老いの考察:道場破りの相手するのはいつも師範代の謎

こだわってみる

子供の頃は、”老い”についての認識が希薄だったように思います。

例えば、道場破りが来た時に、その相手をするのはいつも師範代。そして、師範代が敗れ、道場の看板を持って行かれてしまう。その時、”なぜ、師範代ではなく、師範が闘わなかったのだろう”と思いました。

時代劇では、師範は病気を煩い、どうしても立ち会えないから師範代が相手をした、というストーリーが多かったように思います。しかし、現実には、師範は師範代よりも技術的にも体力的にも下回っているからこそ、師範代が手合わせしたのでしょう。

マンガの”NARUTO”では、老人と若者の活躍が目立ちます。そして、死者までもが活躍します。その中間の世代はほとんど役に立ちません。
しかし、現実は、老人がこれほど活躍することはないのではないでしょうか。

歳をとると、肉体的な老化が顕著になります。視力が衰えると、文字情報の入手が難しくなります。記憶力と集中力も低下します。

このようなことは当たり前のことで、今さらという感じがしますが、若い頃は、知識と現実の世界がなかなか結びつかないもの。いや、若い頃だけではなく、人というものは、そんな習性があるということでしょうか。

 身近に「人間の老い」を感じさせる肉親がいないと、若者はありし日の肉親の姿を何の躊躇もなく連想します。結局、「老い」についての認識が欠如しているのでしょう。