皇女和宮の写真の真偽を確認する

皇女和宮の謎

プロローグ

皇女和宮の写真は、1枚しか存在しないとされています。その和宮の写真について、「Wikipedia」には次のように書かれています。

『近年、和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折、小坂家の写真師が撮影した和宮の写真が発見された。これはポジのガラス乾板で軍扇に収められており、複写したものが小坂家末裔の小坂憲次から阿弥陀寺に寄進されている。 この写真の和宮からは、袿の袖からわずかに両手の先を出している姿が確認できる(ただし、この写真に写っているのが本当に和宮本人かを疑問視する説も存在する)。』

この写真は、いろいろトリミングされたものが出回っていますが、オリジナルは全身を撮したものです。画質が悪いので、少し修正しています。


Photo: 徳川記念財団

写真のオリジナルは、徳川記念財団が所有しています。

この写真を、和宮ゆかりの寺である阿弥陀寺に寄進した小坂憲次氏は1946年生まれで、自由民主党所属の参議院議員です。生まれは長野県長野市。和宮の降嫁の時代に生きた曾祖父、小坂善太郎元外相も現長野市に住んでいたようです。

まず、この写真が和宮の写真だとされる理由についてです。

この写真は金属製の軍扇に入っているのですが、写真の台紙に「静寛院和宮」という書き込みがある。これが根拠のひとつになっています。小坂善太郎元外相の祖母繁子が1928年1月27日の日記に、当時、和宮を知る人(昭憲皇太后に仕えた女官長高倉寿子(1840-1930))に確認したところ、和宮であると確認された、と書いているそうです。これが、和宮の写真と言われる有力な根拠になっています。


高倉寿子(1840-1930 享年90) 高解像度版 画像オリジナル出典 1)参照

ところで、この小坂家の写真と同じものが徳川家にも保管されていて、「第九六號 静寛院宮御寫真」と書かれた別紙と共に見つかっています。このことから、徳川宗家でも問題の写真に写っている女性を和宮と思っていたことが窺えます。つまり、この写真を和宮だと考えているのは、小坂家だけではなく、徳川宗家も同様だということです。これはとても重要なことです。理由は後ほどで説明します。

さて、この写真に写っているのが和宮本人かどうかを確認したい。でも、どうやって?

今となっては、和宮本人であることを確認するのは不可能に近いと思います。しかし、「和宮ではない」と証明することはできるように思います。

Wikipediaによれば、この写真は、①和宮降嫁の際、②中山道の宿場町で、③小坂家の写真師が撮影したとされています。

これがあり得ないことを証明すれば、和宮の写真ではない可能性が一気に高まります。

管理人が最初に考えたのは、この写真がいつ、どこで撮影されたものかということです。

これについては、前回の記事『皇女和宮の埋葬のナゾに迫る』で書いているので、詳しくはそちらをご覧下さい。

重複を避けるため、結論だけ書くと、小坂氏の祖先が住んでいた現長野市に地理的に近い中山道の宿場町である塩尻宿。「信州小坂家で休息した折」となっているので、宿泊ではなく、小休息や昼食のために立ち寄った宿場町だと考えられます。この点からも「塩尻宿」が有力かなぁ、と考えました。和宮がこの宿を訪れたのは1861年12月6日です。

次に、どこで撮影されたのか。

写真の背景を見ると、明らかに写真館であることがわかります。

この当時、写真館は日本中のあちこちにあったのでしょうか。早速調べて、年表にまとめました。

和宮の写真ではないことは証明できる

和宮の写真を撮影したのは日本人であることは間違いありません。降嫁の経緯を知っていれば、外国人を忌み嫌っていた和宮が、外国人に写真を撮らせるわけがなく、これについては疑問の余地がないことは明らかです。この辺から、写真の真偽を確認できそうです。

そもそも日本で写真が撮影されたのはいつ頃なのでしょうか。

日本最古の写真は、ブラウン・ジュニア(Brown Jr.,Eliphalet)が浦賀奉行与力であった田中光儀を撮影したもので、1854年撮影とされています。

日本写真史を調べてみると、次のような面白いことがわかりました。

出来事
1839年 世界初の写真機(銀板写真)をフランス人、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが発明。
1851年 イギリスのF.S.アーチャーが湿板写真を発明
1853年 5月 ブラウン・ジュニアが那覇の天久聖現寺で地元民の写真を撮影。
1854年 5月 ブラウン・ジュニアが松前藩の遠藤又左衛門と従者達を撮影。
1857年 9月 島津斉彬が湿式写真機の実験。家臣に肖像を写させ自らも撮影を試みる。
1859年 “横浜開港。上野彦馬が、カメラと必要な薬品を自作し、遂に日本人の手による撮影に成功する。スイス出身のP.J.ロシエが日本各地でステレオ写真を撮影。後に、彦馬に写真術を伝授”
1860年 咸臨丸で渡米した福沢諭吉、現地の写真館の娘と記念撮影
1860年 勝海舟、福沢諭吉が咸臨丸で渡米。サンフランシスコの写真館で撮影
1860年 始め頃。中国で写真館を経営していたオリン・フリーマンが横浜で日本最初の写真館を開く。
1860年 上野彦馬らは津藩主・藤堂高猷(たかゆき)の出資で、フランスから最新の写真機材と感光材の薬品を取り寄せる。同年、藩主の招きで江戸に上り、津藩邸に約1年滞在。藩主や出入りする大名、旗本の肖像を撮影(1861年説あり)
1861年 フリーマンの機材一式を購入した鵜飼玉川が江戸両国薬研堀で日本人による最初の写真館を開く。
1861年 11月22日~12月16日 和宮降嫁による中山道の旅
1862年末 米国人ウイルソンから写真術を習った下岡蓮杖が横浜の野毛町、ついで直ぐ隣の弁天通5丁目横町に日本最初の写真館を開業(1868年大火で焼失)
1862年 上野彦馬、長崎に帰り、日本最初の写真館「上野撮影局」を開業
1863年 堀与兵衛(大坂屋与兵衛)が京都の寺町通に写場を開設。春頃、ベアトが横浜に到着
1864年 ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチから学んだ木津幸吉が箱館で写場を開設
1866年 上野の弟子である富重利平が柳川で写真館を開業
1868年 横山松三郎が両国元坊に写真館を開き、上野池之端に移って通天楼を称した。
1874年 横浜弁天通に鈴木真一写真館を開業。その後、本町1丁目にモダンな洋風建築の写真館を建る。

1861年8月19日、鵜飼玉川が維新の十傑の1人、横井小楠の写真を撮影しており、写真館を開業早々、「写真巧み者」として知られていたことがうかがわれます。

上の年表が示すとおり、1861年は、和宮降嫁(のため中山道を旅した)の年であるとともに、日本人による写真撮影元年ともいうべき年です。この年を皮切りに、日本で商業ベースの写真館がつくられていきます。外国人写真家による写真は、1859年7月1日、横浜が開港されたことで一気に増加しますが、当時は薬品の調合、現像に技術を要する湿板写真であったため、日本人写真師が登場するのはもっと後になります。

このように写真の歴史を見てみると、1861年の「和宮降嫁の時期に」、「長野という田舎で」、「日本人写真師」により、皇女和宮の写真が撮影されたという主張には無理があることが分かります。とても考えられないことがおわかりでしょう。外国人写真師が撮影したということもあり得ないことは、前述したとおりです。

この写真は、和宮ではない可能性が一気に高まりました。

では、誰なのでしょう。実は、それも分かるように思います。

写真に写っている女性は誰か?

管理人が着目したのは、和宮(とされる女性)が座っている『椅子』です。椅子は編み上げ紐をあしらった特徴的なつくりです。”紐の下の部分に白い糸、あるいは白いビーズ”のようなものが使われているようです。

写真館で撮影されたものであるなら、他にも同じ『椅子』を使って撮影された写真が残っているはずです。この特徴的な条件を満足すれば、撮影年代、さらには撮影場所も特定できそうです。

図書館に行ったり、ネットで延々と探し回った結果、この特徴的な椅子に座っている肖像写真を以下の3点見つけることができました。

① 和宮の写真
② 南部利剛(なんぶ としひさ)の写真(盛岡藩の第14代藩主)
③ 杉寿(すぎ ひさ)の写真(吉田松陰の妹、杉文の姉、楫取素彦の妻)

和宮の写真に写っている椅子は、とても特殊なデザインをした物で、同じ物は日本にはなかったのだと思います。それは、かなりの数の幕末・明治維新の時代の写真を閲覧した中で、この椅子が写っている写真がわずかに3枚しかないということが物語っています。編み上げの紐飾りの椅子は他にもありますが、この写真に写っている白い糸が入っているものはありません。

有名な坂本龍馬の写真は、長崎の上野彦馬の写真スタジオで撮影したもので、使われている小道具は、他の沢山の写真でも使われており、上野写真スタジオで撮影されたものだと一目で分かります。

和宮の場合もそれを期待したのですが、そうは簡単にはいかない。写真の撮影年も撮影場所も分からない。そんなに簡単に分かるのなら、誰かがやっている。そんな悲観的気持ちになります。

まずは、見つけた写真をご覧下さい。

左が和宮、右が盛岡藩の第14代藩主、南部利剛(なんぶ としひさ)です。

盛岡藩第14代藩主、南部利剛は、文政9年(1827年)1月25日生まれ、明治29年(1896年)10月30日に69歳で没しています。

和宮が降嫁のため京都を出立したのは1861年11月22日のこと。この時、南部利剛は34歳です。ちょうど写真に写っている男性の年齢と同じくらいに見えます。

上の写真で、二人の人物が座っている椅子が同じものなのが分かると思います。

次に、杉寿(すぎひさ)の写真です。『大河ドラマ花燃ゆ』で優香が寿を演じています。かなり画質が悪いのですが、同じ椅子に座っているのが分かると思います。

これが意味することは、3枚の写真が同じ場所で撮影されたということ。南部(盛岡)藩主が中山道の宿場町で写真を撮影することなどあり得ません。そもそも、藩主が他の藩の領地に国内旅行することなどできない時代です。ということは、この3枚の写真は、やはり、江戸か横浜の写真館で撮影されたものと考えられます。

撮影されたのは、南部利剛の年齢から考えて、和宮降嫁の年、1861年からそれほど離れてはいない、1862年から1864年頃ではないかと思われます。これより前はあり得ません。何しろ、写真館が日本になかったので。これより後だと、南部利剛はもっと老けて写っているような気がします。これは、日本の写真史の年表からみても妥当な推測でしょう。

杉寿は 1853年、小田村伊之助(1867年に「楫取素彦」と改名)と結婚し、山口県に住んでいます。彼女の経歴を見ても、江戸(東京)に出てくるのは明治になってからです。どうも年代が合いません。夫の小田村伊之助はあちこち移動しているので、寿が江戸に出てきた時期があったのかも知れません。

もちろん、写真館の椅子は、10年くらいは使い続けられたと考えられるので、3枚の写真が同じ年に撮影されたとは主張するつもりはありません。しかし、それならば、もっと多くこの椅子が写った写真がありそうなものです。椅子が写った写真が3枚しか見つからないということは、ある特定の時期に使われた椅子であると考えることもできそうです。

ここで、年齢を整理してみましょう。

仮に、1862年、江戸と横浜に写真館ができた時期に、これら3枚の写真が撮影されたものと仮定します。すると、三つの写真の人物の年齢は次のようになります。

① 和宮:1846年生まれ、16歳
② 南部利剛:1827年生まれ、35歳
③ 林寿:1839年生まれ、23歳

ここで重要なのは、南部利剛の年齢です。彼の写真を見ると、35歳という年齢は妥当であるように感じます。

もしそうであるのなら、和宮といわれている写真の人物は誰なのでしょうか。もし、これが和宮であり、江戸の写真館で撮影されたものだとするのなら、この時期、衆目を集めていた和宮の写真についての記録がどこかに残っていても不思議ではありません。和宮ではない別人であることは明らかです。

利剛の写真が撮影されたのは、江戸でしょうか、それとも横浜でしょうか。考えて見ると、その答えは出ているように思います。利剛は盛岡藩20万石の藩主です。写真撮影のために横浜まで出かけたとは思えませんし、江戸から出ることは簡単ではなかったと思います。やはり、江戸で撮影されたと考えるのが妥当でしょう。

1862年から1864年頃に撮影されたとすると、その頃あった江戸の写真館といえば、鵜飼玉川が両国薬研堀に開いた写真館があります。麻布の南部邸から両国までは徒歩で一時間あまりの距離です。

次に、和宮とされる写真に写っている人物の特定です。

最初、南部利剛の長女、南部郁子かと考えたのですが、彼女は1853年の生まれなので、1862年にはわずか9歳です。明らかに違います。すると誰なのでしょうか。

管理人は、どうも、南部利剛の正妻の明子(松姫)ではないかと思います。明子は、徳川幕府最後の将軍慶喜の異母姉にあたる人で、水戸藩主徳川斉昭の六女です。

その根拠として明確なものは結局確認できなかったのですが、ある程度説得力がある説明ができたのではないかと思います。

和宮(と言われている)写真と南部利剛の写真は、同じ時期に撮影されたように思います。椅子の状態が似ています。一方、林寿が座っている椅子は、かなり年季が入っているように見えます。後年に撮影されたものと考えます。

椅子の状態から、和宮(と言われている)写真と南部利剛の写真は、同じ時期に撮影されたとすると、和宮(と言われている)写真は、明子である可能性が高くなったように思います。明子は、水戸藩主徳川斉昭の娘(松姫)で、写真に写っている人物の髪型や衣装についても説明できるように思います。

南部利剛と明子が結婚した年は1857年です。明子は15歳の時に利剛と婚約しています。しかし、実際に結婚したのは明子22歳、利剛32歳でした。

写真の人物の髪型は大垂髪(おおすべらかし)で、公家だけでなく武家の女性などが結っていた髪型です。衣装はとてもきれいな小袿(こうちき)を羽織っています。緋の長袴(打袴)を履いているようです。小袖の上には小袿しか身につけておらず、夏に撮影したのではないかと思われます。小袿が豪華なので正装しているように見えますが、実際には、いわゆる「袿姿(うちきすがた)」で、普段着程度の簡易な服装と言って良いと思います。

ここでも、和宮の写真ではないことが証明されます。12月の和宮降嫁時ではこのような薄着の服装はありえません。また、皇女が写真撮影するときの服装としては、あまりにも簡略化されています。いや、あり得ない服装です。さらに、頭に冠などの飾り物がないことも、和宮ではないことを示しています。正装しないで記念撮影など考えられません。

なお、写真では分かり難いのですが、写真の人物は右手に扇子を持っています。扇子が手前を向いているので最初気づかなかったのですが、拡大してみたら扇子でした。この扇は、宮中で用いられた木製の女性用の扇(袙扇(あこめおうぎ)ではなく、もっと小さく薄いものように見えます。

明子は1836年5月12日生まれなので、1862年に撮影された写真だとすると、26歳になります。写真に写っている女性と同じくらいの年齢のように思います。

南部藩にこだわる理由は、この椅子が写っている写真が極めて少ないこと。写真館で撮影された写真なら、もっとたくさんの椅子の写真が残っていても良さそうなのですが、なぜか見つからない。このため、逆に、見つかった写真には何らかの関係性があるのではないかと考えました。(南部藩との関係を解明したので、記事下部に追記しました。)

まとめると、「和宮の写真」は、管理人は以下のようなものだったと考えました。

  • 写っている人物: 南部明子
  • 撮影年:1862年から1864年頃 (明子 26歳から28歳頃)
  • 撮影場所:江戸両国薬研堀の鵜飼玉川の写真館

和宮、南部明子

二つの写真を並べてみました。

右側の明子の写真の撮影年は不明ですが、推測可能です。元画像(下の写真)では明子と一緒に娘の郁子と麻子が写っています。二人の娘の年齢から考えて、撮影は1874年頃と考えます。この年、麻子が16歳で結婚しています。この2枚の写真が同一人物だとすると、上の写真の左側は26歳頃、右側は38歳頃の写真ということになります。

二人の人物が似ているかどうかの判断は、読者にお任せします。似ている、似ていない、といった意見は主観的なもので、科学的とは言えません。似ているという写真を何枚見つけても説得力がありません。

なお、郁子は明子が生んだ娘ではなく、利剛の側室の宮路倭所生の子供です。

南部麻子・郁子・稠子
左から麻子、郁子、稠子

高画質カラーにしてみました。

左から麻子、郁子、稠子

1874年(明治7年)2月に、南部利剛次女の麻子は八戸藩当主南部栄信と結婚します。同年11月、栄信はアメリカに留学しているので、洋行する夫に持たせるために撮影した写真ではないかとも考えられます。

さらなる展開

和宮の写真に写っているのは「明子」というと、誰かが書いている昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩藩主柳澤保申の正室、柳澤明子のことを思い浮かべる方がいるかも知れませんが、本サイトの推理とは全く別ものです。(追記: 森重和雄氏からコメントを戴きましたので、記事下に追記しました。)

本当は、和宮の写真を和宮本人だと立証したかったのですが、調査を進めていく過程で、本人ではないとの結論に達しました。最初に気づいたのは、写っている人物の輪郭が少女のものではないということでした。画像処理によりかなり鮮明な写真を作ることができましたが、お公家さん顔の15歳当時の浅田真央さんの写真と合成してみて、和宮の写真の人物は明らかに15歳の少女の顔ではないということを確信しました。顔のパーツの位置が全く違うのです。この過程の記事も途中まで書いたのですが、アップするのはやめました。なんら検証にはならないからです。同様に、和宮の頭骨と浅田真央さんの写真との合成をしてみましたが、大きな違いがあることが分かったものの、検証の役に立たないことから、アップするのをやめました。下の画像が Image warping 作業の途中段階のものです。ここまで一致させるためには、大きな変形をしなければならなかったということを示しています。発掘された和宮の頭骨の画像を使った比較では、和宮のおでこが広く、あごが小さかったことが下の変形ラインから見ることができます。このことは、遺跡調査結果報告書と一致しています。

盛岡藩は維新期の戊辰戦争での対応によって朝敵とされ、明治元年、利剛は東京に護送され篭居することになります。謹慎を免じられた後、一旦盛岡に帰り、1872年(明治5年)ふたたび家族と共に東京に移住しています。和宮と因縁浅からぬ南部家なので、今回の調査を進める上で日付けがとても重要でした。ほとんどの資料に日付けまでは書かれていません。このため、本サイトの和宮関連の記事では可能な限りイベントの年月日を記載しています。また、その場合、日付けをグレゴリオ暦に換算して統一して記載しています。

南部利剛の写真がいつ撮影されたものかについて、その時期をもっと絞り込むことが可能です。

それは、参勤交代で、藩主である利剛がいつの時期、江戸にいたのか、つまり在府の時期を調べればよいのです。

参勤交代は、享保の改革の一時期を除いて、1年おきに行われました。領地に1年、江戸に1年です。

8代将軍吉宗は、幕府財政再建のため、1722年(享保7年)諸大名に1万石につき100石の上米(あげまい)を命じ、その代償として参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としましたが、1730年には旧制度に戻しています。幕末の1862年(文久2年8月)、幕府は再度、参勤交代を緩和し、参勤交代の頻度を3年に1回(100日)とする「三年一勤百日在府制」を実施しました。

文久2年2月11日(西暦1862年3月11日)は徳川家茂と和宮との挙式が行われた日です。

利剛の写真はこの年、すなわち、1862年から数年の間に撮影されたと考えられるので、利剛の在府の時期を知ることができれば、撮影年を特定できることになります。

盛岡藩の参勤交代は、幕末では文久3年冬(1863年)が定められた参府の時期でした。この当時、蝦夷地警護のための代償として、10月参府、2月就府と在府の期間が短縮されていました。しかし、この時は、予定より前に江戸に来ていたようで、京都御所警護のために、文久3年9月26日(1863年11月7日)に京に向け江戸を出発し、翌年、文久4年1月16日(1864年2月23日)に京都より江戸に戻っています。(文久4年から元治元年に改元)

南部利剛は、文久元年12月(1862年1月) 従四位少将に叙位されています。(万延2年⇒文久元年に改元)このため、叙位翌年の京都御所警護は、利剛にとって特別の名誉ある仕事だったと考えられます。これを記念して、写真撮影が行われたのではないでしょうか。撮影が行われたのは、京都出発前の1863年10月。盛岡から江戸に出てきて、直ぐに撮影したのではないでしょうか。

そして同じ日に、明子も写真撮影した。

藩主には正室の他に側室もいるので、夫婦でツーショットという分けにはいかず、別々に撮影したのではないでしょうか。

柳澤明子説についての検証

皇女和宮の写真が実は「柳澤明子」であるとする説を発表されたのは、古写真研究家の森重和雄氏です。『歴史通(2011,7月号)』という雑誌で、「古写真探偵 皇女和宮の真実」という記事を投稿されています。森重和雄氏から「この和宮と言われていた女性は、柳沢明子の写真です。」というコメントを戴きましたので、早速、「古写真探偵 皇女和宮の真実」を読んでみました。

最初に、結論を書くと、森重和雄氏の説は決定的根拠に基づいており、「この和宮と言われていた女性は、柳沢明子の写真です。」というご意見に賛同します。

重森氏の記事を読み、管理人なりに考えたことを書きたいと思います(重森氏が、本稿を読んだ上でのコメントだと理解していますので)。

1.写真が「柳沢明子」であるとする根拠

和宮とされる女性が写った写真と全く同じものが明治時代の雑誌『太陽』(第八巻 第二號、博文館、明治三十五年二月発行)の「物故諸名士」という口絵写真に「柳澤明子」として掲載されていたこと。そして、柳澤明子が同年1月(明治35年1月8日)に薨去されていたこと。(柳澤明子は、大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申(やすのぶ)の正室。公卿左大臣一条忠香(ただか)の次女:弘化3年10月23日生まれ、明治35年1月8日死去、58歳)

管理人は、写真が「柳沢明子」であるとする根拠として、この内容だけで十分だと考えます。雑誌発行の前月に亡くなった方の写真を取り違えるとは考えにくい。もし、写真の取り違えがあったとすれば、雑誌『太陽』へ苦情が多く寄せられたことでしょう。柳沢明子は、明治天皇の皇后(旧名:一条美子)の姉にあたる方であることから、当時の時代背景を考えれば、写真の取り違えなど起こるはずもないこと。

雑誌『太陽』の発行元である博文館は、この写真をどうやって入手したのでしょうか。喪主から入手したと考えるのが妥当です。現代のように、ネットで画像を入手できるような時代ではありません。「物故諸名士」に掲載される訳ですから、遺族としても写真提供の便を惜しまなかったでしょう。

和宮が亡くなったのは明治10年ですから、それから25年近く経っています。当時も和宮のお顔を知っている人はたくさん存命していたと思います。以上の理由から、この写真が「柳沢明子ではない」と主張することはほとんど不可能だと考えます。

これが重森氏の説に賛同した理由です。

2.疑問点

上記のように、「柳沢明子説」に完全降伏の管理人ですが、「古写真探偵 皇女和宮の真実」に書かれている上記以外の部分については、疑問に感じる部分もあるので、補足的に書きたいと思います。
(もし、重森様がご覧の場合は、管理人の戯言とおとり下さい。)

① 「薙髪」について

薙髪と言っても、つるつるボーズ頭にそり上げるわけではなく、実際にはセミロング程度だったようです。皇族の場合は、それに尼頭巾を被っていたそうです。もちろん、そんなに短くしては御垂髪は結えません。坊主だったから結えないのではなく、髪の毛が短く、尼頭巾を被るから結えない。これにより、記述のニュアンスが変わります。

② 「和宮とされる女性が座っている椅子と絨毯」についての考察

実は、森重氏の「椅子」についての記述を読んで目を疑いました。古写真研究家を肩書きとされている方の記述とは思えなかったからです。

本稿でも書いているとおり、問題の女性が座っている椅子はとても特徴的なデザインをしています。

「椅子が飾り紐で飾られている」だけではありません。「飾り紐の一部に白っぽい糸が使われている」のです。重森氏は、飾り紐のある椅子ということで、問題の写真と「石黒敬章氏所蔵の、清水東谷の写真館で撮影された名刺判写真」が同じものだと2枚の写真を示して説明されていますが、管理人から見れば、全く別ものの椅子です(上で示した、問題の女性と南部利直が座っている椅子の比較写真参照)。したがって、これに関する同氏の記述、推論はすべて根拠をなくしています。清水東谷の写真館で撮影されたかどうかは分からない。

さらに、床に敷かれた絨毯のデザインについても同様のことが言えます。問題の女性が写っている床の絨毯は、これもまた、特殊なデザインです。何が特殊かというと、デザインのサイズが大きいのです。また、八角形か10角形の模様からはみ出るように、まるで数字の「6」のようなデザインになっています。ネットや本で絨毯のデザインを調べました。しかし、この特殊なデザインに一致するものは皆無でした。

重森氏は、形状が似ていることから、同一の絨毯であるとして撮影された写真館を特定していますが、それは明らかに間違いです。問題の女性が写っている床に敷かれた絨毯のデザインはとても大きなもので、他の写真では見ることができません。重森氏が比較で示された写真のデザインのサイズは、問題の女性のものと明らかに異なります。

ここまで自信を持って管理人が言い切るのには理由があります。管理人も、最初、同じ過ちを犯したからです。ある時、誤りに気づき、記事を全文書き直しました。

椅子もくせ者ですが、絨毯に至っては全く分かりません。このため、絨毯についての記述は削除しました。管理人は、問題の女性の絨毯は個人宅のものではないかと考えています。

管理人は、写真の違いを目だけで判読している訳ではありません。見にくい写真の解像度を高くし、様々な補正を加えて、時には、画像を変形させて重なり具合を調べたりしています。その上で決まってきたのがこの記事の問題解決のための推論手法なのです。しかし、結果的に、推論は頓挫し、森重氏の提示した説に屈しましたが。

管理人は持論に固執するつもりは毛頭ありません。不思議だと思ったことを誰も論理的に説明できないから書き始めたのがこの記事なので。誰かが論理的な説明をしてくれ、管理人がそれに満足できれば、それで良いのです。

森重氏の説は(管理人としては)完璧だと思うので、新たな記事を書く予定はないのですが、少し、距離を置いてみると、管理人の推論も決して大筋でおかしくはないようにも思えます。そして、どこが間違っていたのかが気になります。論理的思考の過ちをご指摘いただけるとうれしいです。

エピローグ

問題の写真が「柳沢明子」であることは疑いのないことです。しかし、それではなぜ、徳川宗家に「静寂院宮」と書かれた紙と共にこの写真が保管されていたのでしょうか。また、小坂善太郎氏の祖母繁子さんが確認した高倉寿子はなぜ見間違ったのでしょうか。

考えられるのは、「柳沢明子」と「和宮」の容姿がとても似ていたということ。

本来であれば、和宮の侍女たちに聞くのが間違いがないのですが、和宮の最期まで仕えた絵島(少進、藤)も1887年に亡くなっています。和宮を支えた最強の侍女軍団の他の侍女たちはもっと以前に鬼籍に入っています。

繁子さんが確認した1928年は、和宮薨去から既に51年も年月が経過しています。和宮のお顔を確認できる人はほとんどいなかったのでしょう。当時89歳だった高倉壽子くらいしか。

高齢の高倉寿子が和宮のお顔を見誤った、と考えるのが妥当とも思えます。しかし、本当にそうなのでしょうか。

徳川宗家を嗣いだ徳川家達(1863-1940)は、和宮薨去の時、わずか14歳で、しかも、イギリス留学中でした。家達は和宮と幾度か会っていると考えられますが、和宮のお顔はあまり覚えていなかったように思います。この年齢の男子から見たら、和宮は”厚化粧のおばさん”です。

繁子が写真の確認した年には、家達は存命でした。ということは、徳川宗家にある問題の写真は家達自身が入手したと考えられます。そして、「第九六號 静寛院宮御寫真」と墨で書かれた紙と共に写真を保管した。

このことから、「柳沢明子」と「和宮」の容姿がとても似ていたということが裏付けられるのではないでしょうか。和宮と数回会っていると思われる家達が和宮の写真だと思い違いをするほどに。

柳沢明子は、弘化三年十月二十三日(1846年12月11日)生まれです。「あれっ!」と思われた方がいるでしょう。そうなのです。和宮が生まれた年です。和宮は弘化三年閏五月十日(1846年7月3日) 生まれです。

二人は同い年だったのです。容姿、年格好までそっくりだったということでしょう。

ついでに書くと、大和郡山藩柳澤家上屋敷のあった場所は、現在の日比谷で、明治維新には東京府庁がここに置かれました。

(本記事は、内容を大幅に変更したので、再度アップロードしました。)

誰も知らない真実:家茂と和宮の子供

追記します。

■  一条明子(1846-1902)
(父)一条忠香(1832-1863)
(母)  順子(1827-1908)(伏見宮邦家親王・信子(鳥居小路法眼経視の娘)の娘)
(夫)柳澤保申(1846-1893)(大和郡山藩藩主)

■ 一条美子(1849-1914)
(父)一条忠香(1832-1863)
(母)花容院 新畑民子(1827-1908)(一条家典医の娘)
(夫)明治天皇

■ 華頂宮博経親王(1851-1876)
(父)伏見宮邦家親王
(母)家女房堀内信子
(妻)南部郁子(南部利剛の長女)

1860年8月27日 博経、孝明天皇猶子となる。同日、徳川家茂の猶子となる。1861年、和宮降嫁、1862年婚姻。

■ 南部栄信(1858-1876) 八戸南部藩家督相続
(妻)南部麻子(南部利剛の次女)
旧八戸藩上屋敷は、1万5000円で静寛院宮邸として売却され、豊島の邸宅を2,600円で購入し転居。

■ 有栖川宮熾仁親王(1835 – 1895) 和宮の元許嫁
(妻)徳川貞子(1850 – 1872)(徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹。南部明子の妹。南部郁子・麻子の叔母

(Wikipediaで貞子の誕生年が1870年になっていますが、当然間違いです。)

そして、導き出される「見えざる糸」が下に示す関係です。

孝明天皇 - 『華頂宮博経親王』 - 和宮 - 家茂 - 『華頂宮博経親王』 - 南部郁子 - 南部麻子・栄信 - 和宮 – 有栖川宮熾仁 – 南部郁子 - 南部麻子

これが、管理人が解明した、南部家と和宮をつなぐ見えない糸です。そして、謎の写真に写っていた『柳澤(一条)明子』は『華頂宮博経親王』と叔父と姪の関係になります。ここでも、見えない糸がつながっている気がします。

改めてこの関係図を見ると、南部家の関わり方が際立っていることに気づきます。
様々な系譜を見ていて思うのは、母親が不明な系譜が、当たり前のように掲載されていることです。「女」としか書かれていない。そりゃ、母親は「男」ではないでしょうから「女」という記述は間違いないのですが、かなり女性蔑視という感じがします。歴史家の皆さんは、大昔の女性蔑視の系譜を、現代でもそのまま掲載するのではなく、きっちり調べたら良いのではないかと思います。

上述のとおり、1860年8月27日 博経は、孝明天皇の、そして、同日、徳川家茂の『猶子』となっています。この『猶子』とは、「兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度」(Wikipedia)であることから、家茂と和宮の子供は? と聞かれたら、「博経」という名が出てくるはずです。この『猶子』縁組みは幕府の思惑が絡んでいることは間違いないのですが、目的がよく分かりません。

ところが、このことは歴史のベールに包まれていて、これまで誰も指摘していない。

実際のところ、『猶子』にはいろいろな形態があるようなので、「養子」とは異なり、「遺産相続権のない義親子関係」といった弱いつながりだったらしいのですが、それならば、なぜ『猶子』縁組みが行われたのかという、そもそも論の疑問が生ずる。

『陵墓 陵印 掲示板』で、「投稿者:たけちゃん」さんが、『実録・天皇記』(大宅壮一著)に記載されている実子・猶子・養子の違いについて、報告しています。(以下、引用)

  • 猶子・・“なお子の如し”という意味で親戚などの子供に対し自分の子供に準ずる形式上の待遇を与えるだけで、これに家督を譲るということはほとんどない。
  • 実子・・養子ではあるが、生家とすっかり縁を切り、生家の系図から全然抹殺して純然たる養子先の子供のようになること。
  • 養子・・実子に反して生家と縁を切らないで、実父母と養父母の両方に親子関係を持っていること。

したがって、実子になってしまえば、生家の両親に不幸かあっても忌引をしないで、“仔細の所労”あり、とか何かといって引き籠もるだけである。

本当の実子は何というかは言えば、それはただ単に子というのである。

ところで、家茂の写真はあるのか。

徳川家茂の写真を復元する』という記事を書きました。よろしかったらご覧ください。

最後に、大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申(やすのぶ)について。歴史上ではあまりお見かけしない方ですが、1861年7月5日に発生した東善寺事件の時に英国公使館を警護していたのが郡山藩です。公使オールコックは、幕府の警備兵は何もしなかったと嘘の報告をしますが、後になって郡山藩警護の武士が勇ましく戦い暴徒を撃退したことが分かると、英国政府から柳澤保申に対して報償の金メダルが贈られます。

出典:
1. 「直球感想文 和館」、高倉寿子の画像を使わせていただきました。