皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?

皇女和宮の謎

 皇女和宮(静寛院宮)が晩年に住んでいたのは、東京麻布の御邸(おやしき)。
 
 1874年(明治7年)7月8日、和宮は京都から東京に戻り、用意されていた麻布市兵衛町の御邸に居を定めることとなります。実際には、降嫁の際に宿泊した清水邸にいったん入り、その後、兵衛町の御邸に移ったようです。
 
 それから3年あまり後、1877年(明治10年)8月7日、脚気を患っていた和宮は、医師に湯治を勧められ、治療のため箱根の塔ノ沢温泉へ行きます。そして、同年9月6日、和宮はこの邸に戻ってきます。亡骸となって。

 さらに、9月16日午前11時、和宮の御棺はここ麻布の御邸を出門し、増上寺に向かいます。後には、主人(あるじ)を亡くした邸宅が寂しげに残るだけでした。
 さて、この御邸は、現在の住所ではどこなのでしょう。

 当時の住所は、『麻布市兵衛町一丁目十一番地』です。現在の住所は、『東京都港区六本木1丁目9』あたりです。

 和宮ファンの方もたくさんいると思います。和宮が晩年に暮らした御邸の跡地を訪ねてみたいと考えている方もいると思います。

 しかし、上の住所を頼りに現地に行っても、イメージが全く湧かないような気がします。それはなぜか。住所が漠然としているからです。たとえば、不動産を見に行くとき、住所だけ渡されても困ります。『図面』が必要です。和宮の御邸はどのような『土地の形状』だったのでしょうか。

 早速調べてみました(笑)。

 1876(明治9)年10月25日出版の「明治東京全図」に、和宮の御邸が載っています。

 この地図は国立国会図書館で閲覧できます。この他に、安政6年(1859年)の地図もあり、この土地には南部氏の名前がありました。

 和宮の御邸の土地の形は分かったのですが、現在の地図では、どの辺になるのでしょうか。

 早速調べました(笑)。

 「明治東京全図」と「Google Map」を重ね合わせます。驚いたことに、140年前の道路の配置が同じ箇所がたくさんあります。赤く色塗りした範囲が和宮の御邸です。

麻布の和宮邸位置図(1877年)
Source:「明治東京全図 1876(明治9)年」と「Google Map」を合成

 Google Earthで閲覧するには、検索窓に下の緯度経度をコピーペすれば目的地を表示できます。

  35°39’46.01″N 139°44’26.47″E

  Google Earth用のkmzファイルはこちらからダウンロードできます。

 Google Earthで見ると、高いビルが建ち並んでいることが分かります。やはり、土地の範囲がわかる位置図があると便利です。

Google Earth 旧和宮御邸跡地

 このような図があると、現地に行った時、『ここからここまでが和宮が暮らしていた土地なんだぁ』と実感が湧くと思います。

 和宮が住んでいた土地の面積は、いったいどのくらいあったのでしょうか。

 早速調べてみました(笑)。

 Google Earthを使って、土地面積を計測します。計測した結果は、13,200㎡、なんと、ぴったり4,000坪です。坪への換算をしたら端数がなく4000坪と出たので驚きました。『和宮が住んでいた六本木の土地はちょうど4000坪だった』とうんちくを傾けることができます。

 せっかく、旧和宮邸跡地を見に行くのなら、予備知識があった方が断然楽しめます。そこで、マニアックな情報を書きたいと思います。

 1874年(明治7年)7月、和宮が居を構えた土地は、以前、八戸藩の上屋敷があった場所です。ちなみに、道路を挟んで南西方向に隣接したところに中屋敷がありました。

 陸奥八戸藩の第9代当主南部信順(なんぶ のぶゆき)は、薩摩藩主・島津重豪の十四男で、八戸藩の第8代藩主・南部信真の婿養子に迎えられ、天保13年(1842年)に家督を相続します。

 1868年(慶応4年)、戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟と、藩主が生まれ育った薩摩藩との板挟み状態になり、苦境に立たされますが、うまくこの難局を乗り切ります。官軍との戦いに直接参加しなかったことから、藩主信順にはおとがめなしで八戸藩の存続に成功します。

 南部信順は、1869年(明治2年)6月22日に八戸藩知事となりますが、1871年(明治4年)の廃藩置県を機に知藩事職を辞任し、家督を長男の栄信に譲ります。翌1872年(明治5年)、信順は59歳で亡くなっています。八戸藩の最後の藩主でした。

 家督を継いだ時、栄信はわずか13歳でした。それから3年後の1874年(明治7年)2月に、南部利剛次女の麻子と結婚します。二人は同い年で1858年生まれ。16歳同士の結婚でした。

 結婚したその年の11月、栄信は留学のためアメリカに旅立ちます。それから二年近く経った1876年(明治9年)の始めに、栄信は病のため帰国し、同年3月に死去しました。享年19歳でした。このような慌ただしい結婚生活だったため、麻子との間に子はなく、家督は麻子が継ぎ第11代当主となります。1878年(明治11年)、麻子は、弟で南部利剛の11男である南部利克に家督を譲ります。

 さて、1874年(明治7年)、すなわち、栄信と麻子が結婚し栄信がアメリカに旅立った年、旧八戸藩上屋敷は、1万5000円で静寛院宮邸として売却され、豊島の邸宅を2,600円で購入し転居しています。

 当時の1円は、現在の1万円程度の価値があったようなので、土地販売価格は1億5千万円といったところでしょうか。なぜ土地を売却したのでしょうか。栄信の留学費用を捻出するためだったように思えます。

 一人残された麻子は、寂しく暮らしていたのでしょうか。いつも実家に戻っていたような気がします。南部家の写真を見ていて感じたのは、兄弟仲が良いということ。

  歴史を知ると、南部麻子という女性は和宮ととても似た境遇だったように思えてきます。
  16歳での結婚。同い年の夫婦。結婚後、夫は出張でいつも不在。二年足らずの結婚生活で夫と死別。
  和宮は1846年生まれで、南部麻子は1858年生まれ。和宮の降嫁の時には、麻子はまだ3歳でした。

和宮亡き後の屋敷はどうなったのか

 和宮の死後、お屋敷はどうなったのでしょうか。調べてみると、宮内省の資料には、和宮が亡くなった年の年末に、東伏見宮邸になっています。つまり、明治10年のこと。

 ところが、Wikipediaで『東伏見宮』を調べると、「・・・小松宮依仁親王となった。1898年、岩倉周子と結婚。1903年(明治36年)に、小松宮彰仁親王が薨去する際に依仁親王の継嗣を停止したため、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設した。」とあり、東伏見宮家は明治36年創設で、それ以前には無いような印象を受けます・・が、違うのですね。

 天皇家の血筋を守るための四親王家(伏見宮家(室町時代)、桂宮家(桃山時代)、有栖川宮家(江戸時代初期)、閑院宮家(江戸時代中期))から新たな宮家ができたのは明治維新以降のこと。それまではこの四親王家だけでした。

 のちに東久邇宮の屋敷となり、終戦まで使われたようです。戦後は林野庁の宿舎が置かれました。最終的にこの土地は森ビルに払い下げられ、現在の高層ビル街になります。

 旧和宮邸から南西に30分ばかり歩くと、旧南部藩下屋敷にたどり着きます。そこは、現在、有栖川宮記念公園になっています。そうです。和宮の許嫁だった有栖川宮威仁親王が、1896年(明治29年)から住んでいました。その時には和宮はこの世にいませんが。

八戸藩について

 寛文5年(1665年)、盛岡藩より八戸藩が分立し、新たに新屋敷を江戸本所に給せられました。盛岡南部氏は、上屋敷は桜田邸、下屋敷は麻布邸、中屋敷も元禄中には設定したらしい。桜田邸は、桜田御門と幸橋御門との中間にあったが、桜田御門に近いことからの名称のようです。

 八戸藩は、寛文5年10月、幕府より江戸屋敷として江戸本所に百間四方一万坪の宅地を給せられたといいます。和宮に売却した麻布兵衛町の屋敷は享保年間に取得したもののようです。
(「岩手県史」 p.359)

南部麻子のお墓を青山墓地で発見!

 青山墓地を徘徊していたら、南部麻子のお墓を見つけました。なんで青山墓地にあるの?
 詳しくはこちらの記事で。

 『和宮に麻布のお屋敷を売った南部麻子のお墓

旧静寬院邸の現在の状況

 実際に、現地に行ってきました。

 別記事にアップしましたので、ご覧下さい。

 『和宮が晩年に住んでいた麻布のお屋敷(跡地)に行ってきました