邪馬台国の位置は倭人伝に書かれている:測量技術の謎を追う

ディープ・プロファイリング

はじめに:邪馬台国の場所は倭人伝に書いてある

 魏志倭人伝には、邪馬台国の位置が詳しく書かれています。帯方郡から狗邪韓国まで『七千余里』。『自郡至女王國 萬二千餘里』とあるので、帯方郡から邪馬台国までは一万二千里。ということは、狗邪韓国から邪馬台国までは、『五千里』ということになります。

 以下の記述は、帯方郡を平壌としています。管理人の勘違いなのですが、とりあえず版としてアップします。

 帯方郡は現在のソウル、狗邪韓国は釜山あたりと比定されているようです。ソウルと釜山の直線距離は520Kmです。これから計算すると、邪馬台国は釜山から371Kmの距離にあることになります。

  •  7000里 : 5000里 = 520Km : X Km
  •    X = 371Km
  •  1里 = 74.3m
  •  

     釜山から371Kmで同心円を描くと次のようになります。つまり、邪馬台国の場所は九州の南側、宮崎平野か川内平野のあたりということでしょうか。

     何となく望ましい位置にありそうです(笑)。この371Kmのライン上を見ていくと、邪馬台国の候補地がかなり絞り込めそうです。

     拡大してみましょう。

     このラインに近い地域を邪馬台国の場所と比定している説は、かなり絞られます。その比定にいたる方法はともかくとして、このうちのどれかが倭人伝に書かれている場所を特定しているようです。
     

    邪馬台国の場所 [著者、比定場所、著書]
    林屋友次郎、日向地方、『天皇制の歴史的根拠』
    小田洋、延岡市構口、『邪馬台末廬(席田郡)説』
    尾崎雄二郎、日向
    高津道昭、霧島山周辺、『邪馬台国に雪は降らない』
    清水正紀、西都原、『天照大神 新説邪馬台国』
    原田常治、西都市、『古代日本正史』
    張明澄、出水市、『誤読だらけの邪馬台国―中国人が記紀と倭人伝を読めば…』

     倭人伝の記述に従えば、『萬二千餘里』とあります。中国では距離を四捨五入して表示することはせず、1万2000里を超えると「余里」と表記します。したがって、上の図の赤いラインの近くの南側に目指す邪馬台国はあります。

     さて、ここで普通の人が疑問に感じるのは、倭人伝に書かれている距離は正しいのかということでしょう。もう少し考えると、どうやって測ったのか、ということになります。

     三世紀、三国志の著者陳寿の時代にこのような測定ができたのか、という素朴な疑問です。

     できたのですよ、これが。中国の文明を侮ってはいけない。

     邪馬台国がどこにあったのかという議論は、測量はどうしたのかという問題が本質のはずなのに、研究者と称する人たちはこのことを無視し、まるでスキー靴の上から足を掻くような議論に終始しています。

     本稿では、この『本質』という当たり前の切り口から邪馬台国の場所を特定します。

     会稽との位置のずれが「邪馬台国での影の計測日が夏至ではなかった」と仮定するのであれば、ちょっとややっこしいことになりますね。頭が痛くなるので考えないことにします。計算の前提となる条件設定が多すぎて、計算できてもそれにどんな意味があるのか、ということです。

    倭人伝の距離表記のなぞ

     倭人伝には、国の位置を示すとき、「距離と方向」、「手段と日数」の二つの表示が使われています。距離と方向は、『東南陸行五百里』のように、方向と距離で示されています。手段と日数は「水行○日、陸行○日」という記載です。

     日数は実際に移動にかかった日数だろうと想像できますが、距離の場合はどうでしょうか。どうやって方角と距離を測ったのでしょうか。

     そして、ここでの『距離』とは「直線距離」でしょうか、それとも「道のり」でしょうか。

     この答えは、技術者ではあればすぐに分かるのではないでしょうか。それを測る手段が存在するのか。管理人なら、すぐにこのように考えます。

    古代中国の驚くべき測量技術

     倭人伝の「計其道里 當在會稽東治之東」(その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。)という記述を、合っているとか間違っているとか意味不明の議論をする人がいますが、普通の人は、「計其道里」とはどうやって測ったのだろう、という素朴な疑問を持つはずです。

     何しろ、中国の会稽と邪馬台国の位置を比較して、同じ緯度上にあると書いているわけですから、どうやって測ったのかと疑問を持つのは当然のこと。

     実際に測量するにはどうするのか。それを見ていきましょう。

     倭人伝の記述を見ると、「又南渡一海千餘里」、「東南陸行五百里」などと方角と距離が併記されています。方角は8方位で表示しています。

     距離の計測方法については、後漢(AD25 – 220)時代にすでに成立していた『周碑算経』という天文学・測量学の教科書に「一寸千里法」という最古の天文測量法が記載されています。

    方位の測量

     正確な方位を知るには太陽を使いました。具体的には次のような方法が採られました。

    1. 地面に鉛直に棒を立てる。
    2. 地面に、棒を中心とする任意の大きさの円を描く
    3. (一日に二回発生する)棒の先端の影が円と交差する点を記録する(図のA、B)。
    4. AとBを結んだ線の方向が東西を表す。
    5. AB間にひもをあて、ひもを二つに折り、その一端をA点に合わせAB線上に置く。二つ折りしたひもの端と棒の方向が南北になる。

     この方法は精度が高いと言われているようですが、どうでしょうか。棒の長さを2メートル以上とし、円は棒を中心とする五つ程度の同心円を使うとより正確に測れそうです。平行線が五つできるので、より精度の良さそうなラインを採用できます。棒を立てるとき、鉛直に立てる必要があります。通常は「下げ振り」と呼ばれる糸の一端に逆円錐形の錘が付いたものを使って確認します。

     この方法で方向を計測するのは一日がかりです。魏使がすべての滞在地で、この方法で方位を測定していたとは思えません。そもそも、倭人伝に記載されている方位は8方位に過ぎず、この方法を使うまでもないでしょう。日の出の方角を見ればどちらが東か分かるので。

     ただし、季節により日の出の方位は異なります。日の出の方向が東ではありません。この辺を念のため確認しておきましょう。

     2018年の夏至の日は6月21日でした。それから三ヶ月後の9月25日とで日の出の方向角がどのくらい違うのか見てみましょう。洛陽、福岡市、会稽(福建省閩侯県福州市)で計算してみました。

     ここで注目したいのは、洛陽、福岡市、会稽という三地点における日の出の方向角はかなり似た値になっていることです。9月25日の日の出は真東、日の入りは真西に三地点とも沈みます。 夏至の日の日の出の方向角は、中国でも日本でもほとんど変わりません。少なくとも八方位で示すのなら、三地点とも同一の方位になります。

     季節により日の出の方向角が異なることから、倭人伝の方位の記述は誤りで、45度方位が違うという説を唱える人がいますが、それって、本気で言っているの? というレベルなのがおわかりでしょう。

     有名大学の名誉教授がこんなばかげたことを言い出すのには閉口します。

    距離の測量

     次に距離の測定方法です。倭人伝が書かれた当時より以前に成立していた『周碑算経』という天文学・測量学の教科書に「一寸千里法」という最古の天文測量法が記されています。

     この手の情報の内容を知るのに歴史学者の文章を読むのはそもそも間違っています。歴史学者の使う専門家の孫引きには要注意です。往々にして自説に都合の良い部分だけを抜き書きする手法が採られ、前提条件等が無視されています。

     専門家の情報としては、自然地理学者・東京都立大学名誉教授で東京地学協会会長を務められている野上道男氏の書く文章なら信頼できそうです。

     野上先生が『古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置』という資料を公表されています。1)  これに基づき、以下、解説します。

     「一寸千里法」とは、夏至の太陽南中時に、周の陽城(洛陽)付近の南北2地点で8尺の棒の影の長さを測り、その日影長に1寸の差があるとき、2地点間の南北距離成分を千里とする、というものです。夏至南中時に測量用の棒(表)が作る日影長を測ることで、それを緯度に代わる指標として南北位置を認識していました。

     古代中国の宇宙観「蓋天説」では、地球を球体として捉えておらず、平面と考えていました。天と地は10万里あるいは8万里隔てて平行する平面とされていました。

     すると、緯度という概念はないことになります。緯度は、地球上のある地点が赤道からどれくらい北または南にはずれているかの度合を示すもので、その地点と地球の中心とを結ぶ直線が赤道面となす角度です。地球が球体であるから緯度の計算ができます。

     ところが、「一寸千里法」では測量する条件として、「夏至の太陽南中時に」とすることで、結果的に緯度を計測しているのと同じことになります。

     当時の中国の学者が、実用的な距離測定法を考案する過程で、本来、蓋天説なら必要としない条件設定を行っています。その方が実測結果とよく合うからでしょう。

     当時は地球を平面と考えていた蓋天説であったということを根拠に、緯度計算説を否定するのは、この特殊な条件設定を見逃していたからのようです。

     野上氏は、『「一寸千里法」の測量結果は実際の尺度による距離値を介さず緯度と対応している』ことを示しています。

     ここで注目したいことは、「一寸千里法」の説明の「2地点間の南北距離成分を千里とする」という部分です。

     南北方向は確かにこの方法で計測できそうです。しかし、南東方向はどうでしょうか。

     現代であれば三角関数で容易に距離を算出できます。

     しかし、三角関数の概念がない場合、状況は変わります。たとえば、A地点から南東方向に歩きB地点に到着。A、B両地点の”南北”の距離は、「一寸千里法」で計測できます。しかし、A、B間の直線距離は分からないのです。

     そこで登場するのが、(現在の呼称である)ピタゴラス三角形です。三角形の辺の長さが3:4:5の時、斜辺の対角が直角になる、というあれです。

     古代中国では三角関数表は使われていませんが、少なくとも三国時代の中国の数学者「劉徽」はピタゴラス三角形を知っていました。

     南東方向の計算は、このピタゴラス三角形の辺の比率を使ったのではないか。

     それでは、実際にやってみましょう。

     「一寸千里法」では、洛陽における夏至の南中高度を基本とします。

     地面に長さ80寸(8尺)の棒を立て、夏至の南中時の棒の影の長さを計測します。洛陽ではこれが16寸です。別の地点で同様の測定を行った結果、影の長さに1寸の違いがあれば、洛陽からその地点までの南北距離を1000里とします。

     この方法で計測すると、同緯度の地点はすべて同じ影の長さになります。

     実際に計算してみましょう。

     この計算結果はあくまでも南北方向の距離です。経度がずれている場合、現代であれば、三角関数を使ってこの南北距離と方向角から2地点の直線距離を計算できます。しかし、当時の中国では三角関数は使われていません。つまり、三角測量はできなかったのです。

     使ったのはピタゴラスの三角形でしょう。『周碑算経』に何度も登場する三角形です。使われている方向角は8方位のみなので、この三角形を使って近似値を得る方法は妥当であると考えられます。

     東西方向の基準(線)は洛陽です。

     帯方郡は洛陽より北に位置しています。狗邪韓国も北です。邪馬台国は洛陽より南に位置しています。

     帯方郡を出発点とすると、南東に狗邪韓国、その南東に邪馬台国があります。洛陽を通る東西方向の基準線との関係は下図のようになります。

     影の長さから計測された南北方向の距離からピタゴラスの三角形を使って南東方向の直線距離を計算します。

     なぜ、『南東』なのか? 倭人伝には、南、東、南東の記述はありますが、西に行ったとは一度も書かれていません。狗邪韓国から見て邪馬台国は南東方向にあると考えるのが無理のない解釈だと思います。

     すると、帯方郡-邪馬台国間の距離は、ピッタリ1万2千里となります。

    (注:上の図で「1185.44=1万2千余里」と書いていますが、端数は切り捨てて余里と記載する中国のルールに従えば正確な記述ではありません。本来なら「1185.44=1万1千余里」となります。しかし、影の計測誤差、計算誤差を考えると「1万2千余里」と記述しても間違っていると主張する人はいないでしょう。)

     狗邪韓国を起点にピタゴラス三角形を当てはめてみると、邪馬台国の場所は宮崎県延岡市を指しています。川内平野は狗邪韓国から見て南なので除外できそうです。すると、宮崎平野が最有力地ということになります。邪馬台国には7万戸の家があったと書かれています。1戸に5人住んでいたとして人口は35万人。広大な平野がなければこの人口を養っていくことはできません。

    「会稽の東」の記述になぜ誤差が生じたのか

     倭人伝には邪馬台国は会稽の東にあると書かれています。これは当然間違いで、会稽の東にあるのは屋久島です。なぜ魏人は間違えたのでしょうか。

     邪馬台国の位置が、倭人伝の記述である1万2千里とピッタリ一致するのであれば、会稽の記述を間違えた理由を探る必要があります。

     会稽は、洛陽の南東に位置しています。上と同じようにピタゴラスの三角形で計算すると、数値がまったく違うことが分かります(上表)。そもそも、会稽の東にあるとするのであれば、会稽と邪馬台国では棒の影の長さが同じになるはずです。

     会稽の緯度が正しいとすると邪馬台国は屋久島ということになります。しかし、屋久島には人口を養えるだけの平地がありません。すると、会稽の緯度の計測を誤ったのでしょうか。

     このような間違いが生じた理由として考えられるのは、影の長さの測定方法を間違えたこと。

     どのように間違えるとこのような結果になるのか試算してみました。エクセルだと簡単に試算できます。

     すると、棒の長さを80寸ではなく110寸のものを使うと、会稽の真東に邪馬台国があるという結果になることが分かりました。驚くほどピッタリ一致します。でも、これは数字遊びでしかないでしょう。

     度量衡が変わり、尺が長くなるのは南北朝時代のようなので、三国志が書かれた時代には尺の変更はないでしょう。

     もう一つ考えられるのは、邪馬台国で影の長さ計測した日が夏至ではなかった、ということ。

     たとえば、景初2年6月、倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わします。
     この年の夏至はいつだったのでしょうか。

     その答えは、魏明帝景初2年(歲次戊午)6月25日。西暦では、238年6月24日です。

     夏至の日付は年により変化しますが、6月20日から25日頃まででしょう。ちなみに、夏至の日は世界共通です。

     邪馬台国で棒の影の長さを計測した日が夏至でなかったとしたら、この誤差が発生するのもうなずけます。そして、何日頃に計測したのかも算出できます。会稽の計測データが正しく、邪馬台国の位置が比定されているという仮定であれば、計算は可能です。管理人はやりませんが。

     そもそも論を言えば、『計其道里 當在會稽東治之東』(その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある)の記述は、本当に陳寿が書いたものなのでしょうか。とても緻密に計算されたような構成になっている倭人伝の中で、この記述が書かれている箇所が異質なのです。本来なら倭国の位置説明の部分に書くべき内容なのに、「倭の風俗」を記載している部分に挿入されています。

     倭人伝はかなり校正を重ねて書かれていると考えられるので、よけいにこの記述の場所に違和感を覚えます。思い出したのでここに書いたなど絶対にあり得ない。校正の段階でいくらでも文節の位置を修正できたのですから。

     陳寿が誤った資料を採用したとも言えますが、陳寿自身、この記述内容を信用していなかったのではないかと考えます。このため、位置を記載する箇所にあえて書かなかった。

    倭国の移動に日数を要する理由

     邪馬台国の場所の特定を困難にしている日数表示の部分。

     研究者はいろいろ頭を絞って様々な仮説を創り出しているようですが、管理人には、理解できません。すべて仮説の積み重ねで、書いている本人もどの部分が仮説だったのかさえ分からなくなっているように思えます。

     日数表記に着目すると、倭国で旅をする日はト占で決めたのではないかと思えます。ト占では出立の吉日は占い次第で決まります。何日かかるかなど誰も分からない。

     魏人は、測量する必要があり、そのためには、太陽が南中するまで待つことになり、最低でも1日のロスとなります。曇天が続けばその日数は増えるでしょう。

     使節の目的が、単に目的地に到着し皇帝の親書を手渡すことだけだったとは考えにくい。むしろ、相手国の国情をつぶさに見ることが主眼だったのではないでしょうか。いつの日か、攻め滅ぼすために、距離、道程を調べることは必須だったでしょう。絶対位置は上に示した測量で分かるので、あとはどうやってそこまでたどり着くかというルート情報が必要です。

     一方、倭国側からすれば、そのような情報は相手に与えたくない。平和ぼけしている現代の日本人には想像できないでしょうが、君主・女王の立場に立てば、その気持ちは分かります。

     いつ敵対するか分からない相手国の使者をすんなりと女王国に導くはずもありません。女王国ははとても遠く道が険しく簡単にはたどり着けない、という印象を魏の使者に与える必要があります。実際、魏の使節は伊都国までしか行っていない。

     では、魏の使者はどうやって位置情報を知り得たのか。

     邪馬台国の位置さえ分かれば良いので、一計を案じます。いつの時代も金品で釣られる小役人はたくさんいます。気の利いた役人を捕まえ、邪馬台国の夏至の日の南中高度を測らせます。

     南中高度計測など大それたものではない。夏至の南中時刻に、地面に80寸の棒を立てて、影の長さを測るだけ。魏使は次のように倭国の役人に言います。

     「今日から○○日後、邪馬台国でまっすぐにこの棒(80寸)を立て、影が最も短くなったときの長さを教えて欲しい」。

     そう言って、棒とメジャーを渡します。役人は意味が分からず、その指示に従い影の長さを計測します。そして、魏使に報告。魏使は即座に邪馬台国の緯度を計算し、方角情報と合わせ、邪馬台国の場所を特定します。

     このように考えると、記載されている日数から邪馬台国の場所を特定することはできそうにありません。たくさんの前提条件を設定する必要があるからです。「もし、○○だとしたら」という前提条件が一つではなく、「もし、○○だとしたら」「もし、○○だとしたら」「もし、○○だとしたら」「もし、○○だとしたら」「もし、○○だとしたら」と五つも続いたとしたら、そこから導き出される結論は、可能性の一つとしてはあり得る、という程度の仮説となります。これでは、邪馬台国の位置を特定することはできません。

    測量したのはどこか

     実際に測量したのは、帯方郡と邪馬台国(誰かに頼んで)の2カ所のみでしょう。会稽の記述があるので、邪馬台国での測量結果を持っていたと思われます。

     国を代表する使節が相手国を測量して歩くとは考えにくい。そんなみっともないことはしないでしょう。かなり恥ずかしい行為です。

     帯方郡から邪馬台国に至る途中の距離はすべて概算。測量したものではない。見通しのきく場所なら目測もある程度正確でしょうが、草深くて見通しがきかなかったり、山を越えたりすると、その距離は当てになりません。

     この道里をどうやって算定したのかという最も基本的な部分を無視して数値遊びをしているのでは、正しい結論にたどり着けないのも無理はない。

     むしろ、測量結果から逆算して、倭人伝に記載されている国々を比定していく方が正解に近づくのではないかと思います。

    おわりに

     なかなか書き終わらなかったこの記事も、一応形になったのでアップします。

     邪馬台国論争を調べてみて管理人が感じたことは、方法論が違うのではないかということでした。

     仮説を作るには前提条件が必要です。ところが、仮説の先に、新たな仮説を提示し、それが延々と続く、というのが今の邪馬台国研究のように感じました。仮説の積み重ね自体は良いのですが、前提条件の検証という作業がなおざりにされ、あたかも前提条件などなかったかのように結論を導こうとする研究者が多すぎると感じました。

     本稿では、倭人伝の記述のみを用いて邪馬台国の位置を特定しています。何しろ、倭人伝に書いてあるのですから、今さら探す必要もありません。当時、それを知る知識と測量技術があったのです。

     「水行○○」の部分はあくまでもルートを示すためのものです。帯方郡から12000余里の距離にある女王国まで、どのように行くのか、その手段が書かれています。

     小学校の算数と同じです。

     「コナン君は、自転車で南に20分走って駅まで行き電車に乗りました。電車で30分東に走り、降りた駅で南に30分歩き、敵のアジトに潜入しました。GPSで測ると出発地点からアジトまでの直線距離は20kmで、方向は南東でした。アジトはどこでしょう?」

     旅の行程を追って邪馬台国の場所を特定しようとするアプローチは、方向角の概念が欠落していると思います。目的地まで何日かかるかなど、多くの前提条件を導入しなければ検討できません。前提条件の積み重ねは、研究者が主張したい内容とは全く別の結論にいたる可能性もあります。その検証もされていないのに学説だとかいう価値すらない。

     邪馬台国の場所について、たくさんの学説があるように勘違いしているようですが、学説を唱えている人は一人もいないのではないか。管理人にはそう思えます。

    出典:
    1) 『古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置』、野上道男、東京地学協会伊能忠敬記念講演会 2015.11.28