皇女和宮が抱えていた湿板写真を復元したら驚きの結果に!

皇女和宮の謎

 和宮のナゾの中で解明したい本当のナゾは、和宮の左手のナゾではなく、和宮が棺の中で抱えていた湿板写真に誰が写っていたのか、ということ。

 この写真を「乾板」と書いている人もいますが、「湿板」が正しい。

和宮の遺骸が抱えていた写真とは

 1877年(明治10年)に埋葬された和宮のお墓が発掘調査されたのは1958年(昭和33年)のことです。

 この時、和宮の遺骸のすぐ近くから一枚のガラス板が見つかります。発掘担当者は、それが湿板写真とは気づかず持ち帰りますが、採取した発掘品を整理していたときに、そのガラス板に何かが写っていることに気づきます。

 しかし、そのまま放置したために、湿板写真に写っていた画像は消え、ただのガラス板になってしまいました。和宮の墓には埋葬品は見つからず、唯一見つかったのがこのガラス板であったことから、発掘調査団はかなり落胆したようです。この辺のことを小説ではこの報告書に書かれていたと調査報告書を引用する形式で、さまざまな脚色を加えて紹介していますが、どこまでが本当に報告書に書かれている内容なのかが分からない。

 報告書に書かれているか、あるいは、書かれていないことなのか、については、原典を調べれば直ぐに分かります。間違った情報が一人歩きしているようなので、原典をそのまま引用します。

発掘調査の記録

 発掘調査の報告書 『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』には、この時の状況を以下のように記載しています。

 「ところで最後にこの静寛院の棺内で唯一つ非常に貴重な遺品が発見されている。そしてそれが発見後の取扱い上の不手際から取り返しのつかぬ残念なことになってしまったことをここに述べなければならない。遺体の両臂の間にちょうどこれを抱いたかのような形でガラスの板が1枚落ちていた。はじめはおそらく懐中鏡か何かの裂の部分が腐朽したものかと思って採取して持ち帰った。その夜、博物館の仕事場で採取物の整理をしていてふと電燈の光りにすかして見たら間違いもなく写真、湿板写真である。しかもそこに写っている人物は、長袴の直垂に立烏帽子を被って立っている若い男子の姿、豊頬にまだ童顔を残した家茂将軍に違いないと思われた。これから家茂の写真が複写できるものと期待していたところ、これを仕事場の台の上に立てたままにして帰ったのが運の尽きだった。翌日、きて見たところが写真の膜面が消失して単なる素通しのガラスとなってしまっていた。あわててあちこちに御願いして補力して見たが一度消え去った若い家茂の姿は二度と現れてこなかった。静寛院宮のこの写真だけは、今回の調査の中での最大の収穫であるべきものが最大の損失となってしまったことが悔やまれてならない。」(p117 原文のまま)

和宮墓発掘時に見つかった写真湿板

和宮墓の副葬品と写真湿板のなぞ

 和宮の棺に納められた副葬品が少ないことから、その点を陰謀説に結びつけている人もいますが、発掘調査の上記報告書を読むと、同時に発掘が行われた他の墓地でもほとんど副葬品が見つかっていないお墓がたくさんあります。副葬品が残っているかどうかは、埋葬年よりも墓地内の水分が大きく影響しているようです。

 また、残っていた副葬品を見ても、現代人が期待するツタンカーメンの副葬品のような豪華なものとは異なり、身の回り品を棺に納めたという感じで、とても質素です。大判小判が十万両くらい入っていると楽しいのですが、どうも宗教観が違うようです。お金は、三途の川の渡し賃、六文銭さえあればよいようです。この渡し賃はインフレの影響を受けず、現在でも変わりません。

 余計なことですが、三途の川の渡し賃を受け取る船頭は、そのお金を何に使うのでしょうか。そのまま貯めていたとすると、その額は天文学的な膨大なものになります。ちりも積もれば、です。誰か、三途の川の船頭の経済性についての論文を書いて欲しいものです。

 インフレの影響を受けない固定価格制、船の減価償却の考え方、価格設定の妥当性、需要と供給(需要増に合わせて船の数や船頭を増やす)、外国人に対する対応、など、まじめに考えると眠れなくなります。最近は、火葬機械を痛めないために、金属を棺の中に入れることは禁じられており、紙に印刷した六文銭が使われています。

 見つかった湿板写真についてですが、これについての記録は一切なく、誰が写っていたのかさっぱり分かりません。

 直垂に烏帽子の正装をした青年が写っていたことは分かっていますが、それが誰の写真なのかは分かりません。常識的に考えれば、家茂の写真でしょう。

 Wikipediaには「この男性の正体は未だに不明であるが、夫の家茂である可能性が強い。あるいは婚約者だった有栖川宮熾仁親王ではないかとの指摘もある。」とありますが、この記述はおかしい。何らの証拠も示していない「有栖川宮熾仁親王ではないかとの指摘」をWikipediaに記載することは読者をミスリードします。これは「指摘」ではなく「憶測」が正しい表記でしょう。


     Foto: Nekoshi

写真に写っているのは誰なのか

 和宮の葬儀、埋葬は当時の宮内省が所管しました。和宮の遺言で夫家茂と同じ徳川家霊廟に埋葬されましたが、和宮はあくまでも皇族として扱われているので、宮内庁書陵部HPの所蔵資料目録にその時の記録が残っていることはインターネットで確認できました。その中に、副葬品として何を入れたのかが書かれた資料があるかも知れません。それを見れば、誰の写真だったのかは分かるように思うのですが。

 前回の記事で、和宮の葬儀・埋葬の状況を詳しく書きました。

 和宮薨去から埋葬まではかなり時間が経っているので、棺の蓋を開けて写真を和宮の遺骸に抱かせた、というのは無理だったと考えられます。皇族である和宮の遺骸の防腐処理はしないので、棺の蓋を開けられる状態ではなかったと思います。棺は三重になっているので、一番内側の棺の上に副葬品を置いたというのが本当の所でしょう。

 小説的には、「家茂の写真を抱いたまま埋葬された」とすればストーリーとしてはきれいですが。発掘報告書でも、「遺体の両臂(ひじ)の間にちょうどこれを抱いたかのような形でガラスの板が1枚落ちていた。」とあることから、遺骸が写真を抱いていたように皆さん考えるようです。しかし、なぜ、和宮の遺骸が『横向きで』、『両臂を伸ばした』ような状態で発掘されたのかについては、誰も問題視しません。これを指摘したのが、本サイトで和宮を取りあげた最初の記事『皇女和宮の埋葬のナゾに迫る』です。

 ちなみに、西暦1866年8月29日、大阪城で亡くなった家茂の遺骸は、10月14日に江戸城に運ばれ、10月31日に葬儀が行われています。家茂の遺骸が江戸城に着いたときには薨去後一ヶ月半経っていました。

 鎌倉時代に用いられた朱・水銀での防腐処理をしたのかと思っていたのですが、発掘調査の報告書を読むと、家茂の棺の中の遺物に特別な防腐処理の痕跡は見られません。茶と香と石灰が用いられたようです。当然、江戸城で、和宮が棺を開けて亡き夫と対面した、ということはありません。

 なぜ、そう断言できるのか。できるのですよ、それが。

 家茂の棺は、大阪で梱包された状態で発掘されました。当然、江戸城で棺は開かれていないのです。埋葬する時に、わざわざ棺を梱包することはあり得ないので、梱包された状態で発掘されたと言うことは、江戸では棺は開封されなかったということを示しています。

 なぜ、開封しなかったのか。それは、・・・、棺を開くわけにはいかなかったからでしょうね。開く必要もなかったのでしょう。家茂の亡骸に対面する資格のあるのは、妻である和宮と母親である実成院(1821年2月20日 – 1904年11月30日)でしょうが、何しろ死後日にちが経ちすぎています。怖くてお棺の蓋は開けない。

失われた湿板の画像を復元する

 さて、和宮の墓の発掘調査のとき見つかった写真湿板を撮影した写真が残されています。

 現在の写真処理技術で、この写真から、写真湿板に写っている画像を最近の画像処理ソフトを使って復元できないでしょうか。
 さっそく、やってみました(笑)。 

 何かが写っているような気もするのですが、その判断は、おまかせします。

 管理人の持てるわずかばかりの技術を駆使して画像処理をしたのですが、いかがでしょうか。写真自体の加工は一切していません。写真の明度・彩度・解像度等の一般的な処理だけです。

 わかりやすいようにGIF版も作りました。これでいかがでしょうか。

和宮が抱えていた湿板写真

 実は、画像処理の段階で、人の顔に見えるようなたくさんの場面に出くわします。これがまさに心霊写真と誤解される写真のマジックです。これはシミュラクラ現象と言われるもので、人間の目には3つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされている脳の働きがあるのだそうです。

 解像度の悪い写真を拡大処理していると、たくさんの”3つの点”が現れるため、それが人の顔に見えてきます。特に、和宮の棺の中にあった湿板写真はゴミがたくさん付着している状態で撮影されたものであるため、ゴミが人間の顔のように見えてしまう。でも、烏帽子を被った人物が写っているようにも見えるから不思議です。

湿板に写っていたのは有栖川宮幟仁親王かも

 少し気になっていたのは、この湿板に写っているのは和宮の許嫁だった有栖川宮幟仁親王ではないかという説。そこで、今回復元した写真を用いて確認してみました。

 二枚の写真の位置合わせは下の画面のようにしました。

 二枚の写真を重ねて表示したものが下のGIFアニメです。

 あまり期待せずに作業をしていたのですが、この二枚の写真は結構重なる箇所が多いように感じました。ちょっと驚きの結果です。写真の縁の重なり具合をよく見てください。真偽の判断は読者にお任せします。

 有栖川宮熾仁親王という方は、和宮のフィアンセだったというくらいの知識しかなかったのですが、調べてみると、幕末のみならず明治に入ってからもよくお名前が出てきます。なんと明治時代の皇位継承権第一位だったそうです。大正天皇になられた明宮(はるのみや)ではなく有栖川宮熾仁親王が一位というから驚きです。江戸城総攻撃に向け進軍した官軍の大総督も熾仁親王だし、この時代の重要人物でした。

 上の写真は、明治初年に浅草大代地の内田九一写真館で撮影されたものです。明治10年に亡くなられた和宮が彼の写真を持っていてもおかしくはない。名刺判の写真は、まさに名刺代わりに使われていたようです。

 もしかしたら、降嫁に反対だったお付きの女性たちが、勝手に棺の中に入れたのかもしれません。宮さんは降嫁せずに熾仁親王と結婚していればこんな苦労はしなかったのに、という心情が長年和宮にお仕えしてきたお付きの女性たちにあったように思います。

和宮が抱えていた写真湿板に写っていた人物とは

 紙焼き写真ではなく、なぜ湿板なのか、という基本的な問題があります。取り扱いが困難な湿板写真が使われていた時代を考えれば、家茂の写真であることに間違いないでしょう。

 熾仁親王の写真なら当時いくらでも手に入るわけですから、わざわざ湿板を棺に収める理由は全くありません。湿板という材質の時点で熾仁親王の写真である可能性は消え、家茂の写真であることはほぼ間違いないことでしょう。 

 このガラス板は、その後、増上寺の静寛院宮宝塔の中に戻されました。宝塔の中には、和宮様の遺骨とこのガラス板が納められています。

 いつの日か、もっと技術が進歩すれば、このガラス板に写っていた人物像を復元できる日が来るかも知れません。

和宮宝塔

 増上寺で撮影した和宮の宝塔に名前を入れてみました。

編集後記

 本サイトの記事で、初めて「実成院」の名をここに書いています。和宮といえば篤姫みたいに、すり込まれた概念の中でしか考えることができないというのは、かなり問題かも。

 和宮の姑は「実成院」。篤姫ではありません。なぜか、彼女についての記述は歴史から消されているように思います。

  将軍職という視点からの「家定の正室の・・・」という説明は、最もらしいのですが、どうも嘘くさい。勝手にダブルスタンダードを適用しているように感じます。つまり、都合のよい時にだけ当てはめる基準。こんなの嘘です。15代将軍すべての将軍と生母、前将軍の妻との関係を示す必要があります。

 これまでの明治政府の対応を見ていると、「実成院」について、その記録を消す必要があったからではないでしょうか。これが、新たな謎です。記録がないということは、記録を意図的に消し去った人、グループがいたことを示しているように思います。