海賊の財宝伝説に迫る(4):エドワード・デイビス船長の財宝

ココ島の財宝伝説

 ココ島に財宝を隠したといわれている海賊は何人かいますが、今日は、「エドワード·デイビス船長」について書きたいと思います。

 前回のトンプソン船長の『リマの財宝』は1821年頃の話でしたが、エドワード·デイビス船長の財宝はそれより140年ばかり時代を遡った1680年代の伝説です。

プロローグ

 とても頑固で頑丈なバッカニア(buccaneer)、エドワード·デイビス船長は、1680年代にカリブ海で活躍したイギリスの海賊です。彼は紳士であり、すべての海賊とそのリーダーたちの上に立ち、残酷で非人道的な残虐行為は決して行わない男だと信頼されていました。そして、暗黙のうちに全ての部下たちから信頼されていました。

 当時、彼は、海賊クーク船長(John Cooke)の「リベンジ号“The Revenge”」に乗っていました。 

 海賊クーク船長は、18の大砲を持つ砲艦「リベンジ号 」でチェサピーク湾から出港して 、すばらしいデンマーク船を拿捕します。彼は、全ての積荷を奪った後、「リベンジ号」を沈め、奪った船を「バッチェラーズ・ディライト号(“Bachelor’s Delight”)」と名前を変更し、新たな海賊船に仕立てました。「独身者の喜び号」という船名のようです。

 その後、ホーン岬を周り、ゆっくりと南アメリカの沿岸を北に航行し、そこでスペイン船を捕獲し、また、スペイン入植地を攻撃し略奪しています。

 クーク船長は日本ではほとんど知られていない海賊です。名前が似ているジェイムズ・フック船長(Captain James Hook)は、別人です。フック船長はディズニー映画に登場する手にかぎ爪(Hook)がついた片足の船長で、架空の人物です。海賊ティーチ「黒髭」がモデルになったと言われています。

 エドワード·デイビスは1683年から1702年までの20年間、海賊として有益な経験を積んでいました。エドワードは、ジョン・クーク船長の船の操舵手として、最初に西インド諸島で、後になって太平洋で海賊行為を働き、船の中で確固たる地位を築いていました。

 1684年2月、彼が乗ったクーク船長の海賊船「「バッチェラーズ・ディライト号」はホーン岬を周り、南米大陸を北上していました。

ロビンソン・クルーソーには実在のモデルがいた!

 エドワード·デイビスの船乗り仲間の中で、貿易についてかなり知識を身に付けていたのはウイリアム・ダンピール( William Dampier)とライオネル・ワッフル博士(Dr.Lionel Wafer)でした。後年、ワッフル博士が探検旅行について書いた雑誌は、この時代のベストセラーで、彼らと同時代の人である有名なダニエル・ディフォーのような作家たちにとっての極めて貴重な原資料となりました。

 前述のダニエル・ディフォーが書いた有名な冒険小説「(ロビンソン・クルーソー(1709))は、まるでノンフィクションであるかのような迫力がありますが、それもそのはず、この小説には原典があり、実在したモデルがいました。アレクサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk)というスコットランド人です。

 ウイリアム・ダンピール(William Dampier , 1652-1715)が乗った船が、このアレクサンダー・セルカークを救出しました。
 ちなみに、探検家の高橋大輔氏が、アレクサンダー・セルカークが暮らした島、チリのロビンソン・クルーソー島を訪れ、彼の住居跡を発見しています。『探検家 高橋大輔ブログ』 。

 ココ島の「ダンピール・ヘッド」または「ダンピール岬」(Cocos島の南海岸にある)は、彼の名前に由来します。同様に、ウエハー湾と「ライオネル・ヘッド」は、ライオネル・ウエハー博士(Dr.Lionel Wafer, 1660-1705)の名前から命名されました。

ココ島に財宝を隠す

 話を続けましょう。

 南米大陸の太平洋岸を北上し、チリ沖を航行していた「バッチェラーズ・ディライト号」は、フアン・フェルナンデス(Juan Fernández、ロビンソン・クルーソー島:Robinson Crusoe Island)に投錨します。

 ロビンソン・クルーソー島の西160Kmに島があります。この島には、ロビンソン・クルーソーの実在のモデルであるアレクサンダー・セルカークの名が付いています。

 この島は、ウエハーにちなんで別名” Juan Fernández”とも呼ばれています。

 ちなみに、Google Mapで検索窓に「Alexander Selkirk, chile」として検索し、次に「Juan Fernández chile」と入力してみて下さい。どちらも同じ島が表示されます。

 その後、エクアドルのガラパゴスに到着します。「バッチェラーズ・ディライト号」は進路を東にとり、エクアドルの沖合のドレーク島(Drake’s Island、現Isla de la Plata)に寄航します。

 彼らは覚えていました。1世紀前、フランシス・ドレーク卿(Sir Francis Drake)が、彼の船を軽くするために、鉛と勘違いした数トンの銀のインゴットを海中に投じたのがこの場所だったということを。

 「バッチェラーズ・ディライト号」の乗組員たちは、ここで、財宝を釣り上げようと、毎日、財宝釣りをしましたが、うまくいきませんでした。

 この海賊、著者は、海賊バーソロミュー・シャープ、そして悪名高い「紳士」、私掠船のエドワード·デイビス、そして、彼の海賊船の外科医で自然主義者であるライオネル・ウエハー博士と一緒に、太平洋岸のスペインの町を略奪しました。ライオネルは財宝を埋め、暮らしていた当時のココ島ついて、生き生きとした記述を残しました。

 ダンピール船長もまた、自らの冒険の歴史「A new Voyage Round the World, 1697」を書き残しました。

 しかし、スペインの新世界の植民地は、魚を釣るよりもたやすく、「ゴールデン・ハインド号(Golden Hind)」の赤ヒゲ船長の時代と同じように、1684年には多くの富を生産していました。

 「バッチェラーズ・ディライト号」がココ島に到着する頃には、船倉は宝で一杯になり、そして、船長が新しくなっていました。1684年7月、クーク船長はコスタリカのニコヤ湾(Golfo de Nocoya)で死亡し、エドワード・デイビスが新しい船長に就任していました。その時、彼は、1000人以上の海賊を従えていました。

 エドワード·デイビス船長の下で、事業は成功しました。彼はまったく有能な男性で、全ての活動がビジネスライクであり、彼は生まれながらのリーダーでした。彼は、自分が海賊や罪人だとは決して考えたことがなかったでしょう。彼は愛国的英国人としての義務を果たし、当時のイギリスの敵国の船や町を襲撃しました。

 デイビス船長たちはココ島に彼らの拠点を築き、バハ・カリフォルニアからグアヤキルに至るスペイン植民地を襲撃しました。
 彼はニカラグアのレオンの街を襲って数十万枚のスペイン銀貨(piece of eight)を略奪しました。島にはその戦利品を保管するための貯蔵庫が造られ、財宝を運び入れました。船を傾け修理、整備し、彼の部下を数週間休ませた後、、再び、更なる冒険に出港していきました。

 海賊船の外科医で自然主義者であもライオネル・ウエハー博士は、デイビスとその仲間たちが財宝を埋め、暮らしていた当時のココ島ついて、生き生きとした記述を残しました。

 「バッチェラーズ・ディライト号」は、、時折、他の海賊船と行動を共にしました。たとえば、スワン船長(Captai. Swan)の有名な「海賊船シグネット号(The Cygnet)」(後に、ウィリアム・ダンピールが船長となる)、イートン船長(Captain Eaton)の「ニコラス号(The Nicholas)」そして、あるときは、フランスの私掠船とも一緒に活動しました。これらの海賊は全て、略奪した財宝を隠すために、必ずココ島に戻りました。

 海賊たちは、この時期、「数トンの銀のインゴット、宝石とスペイン銀貨(piece of eight)で満たされた衣装箱、砂金で一杯の革袋などの財宝」を島中に埋めました。そして、現代のトレジャーハンターたちは、過去に発見されたのは、隠された財宝のほんの微々たる部分に過ぎないと考えています。

 記録によれば、「バッチェラーズ・ディライト号」は、スペインへの航路上にあるリマのカリャオ(Lima, Callao)からパナマにかけての海域でスペインの貨物船を襲い、その積荷をココ島に運び込みました。そして、これらの財宝は、デイビスがホーン岬を周りジャマイカに帰国する直前の最後のココ島寄航の時、島に埋められました。

(管理人心の声: “おいおい! どんだけの量の宝物があるんだよ!”)

エピローグ

 <突然ですが、> 彼は逮捕されますが、彼は罪状のほんの一部だけを認めて、「陛下の慈悲(”Majesty’s mercy)」に基づく大赦より、彼の罪は許されます。これは、イギリス国王ジェームズ2世(在位:1685 – 1688年)よって全ての海賊(プライベーター)に提示された恩赦でした。その後、彼は、ココ島に戻って彼の財宝を回収する機会を待つ間、バァージニアで楽く快適な隠遁生活を送ります。

 彼は小さな船で出港しましたが、昔の誘惑が彼を破滅に導きました。カリブ海を敗走しながら、中米の海岸に沿って小さな略奪を繰り返した後、ポート・ベロに無駄な攻撃を行ない、その後、不思議なことに歴史のページから消えました。
 (途中ですが、ここまでで、取り敢えずアップロードします。文献調査が途中なので、後日、追記します。)

 エドワード・デイビス船長、キャプテン・クーク、ウエハー及びダンピラーの公海上における功績に続き、物語は『デボンシャーの宝(”Devonshire” treasure)』の移ります。

【参考】
“Cocos Island – Old Pirates’ Haven”, Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
Wikipedia: “John Cooke (pirate ) “  https://fr.wikipedia.org/wiki/John_Cooke_%28pirate%29