺伝的に大きく異なることが分かってきました。

縄文人の研究に革命をもたらす核DNA解析。その最新の研究から日本人のルーツに迫ります。

1万3千年続いた縄文時代。北海道から沖縄まで広く生活していたと考えられています。私たちのルーツを探る上で重要な時代。それが縄文時代です。

これまでも古代人の骨を使ってDNA解析が行われてきました。しかし、そこから分かる遺伝情報はほんの一部に過ぎなかったのです。

一般にDNAというと、細胞の核の中にあるDNAを指します。ところが、これまで解析できたのは、ミトコンドリアという器官の中にあるDNAでした。これは一つの細胞の中に数百から数千あることから、残りやすく、ゆえに、解析もしやすかったのです。

ところが、ここに大きな問題があります。それはこのサイズ。

ミトコンドリアDNAの塩基の数は約1万6千個。それに対して核DNAのそれは約30億個と桁違いに多く、情報量が全然違うのです。また、ミトコンドリアDNAには、父親の遺伝情報は伝わらないという難点があります。母親の情報しか入っていないのです。ゲームにもなった瀬名 秀明の小説「パラサイト・イブ」を思い出します。

しかし、核は細胞の中に1個しかないので、DNAが残りにくくて解析も難しい。

今回、技術革新によって核DNAの解析に成功しました。

生命の設計図DNAは、あらゆる細胞の核の中に存在しています。DNAを構成するのは、延々と並ぶ4種類の物質。これは塩基と呼ばれ、A、T、G、C で表されます。

DNAは生きている人であれば、唾液などから大量に採取することができますが、古代人の場合は、骨に残されたDNAを使うしかありません。ところが、その多くは分解が進み、ほとんど残っていないと考えられてきました。

2014年、縄文人の核DNAの解析に初めて成功したチームのリーダー、国立遺伝学研究所 斎藤成也教授とメンバーたちは、核DNAが残っている可能性が高いと考えられる寒冷地域で大量に出土した縄文人の骨がある福島県三貫地(さんがんじ)貝塚を選び、保存状態の良い男女二体の奥歯の内部からDNAの採取が行われました。

解析の結果、見つかった遺伝子の97%までがバクテリアなど別の生き物のものでした。

それでも、残りわずか3%のDNAから縄文人の配列を読み取ったのです。しかし、ここでも問題が判明します。読み取った配列は、ずたずたに寸断されていたのです。それを地道につなぎ合わせる作業を行った結果、やっと縄文人のDNA解析に成功しました。

これにより、ミトコンドリアDNAと違い、親から子へ受け継がれる遺伝情報を全て知ることができるようになったのです。

弥生時代に、渡来系弥生人が日本にやってきました。そこで私たちは渡来系弥生人と縄文人の子孫ではないかとこれまで考えられてきました。そういったことも、核DNAを調べることではっきり分かるのです。

下のグラフは、現代のアジア人500人の遺伝的な特徴を二次元にプロットしたものです。実は、今回解析に成功した縄文人と違い、渡来系弥生人のDNAはまだ解析されていません。そこで、東アジアの人々のDNAデータを渡来系弥生人に見立てて分析を行いました。

この結果、私たち現代日本人は、東アジアの人々とは少し離れた場所に出てきます。さらに、縄文人はまったく別の位置にプロットされています。

現代日本人が大陸のグループからズレている理由は、おそらく縄文人のDNAを持っているからだろうと推察されます。つまり、縄文人と渡来系弥生人が混血して今の私たちができあがっている。大体、15%くらいのDNAが縄文人から私たちにつながっている。

これまで日本人は大陸から渡ってきたと考えられていたため、遺伝子が東アジアの人たちと近いと考えられていました。ところが調べてみると、東アジアの人たちは遺伝子が似ているのに、日本人はそれとは違うことがわかりました。そこで、その違いをもたらす原因を縄文人の影響だと仮定し、縄文人のDNAを分析したところ、やはりその原因が縄文人にあったことが分かったのです。

今回の縄文人の核ゲノムの一部が解読されたことによって、縄文人が現代の東アジア人と比べて遺伝的に特異な集団であったことが明らかとなりました。

では、縄文人はどこからやってきたのでしょうか。

縄文人はどこからやってきたのか

20万年前、アフリカで誕生し世界中に移動していった人類。その中にアジアに向かった集団がいました。約4万年前に東アジアに到達し、その後、この集団は二つに分かれ、一つは東南アジア人の祖先となる集団、もう一つは、アジア人の祖先となる集団に分かれたと考えられています。

これまで縄文人は、骨の形態からは東南アジア人に近いとされていましたが、別の解析からは、さらに北方の人々に近いという説も出ていました。どちらに起源があるのかは論争が続いていたのです。

斎藤教授は、今回、縄文人のDNAを分析したところ、驚きの結果を得ることになります。

縄文人は、現代人の祖先がアフリカから 東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統であること、つまり、東アジア人と東南アジア人に分岐するより古い時代に日本にやってきたらしいとわかりました。そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%(テレビでは20%、論文では15%と記載)程度であることが明らかになりました。※2)、3)


Ⓒ 斎藤成也

日本列島の中で、渡来系弥生人と縄文人との混血が進みましたが、列島の北と南、北海道と沖縄については混血があまり進まなかったのではないかとゲノム解析から読み解くことができます。

日本の記紀神話に登場する、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる熊襲(くまそ)と呼ばれた人々(球磨[くま]族と囎唹[そお]族)は、原田氏によれば琉球出身の人たちだったとしています。卑弥呼の統治時代も抵抗を続けていた熊襲。縄文人の血をより濃く持つ琉球系縄文人と渡来系弥生人が九州南部で覇権を争っていたという構図が見えてきます。

いよいよ邪馬台国の謎解きです。

卑弥呼は卑しい巫女なのか

歴史好きの人たちが誰も指摘しないので、管理人が問題提起します。

当時の中国人が周辺国を蔑み、日本に対しても用いた蔑称の漢字『卑弥呼』。卑弥呼って、卑しい巫女だったのでしょうか。

当時の魏志倭人伝にそのように書かれているからといって、これを”日本語訳”するときに、この偏見に富んだ漢字をそのまま訳語に用いる必然性はないように思います。なぜなら、本来、「音」だけを借りた表記だからです。そのため、少なくともカタカナの『ヒミコ』にするくらいの配慮が必要な気がします。

和気清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に改名させられますが、歴史書では、別部穢麻呂(元、和気清麻呂)などとは誰も書かない。それなのに、蔑称の卑弥呼はそのまま日本語でも使われている。何とも不思議に感じます。

卑弥呼という漢字を”訳語”に平然と載せている研究者は、それの何が問題なのかという思いがあるのでしょう。自分がバランス感覚を失っていることに気づいていないのです。仮にも、わが国の王女であった人物に対し、他国が用いた蔑称をそのまま用いることに何の疑問さえ感じないというのは、歴史研究者としての資質が問われるのではないでしょうか。

今野真二氏の著書『正書法のない日本語』4) を読むと、万葉仮名の当て字の方法について書かれていて興味深いのですが、もし、『ヒミコ』という『音』を万葉仮名で当て字をしたとすると、もっと美しい漢字が充てられたのではないでしょうか。

例えば、陽だまりの巫女、太陽の巫女『陽巫女』や、大王の妃のような女王としての巫女『妃巫女』など、いろいろ考えられます。

ということで、以降は本記事では、カタカナの『ヒミコ』を使うことにしましょう。

余談ですが、管理人の好きな小説家、加治将一氏は、中国とは書かず、意図的に「チャイナ」という「日本語」を用いています。小説家は日本語に敏感になる。歴史家は日本語に鈍感になる、ということでしょうか。

邪馬台国の場所とは

いよいよ、『記紀以前の資料による古代日本正史』に記載されている邪馬台国へのルートを辿ることにします。  Google Mapにプロットしてみました。

管理人は、『魏志倭人伝』に書かれている文字を根拠なく曲解する研究方法には反対です。南と書いてあるのに東と解釈するのでは、とてもまともな研究とは言えません。その根拠として、『三国志』の中で陳寿がそのような過ちを犯している箇所がいくつも見つかったというのなら話が分かりますが、「中国では・・・」と意味不明な理屈を付けるのでは話になりません。

ここで、『記紀以前の資料による古代日本正史』に記されているルートで邪馬台国の場所を追ってみたいと思います。

  1.  魏志倭人伝の邪馬台国へのルートの出発地は、帯方郡。これがどこにあったのか諸説あるようですが、楽浪郡(平壌)の南、現在の京城(ソウル)のあたりとされています。ここから西に海岸まで出て、船に乗ります。どこの港を使ったのでしょうか。現在、韓国の貿易港は、中央政府直轄の「国家管理貿易港」と、地方政府管轄の「地方管理貿易港」に分かれています。14ある国家管理の港でこの近くにあるのが「仁川(Incheon)港」です。港に適した場所は昔も今も変わらないので、たぶん、仁川から出港したのではないでしょうか。
  2. 出港した船は、『狗邪韓国』を目指します。距離は水行7000里。船は、沿岸に沿って進みます。こうやれば最短コースで進める、というのは地図を持っている人が図上で考えたこと。浸水、転覆、座礁など、不測の事態に備えるためでしょうか、海岸線の地形をなぞるようにすすみます。 ずいぶん前のことになりますが、沿岸漁業をしていた知り合いの爺さんにどうやって船の位置を知るのか訪ねたことがあります。その答えは、陸地が見える位置までしか船を沖に出さないのだそうです。
  3. 『狗邪韓国』は、釜山の辺りとされていますが、日本への渡航、相互の侵略などに使われたのは釜山の南に位置する巨済島の港でした。この島の北側の港をプロットしています。この島の南、長承浦港から行く外島(ウェド)は、『冬のソナタ』のラストシーン、「不可能な家」のロケ地に使われたところです。
  4. 『狗邪韓国』からいよいよ倭国に向かいます(『狗邪韓国』は、当時、倭国の一部だったとの説もあるようですが、ここでは重要でないので無視します)。最初が『對馬(対馬)国』。距離、1000余里。対馬のどの港に着いたのでしょうか。今回は邪馬台国までの旅なので、対馬の政庁が置かれている場所の近くの港に入港し、そこの長(大官)に表敬したと考えられます。すると、対馬の南東端に位置する『厳原(いづはら)港』が有力でしょう。ここをプロットしています。
  5. 次は『一支(壱岐)国』。距離は、南に1000余里。
  6. そして、いよいよ九州上陸です。瀚海(かんかい。玄界灘)を通り、上陸したのが『末蘆(まつら)国』(松浦郡の辺り)。距離は1000余里。
  7. ここからは東南に陸行500里で『伊都国』(今の前原付近)に着きます。
  8. さらに、東南に陸行100里で『奴(な)国』(博多付近)に到着。
  9. そこから東に陸行100里で『不彌国』(福間付近)に到着します。
  10. ここから船に乗り換え、水行20日で投馬国(宇佐・中津付近)に到着します。ここで不思議なのが、なぜ、最初から船で投馬国に来なかったのかということ。韓国から乗ってきた外洋船は、上陸した『末蘆国』の港にあります。そこから700里を陸行して、再び船に乗り換える必要があったということです。乗ってきた外洋船では、直接、『投馬国』には行けなかったのです。
  11. 最後は、『投馬国』から再び船に乗り、南下し、水行10日で国東半島を廻り大分市付近に上陸。その後、陸行1ヶ月で『邪馬台国』(現在の西都市)に着きます。

ここが問題の部分です。『不彌国』までは、距離を表す『里』が用いられていますが、『不彌国』から『邪馬台国』までは、何日という時間表記に変わっています。

それはなぜなのか。

理由は、邪馬台国まで一直線に行かずに、あちこちに滞在して歓待を受け、ゆっくりと王女の都に近づいたのではないでしょうか。このため、距離で示すことが難しくなり、かかった日数で示したのではないでしょうか。

その証拠があります。

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」(南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。)とした直後の文で、「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。)と書かれています。

『投馬国』から南下して『邪馬台国』に着いたのに、女王国の以北の距離は書けるけれど省略するネ、と書いてあるわけです。接待漬け、もしくは、温泉に入って酒池肉林の遊びにふけっていたのがバレないように、必死で言い訳している感じです。大分で上陸した後、別府温泉で旅の疲れを癒やしていたのかも知れません。

邪馬台国側が巧妙に仕組んだ接待攻勢。これにより、邪馬台国の正確な位置を(いつ攻めてくるか分からない)魏に知られることもなくなり、作戦は大成功!

なぜ、『不彌国』から『投馬国』まで海路だったのか? これは、地形図を見ると分かりますが、ここら辺は山地が横たわっていて、国東半島を横断できる道路がないからです。『不彌国』から『投馬国』まで陸路を行くことは、少なくとも、魏の使節を伴って行くことは不可能だったのです。

では、なぜ、『不彌国』から直接、『邪馬台国』まで船で行かなかったのか。なぜ、大分付近で船から下りて陸路を進んだのか。

それは、豊後水道があるためです。古事記や日本書紀にも書かれているとおり、日向から宇佐に行くのに『水先案内人』が必要でした。それほど危険な水道だったのです。5)

以上。ルートについては、『記紀以前の資料による古代日本正史』に拠っていますが、その解釈は管理人が考えたものです。距離から時間への尺度の変化についてもある程度、説明できているのではと思います。原田氏の魏志倭人伝に書かれているとおりにそのまま読む、という方法に共感を覚えました。この方法だと、いい加減な説に振り回されずに済みます。

近畿でどんな遺跡が発掘されようとも、『邪馬台国』は西都市にあったと思います。同時代に、他に大規模な施設があったからと言って、それが『魏志倭人伝がつたえる邪馬台国』であるとは言えません。

原田氏の説明は、論理的ではなく使えません。まるで感想文を読んでいるようです。この記事の冒頭でこの本のことを批判めいて書いているのはこのためです。

総論としては良いのですが、細かく見ていくと書いてあることに無理があります。そこで、新たに調べ直して、原田氏の説を補強しました。補強になっているかどうかの判断は、読者にお任せします。

対馬海峡を横断するルートと潮流

上のルート図をプロットしていて気になったのが、対馬海峡を流れる潮流のことでした。

邪馬台国までの旅の記録は1年のうちのいつの時期なのでしょうか。『末蘆国』の部分に「草木茂盛、行不見前人」(草木が茂り、前を行く人が見えない)とあるので、7月始め頃ではないでしょうか。6月は台風が来るし、9月も台風のリスクが高まります。帰りのことも考えると、7月初めが妥当な気がします。

『狗邪韓国』から九州までの海流がどのように流れていたのか気になります。早速調べてみましょう。

潮流の図を一枚示してこうだった、というやり方は、今の時代にマッチしません。潮流は、時間によっても大きく変化します。潮の流れの方向と強さは、一枚の図では表すことができません。

2017年7月1日の福岡県の日の出は5時12分で、日の入りは19時33分です。『狗邪韓国』(巨済島)を夜明けと共に出港して、日のあるうちに『對馬国』へ。そして同様に『對馬国』から『一支国』へ、さらに、『一支国』から『末蘆国』の港にたどり着く必要があります。

九州大学 応用力学研究所 大気海洋環境研究センターが公開している「対馬海峡表層海況監視海洋レーダーシステム」を使って、対馬海峡の潮流の変化を調べてみました。

2017年7月1日の日の出から日の入りまでの潮流の変化です。この日の月齢は7.01で半月です。

風向きよりも潮流に乗って進む方が速度が出そうです。各港に入港するのに、プロットしたルートでは難しいかもしれません。風を捉えて東寄りに舵を切り、潮流に乗って南西方向に流されるというイメージでしょうか。

どうして松浦半島に上陸するのか不思議だったのですが、潮の流れに乗ると、着いた先が松浦半島の『末蘆国』ということなのでしょう。対馬海流は、北東方向に流れていると思っていたのですが、南西方向に流れが変わる時もあることが、このGIFアニメから分かります。

もう一つ潮流に関心を向ける理由があります。それが距離の算定です。現代であれば、Google Mapで簡単に計測できますが、当時は船で渡るのに必要な時間から距離を算出したのではないかと思います。しかし、潮流のため、船は目的地まで直線的に進むことはできず、円弧を描くような進み方になります。このため、距離は長めに算出されるのではないでしょうか。

『余里』の謎

邪馬台国の場所を特定するのに『魏志倭人伝』の距離の記述は重要なことは当然です。そこである疑問が生じます。

『魏志倭人伝』で邪馬台国までの行程を示す記述で『余里』という言葉が使われていますが、それは全部で5箇所あります。

そのうちの4箇所は、海を渡る部分。残る1箇所は全行程距離を示す部分です。

(1) 帯方郡-狗邪韓国  七千余里
(2) 狗邪韓国-対馬国  千余里
(3) 対馬国-一大国   千余里
(4) 一大国-末蘆国   千余里
(5) 末蘆国-伊都国   五百里
(6) 伊都国-奴国    百里
(7) 奴国-不彌国    百里
(8)   不彌国-投馬国   水行20日
(9) 投馬国-邪馬台国  水行10日、陸行1月
(10) 帯方郡-邪馬台国  一万二千余里

ここで狗邪韓国から九州までの部分、(2)から(4)は、全て同じ距離、”千余里”が使われています。これはなぜなのでしょうか。巨済島、対馬、壱岐、九州がそれぞれ等間隔に位置している分けではありません。この謎を無視したのでは、そもそも、距離による邪馬台国の場所の推定など意味をなさないことになります。

Google Earthで計測した実際の直線距離は、巨済島-対馬(厳原港)間は92km、対馬-壱岐(印通寺港)間は67km、そして、壱岐-松浦(名護屋港)は25kmです。これを見たら、『里』が何メートルかを論ずることが馬鹿らしくなります。末蘆国が松浦ではなく、特定が間違っているとしても、巨済島-対馬、対馬-壱岐間が同じ1000余里では話になりません。

ちなみに、末蘆国は「マツロ国」という読みは誤りです。「蘆」の字は中国語の韻図である『韻鏡』の模韻一等という音に属して、漢魏の時代の音では「ラ」に当たるから「マツラ」と訓むべきで、長崎県の「松浦(まつら)」にピッタリ当たります。 13) p.215

なぜ、陳寿はこのように書いたのでしょうか。誤差を示す『余里』と書くことでごまかしたのでしょうか。

管理人は、この部分の距離の算定は『視界』を用いたのではないかと考えました。潮流の激しい対馬海峡を渡るのに、距離を計測することは無理だと思います。潮流により大きく流され、早く着いたりすごく時間がかかったり、さらに、風向きにより蛇行したりと、船に乗って距離を正確に測ることなどできないと思います。

このため、次の島がかろうじて見えるか見えないか、その距離を『千余里』としたのではないでしょうか。1年のうち数日しかないようですが、対馬から巨済島を見ることができるそうです。同様に、対馬から壱岐を見ることができる。そして、九州の海岸近くの高台から壱岐を見ることができる。どれも、天候の良い日に、かろうじて見え程度のようです。

ところで、かろうじて見えた複数点の距離が同じとは限りません。東京からも筑波からも富士山が見えますが、見えたからといって、そこまでの距離が分かるわけではありません。(やろうと思えばできないこともないのですが。)

以前、『水平線ってどこにあるの?:詳細に距離を計算してみる』という記事を書きました。関心のある方はご覧下さい。

このように見ると、海を渡る部分の距離はまったく当てにならないと思いますし、この数値をいじくり回して何らかの結論を導こうとすることは無意味なように思います。

高木彬光の小説『邪馬台国の秘密』では、この「余」を各行程の誤差として捉え、その誤差の蓄積によりこれまで誰も解けなかった距離の謎を解いたとしています。

解読を困難なものにしている 不彌国-投馬国間の水行20日、そして、投馬国-邪馬台国間の水行10日、陸行1月について、実際の距離はどうだったのか。全行程の総距離から、距離が書かれている不彌国までの累計距離の差を計算すると1,300里になります。

つまり、帯方郡から不彌国までの累計距離1万700里(上の(1)~(7))と帯方郡から邪馬台国までの距離12,000里(上の(10))との差1,300里は、不彌国から邪馬台国までの距離と考えられます。しかし、高木彬光は、「余」が示す累積誤差で、この1,300里は、距離ゼロの場合もあり得ることを示しました。

管理人とは別のアプローチですが、この説は面白い。誤差の範囲であるので、50里未満であれば、敢えて距離は書かない。不彌国に近接して投馬国と邪馬台国があったのかも知れない。

『魏志倭人伝』の記述は、距離を表す『里』と並んで、「水行10日」、「陸行1月」などと書かれているため、これも距離を示していると勘違いしてしまいます。よく考えると、「何日」というのは「距離ではなく時間」を示しています。所要時間です。

高木彬光は、小説の中で、この日数の部分は全て帯方郡からの所要日数としています。帯方郡-投馬国が水行20日。帯方郡-邪馬台国が水行10日、陸行1月という解釈です。そして、前者は、別働隊の行動旅程と推理しています。小説の邪馬台国は宇佐。最初に九州に上陸した場所は、松浦半島ではなく、福岡県宗像の神湊としています。世界遺産登録で話題のスポットです。

この小説が発表されたのは1972年のこと。邪馬台国ブームの火付け役となり、ベストセラーにもなりました。原田常治の『記紀以前の資料による古代日本正史』の刊行はその4年後の1976年です。

距離だけでは、何日かかるのか見当も付きません。険しい山越えの連続なら、距離が短くとも時間(日数)がかかります。危険な海域を航行する場合も同様です。だから、距離の他に、時間も併記した? でも、そういう読み方はできそうにない。

ところで、魏の使節は、一日、どのくらいの距離を歩いたのでしょうか。当時の道路の整備状況は良かったとは思えません。さらに、山越えの連続だったのではないでしょうか。現在ある海岸部の平地は、当時は海の中でした。

管理人のイメージとしては、和宮降嫁の旅で、和田峠を越えた時が参考になるのではないかと思いました。中山道最大の難所です。先日、NHK-BS「浮世絵ツアー・中山道六十九次名所歩き」という番組で、林家三平が和田峠を越えるシーンを見ましたが、こんなすごいところを和宮が越えたのかと思えるほど、とても険しい、駕篭などぜったいに使えない山道でした。まるで登山道です。

1861年12月7日、和宮の大行列は、下諏訪宿を朝7時に出発して、中山道最大の難所、和田峠を越え、夕方6時に和田宿に到着しました。この間の距離は約22kmです。翌日も次の宿泊地、八幡宿までの22kmを進みました。どうも、一日20km程度が相場という感じでしょうか。

和宮降嫁の例から、三世紀の九州でも、一日20km位は歩けそうです。でも、管理人的には、山道を、重い荷物を持って、10kmも歩くなど不可能です。たぶん、5kmも歩けないでしょう。平地なら20km位は歩けるでしょうが、それは舗装された平坦な道路の話。やはり、1日10km程度が妥当なところではないでしょうか。魏使の一行は、少なくとも30人はいたでしょう。荷物は倭国の運搬係が担当したでしょうが、大人数が山道を歩くのに、予想以上に時間がかかるように思います。

宗像氏と外洋航海

管理人が疑問に思ったことは、当時、どのような船で倭国と大陸の間を行き来したのかと言うことです。

1975年、古代の船を再現し、朝鮮半島から九州まで玄界灘を渡る実験航海が行われました。その時の船は14本の櫂(オール)で漕ぐ船が用いられました。この時は、相当潮に流され、本当に必死だったとのこと。

さらに、2004年、“海王”と命名された復元古代船が進水しました。この船の漕ぎ手は18名。長さ11.9m、幅2.lm、重量約3.4トンの船体、18本のオールで漕ぐタイプでした。

当時の写真を見ると、どちらの場合も、船上は漕ぎ手で一杯。他の乗客や荷物を乗せるスペースはほとんどありません。邪馬台国への土産物を梱包した物だけでもかなりの容積があったでしょう。

魏使はどこに乗るのでしょうか。魏使の人数は、少なくとも30人程度はいたと思います。このため、邪馬台国まで行った魏使が使った船は、復元古代船よりもはるかに大きな船だったと思われます。

倭国において最も高度な技術を持つとされる宗像氏でも、その技術の元である中国(ここでは魏)の技術には足下にも及ばなかったのかも知れません。古代船の復元で、なぜ、漕いで渡ろうとするのか管理人には理解できません。後の時代になりますが、遣隋使や遣唐使が船を漕いで大陸に渡ったとは思えません。やはり、帆船のように風を使ったのではないでしょうか。出土した遺物の中にある石船には、帆はないかも知れませんが、帆は布で作られていたため、遺物として後世に残らなかったのかも。でも、遺物に帆柱の跡がないからこそ、漕ぎ手の腕力だけで海峡を渡るという実験が行われたということでしょうか。

宇佐神宮(亀山遺跡)は前方後円墳なのか

高木彬光の『邪馬台国の秘密』を読んでいると、宇佐神宮の亀山が前方後円墳らしい。
しかし、Google Mapで確認しても、・・・前方後円墳には見えない。

そこで、国土地理院の地形図で確認してみました。


Source: 国土地理院、陰影起伏図

等高線だけではどうも分からない。そこで、Google Earthに地形図と前方後円墳の絵を重ねてみます。

次に、上の赤い線で断面図を表示します。

なんとなく、前方後円墳のように見えてきました。

ところで、こういう作業をしていると気づくことがあります。それは前方墳の位置が南の山とかなり接近しているということ。どうしてこの位置に造ったのだろうと考えてしまいました。あと50mばかり北側に位置をずらせば良かったのに。

亀山の北側にある菱形池は、亀山を造築するときの土取り場の跡という、思いっきり思いつきの説もあるようですが、まったくのでたらめなのが、上の図を見れば分かります。

ここを卑弥呼の墓だとか言う前に、亀山が人工的な盛り土だと考えるのなら、なぜ、この場所、この位置、この方向に築造したのかを説明して欲しい。

この場所は、卑弥呼の墓を造るには南の山が迫っているため、適地とは言えないと思います。狭っ苦しいのです。南の山の等高線には、切り土の跡は確認できません。

『魏志倭人伝』に書かれている他の国はどこだ

 『魏志倭人伝』に書かれている「国」。この書の冒頭に次のように書かれています。

 「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。」(倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。)

ここで注目すべきは、「百余国」と「30箇国」の記述。後者には、「30余国」とは書かれていないのです。つまり、 邪馬台国は30ヵ国の連合国家だということです。29ヵ国でも、31ヵ国でもなく、30ヵ国なのです。

では、30ヵ国とはどういう国なのか。  実は、その全ての国の名前が、『魏志倭人伝』に書かれているのです。  『魏志倭人伝』の中で「○○国」として最初に出てくるのが『狗邪韓国』です。そして、対馬、壱岐、・・・、と経て、邪馬台国に至ります。

この間、「○○国」と書かれているのは九つです。  次に、邪馬台国以降の記述で、国の名前が羅列されている部分があります。

「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。」(斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。)の部分です。(和訳はWikipedia)

この部分の国の数を数えたことがありますか? 21なのですよ! 最初の九つを加えると、ピッタリ30ヵ国になります。

ここで分かることは大きく二つ。ひとつは、「30余国」ではなく「30ヵ国」と書いたら、その全てを示すという厳密な著者の執筆姿勢を窺い知ることができます。そして、そこには、『狗邪韓国』も含まれると言うこと。

もうひとつは、「此女王境界所盡(此れが女王の境界が尽きる所である。)」とあるように、邪馬台国の範囲を漏らさず示していることです。

Wikipediaの和訳では、「次有」の部分は訳していませんが、全て省略せずにこの記述がなされていることから、この21ヵ国が連続して存在していると読むのが普通の読み方でしょう。

そこで興味深いのが『記紀以前の資料による古代日本正史』における当該部分です。

原田氏は、邪馬台国の場所を宮崎県西都市と特定し、これ以降の国々を南西諸島に当てはめています。

魏志倭人伝にある国名 特定した国
 ① 斯馬(しま)国  種子島
 ② 己百支(じはき)国  竹島
 ③ 伊邪(いや)国  硫黄島
 ④ 都支(たき)国  黒島
 ⑤ 彌奴(みな)国  屋久島
 ⑥ 好古都(こかた)国  口永良部島
 ⑦ 不呼(ほこ)国  口之島
 ⑧ 姐奴(つな)国  中之島
 ⑨ 對蘇(つさ)国  臥蛇島
 ⑩ 蘇奴(さな)国  平島
 ⑪ 呼邑(こお)国  諏訪之瀬島
 ⑫ 華奴蘇奴(かなさな)国  悪石島
 ⑬ 鬼(き)国  宝島
 ⑭ 爲吾(いが)国  横当島
 ⑮ 鬼奴(きな)国  鬼 - 喜界島
 ⑯ 邪馬(やま)国  奄美大島
 ⑰ 躬臣(こじ)国  加計呂麻島
 ⑱ 巴利(はり)国  請島
 ⑲ 支惟(きい)国  徳之島
 ⑳ 烏奴(あな)国  沖永良部島
 ㉑ 奴(な)国  与論島

  『記紀以前の資料による古代日本正史』による邪馬台国以南の国々の名前と場所の特定

 表を見てもよく分からないので、地図をつくってみました。

最初、『記紀以前の資料による古代日本正史』でこの地図を見たとき、もう邪馬台国の位置は解き明かされたんだ! と感動しました。

しかし、本をよく読むと、いつものように、原田氏の感想文は書かれているものの、これらの国々をどうやって南西諸島の島々に当てはめていったのか、その方法論はどこにも書いていません。おまけに、「一つ一つのこの地方のなまりの発音と、このアテ字の音で合わせたら、何か説明がつくと思うが、ここではその必要もなく、また、そういう語呂合わせのコジツケは私は好きではない。」(p.491)と書いてある。

さすがに、この文章はムカつきます。本を燃やしてしまいたい衝動に駆られます。でも、「大人読み、大人読み」と呪文を唱えながら読み進めます。

管理人が気に入ったのは、「大局的見地」では、すごく筋が通っていること。それは、これまでだれも解けなかった謎、魏志倭人伝に書かれている「計其道里、當在會稽東冶之東。」(その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。)という一文の謎が完全に解けるということです。

會稽は、浙江省会稽、そして東冶は、福建省福州とされています。
この二つの緯度の間に、邪馬台国の南はすっぽりと入ります。

Google Earthで緯度経度を表示します。浙江省会稽と同じ緯度に屋久島の南が位置します。そして、東冶と同じ緯度に、沖縄本島の南端がピッタリと位置しています。

驚いたことに、地図の見方を知らない研究者がいるようで、台湾を指しているなどと書いている人もいます。”地図の東は右側”という思い込みのようです。使った地図が何図法なのか知らないで本を書いているようです。

地図の図法については、過去記事『謎のオーパーツ!ピリ・レイスの地図』で書いていますので、関心のある方はご覧下さい。

海の民、宗像氏

邪馬台国へのルートで、管理人が最も疑問に思うことは、九州への上陸は、本当に松浦半島だったのかということです。

確かに、松浦半島は、壱岐からは一番近い場所に位置していますが、交通の便が悪い。本当に、こんな場所が上陸地点なのだろうか。

九州へは一度も行ったことがなく、土地勘もないので、この疑問が解決できない。

2017年11月3日放送のNHKの歴史秘話ヒストリア『沖ノ島~日本 はじまりの物語~』で、宗像氏について、興味深い内容の番組が放映されていました。

沖ノ島が世界遺産に登録されたのは知っていましたが、それがどこなのか知らなかった(汗)。

沖ノ島がメディアに注目されるようになったのは、つい最近のことです。このため、一般人の立入が制限されている沖ノ島についての情報は本当に少なかったように思います。1965年以降の邪馬台国ブームの研究においても、宗像の地に着目したものはほとんどなかったのではないでしょうか。邪馬台国関連で、沖ノ島のことを書きたくても、情報がない、という状態だったと推測できます。

ところが、世界遺産登録申請を機に、沖ノ島、宗像氏への関心が一気に高まった。そして、世界遺産登録。

歴史秘話ヒストリアで、このベールに包まれた沖ノ島と宗像氏のことを詳しく紹介していたので、少し、番組をまとめてみます。

今年7月、世界遺産に登録された『沖ノ島』。

常駐しているのは福岡宗像大社の神職一人。

いにしえ、このもりで神への祈りが行われました。

それは、日本の夜明けと共に始まった祈りでした。

神宿る島、沖ノ島。そこに眠っていた8万点もの国宝。古来、沖ノ島の祈りを担ったのは、宗像氏と呼ばれる人々でした。胸に刻んだ入れ墨から、その名が付いたとも言われる大陸との間を自在に行き交った海の民です。

その古墳には、華麗な装飾も残されています。九州で独自の文化が花開きました。しかし、古代最大とも言われる戦乱が襲います。

Ⓒ なんでも保管庫、胸に三角をあしらった入れ墨を入れた海の民、宗像氏

宗像神社。古くから天皇家との深いつながりで知られています。

Google Mapで宗像市、そして、宗像大社の位置を確認しておきましょう。

下の画像は、国土地理院の陰影起伏図です。現在の宗像大社がある場所は、海抜5m程度の低地です。邪馬台国の時代に、この場所は海の底だったと考えられます。当時の宗像神社は、現在の宗像大社の場所から西側にある丘の上だったでしょう。国土地理院の地図では、宗像神社境内となっています。

日本書紀には、天皇の祖先とされる天照大神が宗像三女神を生んだとあります。それが、市杵嶋姫(いちきしまひめ)、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)。

女神たちは、それぞれ宗像にある辺津宮(へつぐう)、沖10Kmにある中津宮(なかつぐう)、そして、沖60Kmの沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)に祀られています。この三つの社の総称宗像大社とその周囲の古墳群(新原・奴山古墳群、沖津宮遙拝所、小屋島・御門柱・天狗岩)などが、今回、世界遺産に登録されました。

その中で全ての根源とされるのが『沖ノ島』です。

周囲4Kmの小さな島は、なぜ人々の信仰を集める神宿る島となったのでしょう。

4世紀から9世紀までの約500年間の古代祭祀の跡が、沖ノ島の原生林に残っています。沖ノ島で行われてきた祭祀。古代の祈り。

島から、一木一草一石たりとも持ち出してはならない。そんな厳しい掟が、沖ノ島を太古のままの姿に留めてきました。

1954年、沖ノ島に初めて学術調査が入りました。12回に及ぶ調査で、沖ノ島がいかに重要な島か、初めて明らかになります。調査を始めると、林立する巨岩の周りから次々と宝物が姿を現しました。

調査の結果分かったのは、沖ノ島で500年もの間続けられた大がかりな祭祀の姿でした。

始まりは4世紀の古墳時代。岩に神が降臨するとされ、岩の上に宝物が捧げられました。鏡や曲玉など、古墳から見つかる品が出土しました。

続いては7世紀の飛鳥時代にかけて。岩陰からペルシャガラスなど海外の品が見つかりました。そして、9世紀の平安時代にかけて、祭祀は岩を離れ、平地で行われました。奈良三彩と呼ばれる陶器など、国産の品が大量に見つかりました。

日本の祭祀の変遷が一つの島の中でわかる。そういう遺跡は、他に日本にはない。
岩に神が宿るという自然崇拝から、神社の原形とも言える平地での祈りまで、沖ノ島はこの国の祭祀の変遷が確認できるたったひとつの場所だったのです。

それにしても、いったい誰がこのように大がかりな祭祀を行ったのか。

1957年に始まった第2回学術調査で大きなヒントとなるものが見つかりました。岩と岩の隙間から続々と姿を現した鏡です。なかでも、神の姿や聖なる動物が刻まれた『三角縁神獣鏡』は、研究者の関心を惹きました。

古代史研究の第一人者、大阪府立近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎さんによれば、この鏡は、誰が沖ノ島の祭祀を行ったのかを示す決定的な証拠だと言います。

『三角縁神獣鏡』は、ヤマト政権が手に入れて、畿内に保管されていた、そういう鏡であることはほぼ間違いない。これはやはり、ヤマト政権が沖ノ島の祭祀を行った、国家的な祭祀として行ったと考えられる。

祭祀を行ったのは、現在の近畿地方を基盤とするヤマト政権。しかしなぜ、遠い絶海の孤島で500年もの間、国家的な祭祀を行ったのか。白石さんは、沖ノ島の位置に大きな意味があると考えています。

沖ノ島の位置はまさに瀬戸内から関門海峡を出て朝鮮半島に至る最短距離に接してあるわけですから、象徴的な意味は非常に大きいと思います。沖ノ島の神に海上交通の安全を祈るという心理はよく分かる。

管理人には、この説明はさっぱり理解できません。もっと論理的に説明して欲しい。

海の交易を4世紀、ヤマト政権は重視します。

大陸文化を導入し、大きな力を手に入れました。交易を確かなものとするため、各地でその安全を祈る祭祀が行われました。その一例が、瀬戸内海の大飛島(おおびしま)にあります。沖ノ島と同様の岩の周囲などから奈良山菜が大量に出土しています。

奈良山菜は中国にならって作られた日本初の彩色の陶器。極めて貴重な品でした。ほとんど同じものが沖ノ島から出土しています。

ヤマト政権が重視した海の交易。大陸とのルート上にある沖ノ島の遺跡と8万点もの宝物は、日本の夜明け、国の威信をかけて行われた祈りの跡だったのです。

この説明は理解できない。メート上にあるというただそれだけの理由で結論に結びつけようとしている。

宗像大社の拝殿の額に刻まれた『奉助天孫』。日本書紀に記された宗像大社の役目を示す言葉で、『天孫』、つまり、天皇を助け奉れという意味だそうです。

次に向かったのが「神宝館」。沖ノ島から見つかったたくさんの国宝を納める場所です。

ここで最も重要な宝物が「鉄の板」。

沖ノ島の祭祀が始まった古墳時代。近畿地方を基盤とするヤマト政権は倭と呼ばれ、大きな力を持っていました。その大王(おおきみ)の墓から出土するのは、鉄の甲冑。鉄の剣。それまでの青銅に変わり、はるかに強い鉄の雛がずらり。そんな鉄が、なぜ、沖ノ島で神に捧げられたのでしょうか。

実は、この時代の鉄をたどると、日本と東アジアをつなぐ物語が浮かび上がります。
倭を出発した船は、現在の釜山の近くに到着したと言われます。

当時、半島南部の加耶韓国は、倭が頻繁に交易した相手でした。加耶を代表する古墳『大成洞古墳』。近年、この古墳から、鉄の板(鉄鋋:てってい)が大量に出土しました。鉄製品の原料です。鉄鋋は当時の倭にとって貴重な戦略物資でした。倭は鉄を手に入れるため、はるばる韓国までやってきました。そのような過程の中で、沖ノ島の祭祀は生まれたと思われます。

当時、朝鮮半島からもたらされた大量の鉄。その鉄をたどって次に向かったのは半島西部。かつての百済の地です。ここにも倭人の足跡が残されていました。6世紀前半に造られた前方後円墳。ヤマト政権独自の形をした古墳です。倭の前方後円墳を模倣して造られたと考えられています。百済の通常の古墳よりはるかに大きいものです。こういったものが10基以上造られました。埋葬者は不明です。なぜ、百済に日本独自の古墳をつくる必要があったのか。

韓国の研究者は、当時の国際情勢から読み解きます。4世紀、朝鮮半島は緊張状態にありました。高句麗が南に侵攻。国々は存亡の瀬戸際に立たされたのです。半島東部の新羅が高句麗の影響下に入る一方、百済は倭と結び高句麗に対抗しました。そのような状況で百済は前方後円墳を造りました。高句麗に倭とのきずなをアピールしようとしたのでしょう。

さらに、百済は、倭との鉄の交易を進め、同盟国、倭の軍事力を強化しようとしました。ヤマト政権は百済の「鉄」を吸収、政権基盤を固めていきました。

続いてやってきたのは、朝鮮半島の西海岸。ここに倭と百済との盛んな交流の証があります。岬の突端にある竹幕洞遺跡。沖ノ島と同様の海の安全を祈る場でした。ここからは、百済や中国の品が大量に出土しています。沖ノ島に捧げられたものとよく似た倭人の作った石製品もあります。倭人がここで祭祀を行った証です。国を超えて行なわれた海の神への祭祀。祈りは今も続いています。

古代の鉄をたどる旅。終着点はプヨ(扶余)。百済の都だった街です。
ここに6世紀の百済の王、武寧王の墓があります。

日本書紀に拠れば、武寧王は百済人の母のもと倭で生まれ、後に百済王になったと言われる人物です。その墓の内部はレンガ造り。ここに注目すべきものがありました。王の遺体を納めた棺です。この木の棺は、日本からもたらされた高野槙(こうやまき)で作られています。百済の王族や貴族たちは日本の高野槙を好みました。とても香りが良く、腐りにくいからです。この木材は樹齢200年を超えているでしょう。

鉄をたどって見えてきた濃密な交流。文字や仏教など様々な文化ももたらされました。沖ノ島は、日本の夜明けをはぐくんだ豊かな交わりを支えた島だったのです。

大島は、宗像三女神のうち、田心姫の神を祀る中津宮があります。ここから、50km離れた沖ノ島が見える。

沖津宮遙拝所。沖ノ島は女人禁制。大島の女性たちはことあるごとにここに足を運びました。

安全航海を今も祈り続けている。

今も続く沖ノ島への祈り。2000年も前から沖ノ島に思いを寄せてきた海に生きる人々の物語です。

宗像の地。古代、宗像氏という海の民の本拠地でした。近年、この地の弥生時代の遺跡(田熊石畑遺跡)で大発見がありました。沖ノ島の祭祀遺跡より500年以上前の時代です。発掘を担当した考古学者の西谷正、海の道むなかた館館長によると、「青銅器が出土しました。ひとつのお墓から日本列島で最多の15本出土しました」。鉄が導入されるまで最先端の道具だった青銅器。それが、ひとつの墓からとしては最も多く出土したのです。宗像地域には、弥生時代から古墳時代、奈良時代と常に半島の先進的な技術や文化が入ってきており、国際性に富んだ地域だった。大陸との交易のおかげで、既に弥生時代から宗像は日本で最も進んだ地域のひとつでした。それを支えたのが宗像氏の高度な航海術です。

1975年、西谷さんは古代の船を再現し、朝鮮半島から九州まで玄界灘を渡る実験航海にかかわった経験があります。相当潮に流され、本当に必死だった。

番組で映った当時の実験航海の写真を見ると、14人で漕いでいました。そのほかに6人くらいの人影が見えます。

対馬海流が流れ込み、大陸からの風も吹く玄界灘。荒海を越えるために、宗像氏の秀でた航海術は、欠かせないものだったのです。こうして、ヤマト政権の海の交易を担った宗像氏。同時に祭祀も司ることとなります。ところが6世紀前半。宗像氏は、ヤマト政権とある勢力との間で決断を迫られることになります。九州の豪族たちです。彼らは当時、大きな力を持っていました。

福岡県桂川町の「王塚古墳」。中には華麗な装飾が施されています。目を奪う鮮やかな色彩と、斬新な造形。装飾古墳と呼ばれます。

九州の豪族たちはヤマト政権とは違った形の高度な文化を築いていたのです。彼らの古墳の代表的な図柄が『船』です。

外国との交易で富を蓄えた九州の豪族たち。中でも福岡の八女(やめ)を本拠地とした磐井氏の力は、他を圧倒していました。その古墳は装飾の他にも際だった特徴がありました。石人(せきじん)は磐井氏の古墳の周りに置かれた巨大な像。ヤマト政権では埴輪が置かれました。石人と石馬は磐井一族のシンボルで、九州でたくさん作られました。石人、石馬のルーツは、大陸で、磐井は大陸・朝鮮半島と独自のネットワークを持っていました。こういった大陸の文化も積極的に採り入れ、交易によって、非常に財力も、それから軍事力も保持・蓄えていました。

大和朝廷にとっては脅威的な存在になっていました。

6世紀の初め、ヤマト政権がこの地に攻め入りました。古代最大の内乱とも言われる磐井の乱(527年)です。

攻撃の理由、それは磐井氏が朝鮮半島の新羅と通じ、反逆を企てたというもの。当時、ヤマト政権は、百済との同盟のもと、貿易を独占しようとしていました。磐井氏と新羅とのつながりを見過ごすことはできなかったと考えられます。

その結果は、磐井が負けます。磐井が負けたとき、大和朝廷の兵士たちは、磐井の石人・石馬をことごとく破壊しました。

一方、宗像氏は生き残りました。ヤマト政権につくことを選んだと考えられます。宗像にある世界遺産、新原・奴山古墳群。ヤマト政権独自の前方後円墳が造られました。その後も、沖ノ島の祭祀を担い続けた宗像氏。彼らの思いのこもった遺物が沖ノ島から見つかっています。石で作ったたくさんの船。海の民の象徴です。そして、船が捧げられなくなった平安時代。沖ノ島の国家的な祭祀は終わりました。しかし、島への想いは今も続いています。 (以上、番組よりまとめ )

この番組は、主に4世紀以降の出来事でまとめています。それ以前、つまり、邪馬台国の時代については触れていません。

沖ノ島の歴史も、4世紀から9世紀の祭祀の跡、そしてヤマト政権との関係の説明はありますが、それ以前のことには触れていません。番組をまとめ上げるために、そういう方向で整理したようです。しかし、実際には、沖ノ島から弥生時代の遺物もたくさん見つかっています。それを説明すると、ストーリーが狂うので無視です。

邪馬台国との関係で言えば、沖ノ島の沖津宮社殿周辺で発掘された約2万点の縄文時代・弥生時代の遺物こそ注目すべきでしょう。ヤマト政権以前から、この絶海の孤島沖ノ島に、宗像氏、あるいは、彼らの祖先が渡っていたのです。邪馬台国の時代、大陸へ渡るのに、海の民、宗像氏が中心的な役割を果たしたことは想像に難くない。

もし、そうであるのなら、壱岐の港を出港した魏使たちを乗せた船が向かう先は、宗像の地、神湊(現在の神湊漁港)。ただし、当時と現在とでは、海面の高さが違うようなので、現在の標高2、3mの場所は海の底だったと考えられます。このため、神湊の位置はもっと内陸側にあったと思います。

国名は音で記載されているのか

ふと、面白いことに気づきました。

そもそも、邪馬台国の謎の言い出しっぺは、江戸幕府の御用学者、新井白石です。

彼は、魏志倭人伝に挙げられている国々を特定するのに、その「音読み」を用い、該当しそうな地名と照らし合わせて、国の位置を比定していきました。

管理人が、ふと気づいたのは、中国人って、日本人が考えている漢字の音読みで発音するの? という基本的なことです。

確かに、古代日本では、万葉仮名に見られるように、日本語を漢字の音に置き換えて、表記する方法が採られました。誰でも知っていることです。

でも、その逆はあるのでしょうか。つまり、日本語の音を中国語の音に当てはめたと。

そんなことは当たり前じゃないかと思ってしまいます。でも、それは本当でしょうか。

今の世の中、とても便利になっており、中国で使われていた『繁体字』の発音と意味をGoogleで簡単に検索できます。なお、中国本土では、日本の漢字学者が嘆くような、語源を無視して極度に簡略化した『簡体字』が使われています。日本の漢字が語源を考慮しながら簡略表記されてきた歴史とは異なり、中国では自らの文化を軽んずる文字の改編が行われました。そのうち、中国人が漢字の勉強に台湾や日本に来る日があるかも知れません。

邪馬台国の使節が話した自国を構成する国々の名前を聞いて、当時の中国人がそれを書き写したとします。日本語とローマ字であれば、発音上は、ほとんど違いはありません。『邪馬台国』は『Yamataikoku』と表記できます。実は、これはヘボン式ローマ字を作ったヘボン博士の功績なのですが。

では、『邪馬台国』は中国語でどう発音するのでしょうか。日本語の音を聞いて、それを漢字に当てはめたとするのであれば、中国語の『邪馬台国』の発音も『Yamataikoku』になっている筈です。

でも、全く違うのです。


出典:Google翻訳、以下同じ

上の画像の下部にある発音に着目。発音を聞きたい人は、自分で検索してスピーカーアイコンを押して下さい。

以下に、他の国々の例を示します。なお、これはGoogleの翻訳を使っているので、その精度は推して知るべし、なのは常識ということで。

いかがでしょうか。これまで、誰も疑わなかった『音』を介した中国語・日本語の相互翻訳が、まったく成り立っていないことが分かるのではないでしょうか。

ヘボン博士の功績に預かっている日本人ですが、実は弊害もあります。それは、子音の連続する英語の発音に、母音を持ち込んだことです。

例えば、いま何時?、という英語に「掘ったイモいずるな」という日本語で対応した明治の人たちの方が、耳から聞いた「音」をそのまま日本語に置き換えた点で優れています。テレビでやっていましたが、実際、「掘ったイモいずるな」と英語圏の人に聞くと、相手はちゃんと意味が理解できる。

管理人が中国に行ったときに感じたのは、筆談では意思疎通ができるけれど、発音ではまったく無理、ということでした。新井白石が魏志倭人伝に書かれている「国名」を九州の地名にあてはめる時に使った「音」は、日本人の使っている漢字の音読みの「音」であって、三国志の著者が使った「音」ではなかったのです。

中国人が、彼らの耳で聞いた日本語を、それと同じ発音の漢字をあてて書いたのが魏志倭人伝の国名の部分。日本人が、日本語を書くときに漢字を用いて書いた万葉集と同じように考えるのは大きな過ちを犯しているように思います。

管理人は、新井白石により「音」を用いた諸国の比定は、振り出しに戻すのが妥当だと考えます。

万葉集でさえ読めない日本人

「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」

『万葉集』の代表歌人、柿本人麻呂の代表作としてあまりに有名な歌です。『万葉集』は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。

この歌が多くの謎を含んでおり、正統派の研究者の間でも諸説紛々として、未だ結論に至っていない。その面でも有名な歌です。

この歌には様々な謎があるのですが、その最たるものが、「ほんとうはどう詠んだのかはわからない」という信じられないことが、研究者の間で謎とされています。

嘘のような本当の話です。この歌を詠んだ人も、詠んだときの状況も確実な出典でわかっているのに、この歌をどう詠むのか、専門家の誰もが納得するように説明できない。

万葉集の原本には、「東野炎立所而反見為者月西渡」と書かれています。私たちの先祖が、漢字を借りて日本語を書き表しました。しかし、当時の読み方が伝承として伝わらなかった。

万葉集が編まれてから200年後の10世紀半ばに、宮中の梨壺に撰和歌所(せんわかどころ)という役所が設けられ、万葉集解読(訓読)の事業が始まります。つまり、この時点で、万葉集の読み方がわからなくなっていたのです。この時、万葉集に収録されている全約4500首のうち、短歌のほとんどに訓がほどこされました。

この時の資料は失われてしまい、現存する最も古い資料は、平安時代末期の1184年に書かれた『元暦校本』と呼ばれるものです。

ここには、「あづまののけぶりのたてるところみてかへりみすればつきかたぶきぬ」とフリガナがほどこされています。

では、柿本人麻呂は本当にこのように詠んだのか。それが分からないから謎なのです。

最初に挙げた「ひむがしの・・・」という読み方は、実は、江戸時代中期に初めて出てきたもので、江戸初期より前の資料は、すべて「あづまのの・・」と書かれている。この読み方を論理的に説明したのが、江戸時代中期の国学者で歌人の「賀茂真淵」(1697-1769)です。そして、彼の読み方はあっという間に他の読み方を駆逐してしまい、以降、賀茂真淵の訓で統一されてしまいます。9)

ここまでで分かったことは、ふたつ。

ひとつ目は、漢字だけで書かれた古代の文章は、現代日本人には読むことができないこと。古代の人たちでさえ、200年経てば、言葉の揺らぎで、当時どのように読んでいたのかが分からなくなると言うこと。読み方が分からないので、どこで区切ればよいのかもわからない。

二つ目は、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』が書かれた頃には、西暦248年に亡くなったとされるヒミコの時代の資料は、もし残っていた(或いは、存在していた)としても、まったく読めなかった可能性があると言うこと。言葉の揺らぎで、話す言葉が変化すれば、その音を漢字で表記した文書は、読むことはできない。当時の漢字は、表意文字ではなく、表音文字として使われているので、漢字の意味から内容を推測することもできない。

消えた縄文人

産総研で、とても興味深いデータを公開しています。
それが『活火山分布図』 10)。 単なる分布図ではないところが産総研のすごいところ。火山名をクリックすると過去1万年間の噴火履歴が表示されます。そして、その火山の過去の噴火履歴など詳細な情報を閲覧することができます。


出典:産総研 10)

産総研の活火山分布図を見ると、日本中が火山の巣窟であることが分かります。そして、もう一つ分かること。それが地図の『白地』の部分の存在です。

関東、近畿、紀伊半島、四国、瀬戸内周辺には活火山がありません。九州を見てみると、福岡・長崎といった北九州、宮崎にも活火山はなく、白地が広がっています。

上で書いたように、縄文時代の人たちは原始的な生活をしていたとは言えないようです。
縄文時代から弥生時代に移るとき、これまでの定説とは全く違う『何かがあった』のではないかと考えました。

上図の白地の部分の位置をよく覚えてから、下のgifをご覧下さい。石器時代から弥生時代末期にかけて全国で発掘された遺跡の場所を時代区分別にプロットしたものを作ってみました。活火山の位置を重ねて表示しています。


Ⓒなんでも保管庫

上のGIFを見て、「あれっ?」と思われたのではないでしょうか。連続表示するから気づくこともある。

これを見て、何に気づきました?

最初に気づくのは、「4 縄文中期」と比較して「5 縄文後期」に遺跡の数が極端に減っていること。それも、近畿以西で。
なぜ、発掘された縄文後期の遺跡の数が、こんなに極端に少ないのでしょうか。

ひとつ考えられるのは、弥生遺跡の下に埋もれているため、確認されていないということ。ただ、それは、それ以降の遺跡でも言えることです。同じ場所に住み続けたため、古い遺構は、さらに地下深くに存在する。あるいは、古い遺構を壊しながら住み続けた。そのようにも思えますが、やはり、気になります。このGIFはある出来事の存在を暗示しているようにも思えます。

時期区分で、縄文時代後期は、今から約4,500~3,300年前らしい。上のGIFは晩期も含んでいると思われるので、2,800年くらい前までかも。

管理人が気になったのは、火山の噴火です。鬼界カルデラが形成される超巨大噴火が起きたのは、7300年前とされています(最新研究による)。

Wikipediaには、この噴火により「西日本、特に九州の先史時代から縄文初期の文明も、この噴火で絶滅したと考えられている。」と書かれています。でも、GIFを見る限り、そうとばかりは言えない気もします。

もうひとつ管理人が着目したのは、約15,000年前に八戸火砕流により直径約11kmの十和田カルデラ(十和田湖)が形成された噴火。(Wiki, 火山噴火の歴史) でも、GIFを見る限り、この影響は、極めて限定的だったことが分かります。

産総研の活火山イベントを詳細に調べていくと、謎の答えが見えそうですが、その作業は力仕事なので諦めます。

管理人の仮説は、縄文と弥生の遷移期に(西日本を中心とする)大規模な自然災害が発生したのではないか。それは、火山の噴火ではなかったか。この災害の影響で、自然環境が激変し、採取を生業としていた縄文人は生活の糧を失ない、代わって、「計画農業」の技術を持った弥生人がその勢力範囲を広げていった。

そのヒントは、GIFの各時代区分の『白地』の部分にあるように思います。

誰も書かない邪馬台国のヒミツ

ここで、邪馬台国研究者の人たちがぜったいに書かないことを指摘しましょう。

いつの時代でも地図や人口などは、統治者にとって機密中の機密。邪馬台国までのルートを誰が中国人に話したのでしょうか。邪馬台国に至るまでの土地の人口について誰が中国人に教えたというのでしょうか。

いつ攻めてくるか分からない、高飛車外交をする中国にそのような情報を正しく教えるわけがない。まさに国防上重要な国家機密です。そう考えるのが当たり前でしょう。

ところが、この当たり前のことを邪馬台国研究者は誰も言いたがらない。その理由は、唯一の史料である魏志倭人伝の記述が使えなくなるから。

これが歴史家が最も恐れる視点でしょうね。

「田中史生氏の整理によれば、3、4世紀の日本列島と朝鮮半島との交流は、主に北部九州と半島南部との間で、地域的な交流として行われていた。それが、4世紀後半以降の朝鮮半島において、高句麗の南方への圧力によって政治的・軍事的緊張が高まると、百済や加耶南部諸国は倭人社会に対してより直接的な関与を求めるようになる。」14)

11~12世紀の史料に確認される『渡海制(とかいせい)』という制度がありました。Wikipediaによれば、「渡海制(とかいせい)とは、古代日本における正式な外交使節(遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)や国家の許可を受けた者以外の海外渡航を禁止する規定。」と書かれています。この制度は、実際にはもっと古くからあったらしい。その目的は、国防上であったことは間違いないでしょう。

数々の戦の末、やっと卑弥呼により統一された邪馬台国。その首都の位置を大陸の超大国に教えるはずがない。もし、本当の位置関係を中国人に教えたとしたら、倭国人はかなりの脳天気と言えます。

魏志倭人伝の記述を見ると、結局、中国人は邪馬台国の首都に行っていないことが分かります。中国人が行ったのは「末廬国」まで。「末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。」という具体的な記述があるのはこの「末廬国」まで。後は、誰かから聞き取って書いたか、あるいは「資料」に基づいて書いたものでしょう。具体的な描写は一切ありません。

そして、倭国の人が説明した邪馬台国の位置は、中国人には分からないようなものだった! その証拠に、現代の日本人でも誰も分からない説明になっています。

つまり、「魏志倭人伝から邪馬台国の場所を比定するのは不可能」。

管理人はこのように考えます。

でも、ミステリー好きの管理人としては、それではつまらない。

ミステリーは楽しまなくっちゃつまらない。

邪馬台国の場所は本当は分かっているらしい

歴史に関するネット上の情報、文献に共通して言えることは、自説を展開するときに使用する史料の年代がすさまじく飛んでいること。邪馬台国の説明をしているのに、鎌倉時代や江戸時代の史料を引っ張り出して説明している。

700年、あるいは1500年も後の史料を根拠に持論を展開している。しかも、それによって生ずる問題には一切触れない。江戸時代の史料など孫引きどころか玄孫引きのような存在で、それを引用するのであれば、史料の正当性から説明する必要があります。とうぜん、そんなことは誰もできない。

たまたま手元にある史料を使って全てを説明しようとしているように、管理人には映ります。邪馬台国の研究をするのであれば、三国志とそれ以前の史料を用いることを大前提として議論を進めないと、信頼性に欠けるという気がします。

日本書紀が書かれた当時でさえ、3世紀のことはよく分からなかったのに、魏志倭人伝の時代より300年後の文献を引っ張り出して、自説の根拠に使おうとする研究者の姿勢が分かりません。

後になって書かれた文献は、昔の文献に書かれている内容を正しく写しているはずだ、という大前提に経てば、邪馬台国の問題は解決しています。

『旧唐書』という魏志倭人伝よりも600年ほど後に書かれた書物があります。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)についての約300年間の歴史が書かれているもので、945年に完成。

この中に「倭人伝」と「日本国伝」があり、それによれば、卑弥呼が生きた時代、日本には九州の倭国と近畿の大和国(日本国)の二つがあったらしい。

ということは、邪馬台国の場所は九州で決まりです。(繰り返しますが、管理人にとって、そんなことはどうでもいいこと。)

偽書だという説に力を注ぐ人がいますが、そういう人に限って自分の議論の展開に使う史料の選択には無頓着という特徴があります。知っていることを並べただけの典型的な偽書説。持論を援用する史料の有効性を偽書指摘と同じレベルで評価できないという奈落に落ちた研究者なのでしょう。

邪馬台国など無かったから探しても見つからないのは当たり前

古代歴史研究者たちが血眼になって探している『邪馬台国』。誰も見つけることができない幻の国『邪馬台国』。それもそのはず、邪馬台国など無かったのです。

なぜ、誰も指摘しないのか不思議なのですが、歴史家は皆、邪馬台国という国があったことを前提に物事を考えています。

だって、魏志倭人伝に書かれているじゃないか、と思いますよね。

では、魏志倭人伝に「邪馬台国」という単語は何回出てくるのでしょうか。答えは?

たった1回なのですよ。

当時の中国人は日本のことをなんと読んでいました? 倭国でしょ! そもそも「魏志倭人伝」であり、「魏志邪馬台国伝」ではない。正確には、「「三国志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条」であり、「東夷伝邪馬台国条」ではありません。

魏志倭人伝にたった一回登場する邪馬台国と書かれている部分は以下の通りです。

原文: 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。

日本語訳: 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
「三国志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条

この「南至邪馬壹國」の部分を国の名前として読んでしまった悲劇がこの論争の始まりでした。

そもそも、邪馬台国の研究は、基本的な研究アプローチに誤りがありました。それは、魏の時代に魏の人間が書いた文章を、当時の発音など調べもしないで、現代の日本の地名に当てはめていったこと。

「至對海國」⇒「対馬国に至る」
「至一大國」⇒「一大国に至る」
「至末廬國」⇒「末廬国に至る」

こうした一連の記述の中に「南至邪馬壹國」と書かれているため、「邪馬台国」という国があったという思い込みが発生したようです。

『三国志』の著者である陳寿は、「倭国のこと」を書いたのであって、邪馬台国のことなど書いたわけではありません。魏志倭人伝は、倭国についての説明であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。

そもそも、「邪馬台国」は、国の名前を表す「固有名詞」ではなく、一般名詞として使われました。それに気づかなかったのは、對海國、一大國、末廬國・・・、などのように、地名等は現代の地名で比定できると考え、その並びで、「邪馬壹國」も国名だと考えた悲劇でした。本来、最初に行うべき、当時の「魏の発音」についての確認を怠ったアプローチの誤りが原因でした。

「邪馬壹國」は、国名ではなく、一般名詞として使われています。その意味は、「私たちの州の国」です。

「邪馬台国」と唯一書かれている箇所、「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」の意味は、「南に水行10日と陸行1月で私たちの州の国の女王の都する所に至る。」となります。

その根拠は以下の通りです。

「邪」の中国上古音の発音は、[ŋiau]。[ŋ]音はガ行の鼻濁音で、古代日本語にはない音です。日本語にない音を日本の地名(固有名詞)に付けるはずがなく、また、当時の倭人が発音したはずもありません。したがって、「邪」で始まる単語は固有名詞ではなく、「普通名詞」と考えられます。

次に「馬」。魏志倭人伝では、対馬のことを「對馬國」とは書かずに、「對海國」と書いてあります。
「馬」=「海」なのでしょうか。

「海」の魏時代の音は、上古音(məg)に近い音でした。「海」のさんずいを除いて「毎」なら近い音になります。したがって、「馬」=「海」は正しいようです。

「馬」は、「們(上・中古音:muən)」。倭人が「們(muən)」と発音したつもりが、日本語には[ə音]がないため、aに転訛し、nがuになり、[muau]と発音し、魏人には「馬(mau)」と聞こえた。

次が問題の「壹」です。「壹」=「壱」であり、「臺」=「台」ではない。だから邪馬台国はなかったとする説は、文字遊びをする子供じみたもの。ここでは、「臺」として考えます。

「臺(台)」の上古音(diəg)は「州(tiog、意味:しま)」の音に近く、倭人が「州」と発音するとき、語中音のため濁音化させて発音。これが魏人には「臺(台)」と聞こえた。

邪馬台国の意味は、邪(吾。意味:われ)、馬(們。意味:たち、ら)、台(州。意味:しま)、國(国)。

Wikipediaの記述に注意
Wikipediaの魏志倭人伝原文の記述は改ざんされている。
Wikipedia: 始度一海千餘里、至對馬國、
原文の記述: 始度一海千餘里 至對海國

Wikipediaの執筆者が意図的に原文の「對海國」を「對馬國」に書きかえています。これでは原文とは言えません。原文と明記しながら、実際には原文にはない文字に入れ替えているのですから、研究者としては失格。

魏志倭人伝を誰も読んでいないので読んでみる

魏志倭人伝の研究成果を読んでいて気づくのは、誰も『魏志倭人伝を読んでいない』ということ。魏志倭人伝に書かれている漢字の読みを現代の読み方や中古音の読み方で読んでいる。日本の漢字の読みは、全てが中古音(隋・唐時代)以降の音を日本語の音に訛らせた音です。

これでは、倭人伝の意味が分からないし、ましてや、固有名詞の発音は別のものになります。だから意味不明な記述がたくさん出てくる。日本でも漢字が使えるから魏の時代の漢字も見れば分かる、という落とし穴にはまっている研究者がほとんど。結局、魏志倭人伝を読んでいないのです。読んだつもりになっているに過ぎません。

卑弥呼の読み方

「卑弥呼」という漢字はなんと読む?

その答えは「ヒメハウ」。

古代日本語のハ行の音が f 音だったため、中国のハをカに変えて読んでいる。倭人が「コ」と発音したのではなく、魏人が「hau(呼)」と聞き取る音で発音しました。

卑(piei)⇒ 古代日本語では二重母音の発音はなく、「ヒ」と発音。
弥(miei)⇒ 同様に「ミ」と発音
呼(hau) ⇒ 「ハウ」

倭人伝に見られる似た名前として、狗奴国王の卑弥弓呼も「呼」で終わっていることから、「ハウ」⇒「王」を示す和語だった可能性もあります。もしそうであるなら、卑弥呼は「ヒメ王」⇒「姫王」だったのかも。

「卑弥呼」は、個人の名前ではなく、肩書きか呼称でしょう。女王の本当の名前は、外国人には教えない!

通説では音だけを頼りに「ヒ巫女」と当て字を使っているケースがありますが、なんら根拠はありません。「巫(ミコ)」は、中古音以後の半島経由の言葉です。

「奴」の謎

倭人伝に多く登場する「奴」という文字。あまりの多さに数える気も失せてしまいます。

固有名詞とされる語に「奴」という文字が多いように見えます。邪馬台国の39カ国の国名の内に「奴、弥奴、姐奴、蘇奴、華奴蘇奴、鬼奴、鳥奴、奴」の九つあります。さらに、「狗奴国」の「奴」、「卑奴母離」の「奴」など、多く使われています。いや、使われすぎです。

固有名詞とおぼしき箇所の用例を見ると、単語の2番目に出てくるケースが多いようです。「奴」という国名自体おかしいし。

考えられるのは、「奴」が普通名詞として使われているのではないかということ。国名に多く使われるケースとしては、千葉県、茨城県、埼玉県、栃木県、などのように、「県」のような行政区分を表す文字だったのではないか、と推測できます。これだと、同じ文字が使われていても不自然ではありません。

古代朝鮮では、「高句麗の政治構造は、五つの地域をそれぞれ基板とする消奴部、絶奴部、順奴部、潅奴部、桂婁部の5族」があったそうです。高句麗は、この5部族を中心とした部族連合国家であったようです。ここから、「奴」は部族国家の意味と読み解くことができます。

この項の記述は、15) pp.26-46に依っている。

エピローグ

この記事は、2017年10月22日にアップしたのですが、都合により非公開にしました。内容があまりにひどかったので。2018年8月23日版を最終稿とし、再度アップします。(実際は、後ほど微調整しますが)

管理人が邪馬台国に関する書物を読んで最初に感じた疑問は、だれも魏志倭人伝をまともに読んでいないのではないか、という疑問でした。

邪馬台国の位置を比定する作業にばかり研究者の関心が向いており、倭人伝を読む、という作業がなおざりになっているという印象でした。

倭人伝は、漢字で書かれています。固有名詞は、倭国の発音を元に、魏の人が聞き取った音を漢字にした筈です。ところが、こんな基本的なことを論説の根底に置いている研究がない。

皆、現在の地名でこう読める、昔はこう読んだ、という学術レベルとはかけ離れた低レベルの憶測に終始している。

なぜ、彼らがこのようなアプローチを採るのかというと、魏の時代の音が分からないからです。それが分かっていれば、そんなお馬鹿な説を唱えるはずもないこと。結局は、本来やるべきことを無視して推論をしていたに過ぎません。

こんな基本的なことを、誰も研究対象にしていなかったのが、邪馬台国研究者にとっての悲劇でした。他人の研究を当てにせず、自分で調べればいいのに。そう思ってしまいますが、この研究は一生を捧げなければならないほど大変な研究です。

それをやり遂げたのが、全くの独学でコツコツと研究を続けた在野の研究者、増田弘氏でした。

彼の著書『邪馬台国音韻考』は、必ずしもまとまった書き方のされた書物ではありません。管理人が校正したくなる部分も多々あるのですが、そこに書かれている圧倒的な情報量の前に、このような編集もありなのかもという気になります。

この書籍は、図書館で借りても読み切れるものではありません。管理人は、図書館から借りて、何度か期間延長したものの読み終わらず、結局、アマゾンで本を購入しました。

この書籍を上梓された増田弘氏に最大限の敬意を表すると共に、感謝したいと思います。管理人としては、これまでモヤモヤしていた邪馬台国の謎がすっと解けた気がします。

他人の業績を安易に批判する人間がいますが、批判するからには、批判対象と同等以上のもの(著作物)を発表していること。これが管理人の基準です。何の論文も発表もしていない人に批判されても・・・、困ります。同じテーブルにいない、野次馬席の人の相手をする研究者はいません。

増田氏の著作に匹敵する内容の文献をご存じの方はぜひ、教えてください。読んでいない人は問題外です。

この記事を書くにあたって、ネットで調べた結果感じたことは、出典も根拠も示さずに特定の説を展開している記事が大半であること。

魏志倭人伝を上古音で読むなど、これまでの研究者もやったことでしょう。でも、それは自説を主張したいために使われた解釈に過ぎないように思います。「魏志倭人伝を魏の言葉で読む」という作業に徹した研究を見たことがありません。

あなたはありますか?

ここまで読んで頂きありがとうございます。

ところで、この記事の内容に、管理人は全く満足していません。管理人が書きたいことはこんなものではない。

この記事を再編集するか、別記事に続きを書くかはまだ決めていませんが、今、書きためているところです。いずれにしても、このままでは終われない!

邪馬台国論争は、そもそも論の部分がおかしく、そもそも論争にならないのではないか。これが管理人の見解です。続きをできるだけ早くアップしたいと思います。

邪馬台国の位置は倭人伝に書かれている:測量技術の謎を追う』という記事をアップしました。当時の測量技術から、邪馬台国の位置を推定しています。

出典

1) 『記紀以前の資料による古代日本正史』、原田常治、婦人生活社、1976年

2) 『東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定』、いまどきにゅうすかわらばん

3) 最新DNA研究と縄文人 斎藤成也“、みんなの縄文、インタビュー、2016年5月1日

4) 『正書法のない日本語』、今野真二、岩波書店、2013
変体かなの当て字のルールについて、『「し」の文字は、志が語頭、ひらがなの「し」は、発音が「ハ」であれば、「者」を、「バやワ」と発音する場合には、ひらがなの変体「ハ」を用いる。』p.90 など興味深い内容が書かれている。

5) 『瀬戸内海の水先案内』、今西邦彦、海洋気象学会

6) 『邪馬台国の秘密』、高木彬光、光文社文庫、2006 (もともとの初版はカッパ・ノベルス、光文社、1973.12)

この本は学生時代に読んだのですが、今回再読しました。いろいろ論争があったようですが、それは管理人の関心外のこと。ちなみに、出典のp.390には吉田武彦の「邪馬台国はなかった」という記述があり、改訂で追加されているようです。高木彬光氏の小説は相当数読んでいます。管理人の好きな小説家の一人です。

7) Munakata Digital Museum

8) 歴史秘話ヒストリア『沖ノ島~日本 はじまりの物語~』、NHK、2017年11月3日放送

9) 『古語の謎』、白石良夫、中公新書、2010、pp.8-16

10) 国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)HP
11) 「縄文と古代文明を探求しよう!」、web。遺跡位置の画像を使わさせて頂きました。その出典は書かれていないのですが。
12) 『暦で読み解く古代天皇の謎』、大平裕、PHP文庫、2015
13) 『日本語の源流を求めて』、大野晋、岩波新書、2007
14) 『日本古代の対外貿易および渡海制について』、渡邊誠、専修大学紀要論文、2009
15) 『邪馬台国音韻考』、増田弘、鳳文書林出版株式会社、2001