横浜「赤い靴はいてた女の子の像」の謎

古代の謎・歴史ヒストリー

 先日、横浜に行ったとき、山下公園に建つ『赤い靴はいてた女の子の像』を見ました。

 野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡『赤い靴』で有名になった女の子。

 この銅像は1979年(昭和54年)に建てられたそうです。
 銅像なので、女の子が履いている靴の色が分からない。

 そこで、カラーバージョンを作ってみました。


 
 この赤い靴を履いていた女の子は実在のモデルがいるらしいのです。

 「1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされる。」(Wikipedia, 「赤い靴」)。

 ドキュメンタリー番組を制作した菊地寛氏は5年にわたり調査したようです。この定説に対し、「捏造」が含まれているという説を作家の阿井渉介が提唱しました。詳しくは、Wikipediaをご覧下さい。

 日本人の大多数の人々は、『赤い靴』のモデルになったのが「佐野きみ」かどうかなどどうでもよいと感じると思います。それよりも、童謡『赤い靴』の持つ悲しい響きに心を打たれるのではないでしょうか。

 この童謡を聴いて管理人が思うのは『津田梅子』のこと。明治4年に太平洋を渡った5名の幼き女子留学生の一人です。梅子が横浜港から旅立ったときは、わずか6歳でした(船中で直ぐに7歳の誕生日を迎えますが)。

 アメリカで梅子を見た関係者たちは、人形のように幼い梅子に驚いたようです。そりゃあそうでしょう。7歳になったばかりの幼女が親元を離れ異国の地に来たわけですから。世話する側は大変です。彼らがどう思ったのかは容易に想像できます。「梅子の父親津田仙はいかれている」と。

 梅子は津田塾大を創設しますが、それは結果論の話。異国の地アメリカで死んでしまうというリスクも高かったのではないでしょうか。実際、留学した若者たちが留学先で客死するということはよくあったことでした。梅子がアメリカに渡ったのは、赤い靴のみきちゃんが生まれた年より30年も前の話です。

 『赤い靴をはいてた女の子』から、横浜、波止場、異人さん、という要素を取り除くと、当時の貧困層の悲哀に過ぎなくなります。その悲哀は昭和の時代まで続きます。

 こうしてみると、童謡の影響力の大きさを感じてしまいます。しかし、心に残る童謡になるためには、その歌詞に、横浜、波止場、異人さん、という要素が必要だったように思います。