岩倉使節団をアメリカに運んだのはどんな船だったのか

岩倉使節団の謎

 1871年12月23日、岩倉使節団一行を乗せた『アメリカ号』は、一路サンフランシスコをめざし出帆していきました。

 使節団を運んだこの『アメリカ号』とはどのような船だったのでしょうか。

 今日は、これを調べてみました。

アメリカ号とは

 アメリカ号は太平洋郵便蒸気船会社(Pacific Mail Steam Ship Company:PMSSC、太平洋郵船)の所有する当時最大の木造蒸気側輪船でした。側輪船というのは、スクリューが実用化される以前に用いられていた船腹の両側に取り付けられた水車のような推進機関を持つ船です。テーマパークでたまに見かけるタイプです。外輪船はまもなくスクリュー船に取って代わられます。

 ただし、アメリカ号の基本推力は帆でした。帆船だったのです。外輪は、出入港時や無風時の推進力として使ったようです。

 アメリカ号はニューヨークの造船所で造られました。1869年に進水し、サンフランシスコと横浜・香港間の定期旅客郵便船として就航していました。船体の大きさは、全長363フィート(111m)、幅57フィート(17m)、登録トン数が4,554トンでした。クルーが103人乗り込みました。旅客定員は92人(Wikipedia「SS America (1869)」という資料があります。この92人という定員は岩倉使節団に随行の久米邦武も「此回に発する飛脚船は、『アメリカ』と号す、太平洋会社飛脚船のうちにて、第一なる美麗の船なり」「天秤仕掛の蒸気器械にて、外輪の船なり」 、「上等の客室30、次等の客室16、総て46室あり、92人を容るべし」と書いています。つまり、92人とは一等船室と二等船室の定員であることが分かります。実際には、ステアリッジ(steerage)と呼ばれる三等船室があり、定員は全体で1500人程度だったようです。アメリカ号より小さいコロラド号でも1000人の乗客を運んだようです。

(引用:「太平洋郵船外輪船中国人ステアリッジ船客の統計的再検討(1867-1871年)」藤村是清、神奈川大学アジア・レビュー Vol.02)

 船の大きさが直感的には理解できないのですが、管理人が乗ったことがある東京-沖縄間を運行している客船飛龍21は、全長167m、幅22mなので、アメリカ号よりも一回り大きい。これで何となくイメージできました。現代の基準で見れば、そこそこ大きな船です。管理人が乗ったことのある船内にエレベーターが七つもある豪華客船とは比較になりませんが。

 船内ではどのような部屋割りだったのでしょうか。全権特命大使や副使などの幹部は一等船室を使ったのでしょう。使節団に同行しているアメリカ公使デロングも一等船室でしょう。それに、私費留学の元佐賀藩知事鍋島直大や黒田長知、前田利同などの旧藩士クラスや公家の人たちもやはり一等船室だと思います。私費で参加しているお金持ちですから。30しかない一等船室は直ぐに埋まってしまいそうです。アメリカ号の船内図を見つけることができなかったのですが、当時の他の客船をみると女性用キャビンの区画もあるので、女子留学生たちは女性用コンパートメントの一等船室に5人で入ったようです。すると、前回書いた『彼女らは「便所へ行くにも、必ず二人充て組み合ひ、一人が用を辨ずる間一人はその袴を持つという具合」』というのは誰が見たのか気になるところです。

 太平洋郵船は1848年に米国政府との郵便輸送契約に基づき設立された会社で、1925年まで続きました。1867年、太平洋郵船は、アメリカ合衆国とアジアを結ぶ世界初の定期運行便を開始しました。サンフランシスコ・横浜・香港間に航路を開設し、当時世界最大級の4,000トン前後の外輪船5隻を月1回のペースで定期的に往復させました。

 太平洋郵船は、郵便も運びましたが、貨物や乗客も運びました。特にアジアからの帰りの船にはシンガポールから乗船した中国人移民が多数乗っていました。

 岩倉使節団を乗せたアメリカ号は、1871年12月23日に横浜を発ち、翌1872年1月15日にサンフランシスコに入港します。

 1871年の運行記録を見ると、太平洋を1年間に4往復する航海を行っています。3月24日、6月23日、9月23日、そして岩倉使節団を乗せて12月23日に横浜を出港してサンフランシスコに向かっています。アメリカ号は、概ね3ヶ月ごとのシフトだったようです。

 ところで、この船にはまもなく数奇な運命が訪れます。

 サンフランシスコで岩倉使節団一行を降ろしたアメリカ号は、アジアに向けて出航します。

その後、一旦、サンフランシスコに帰港し、再びサンフランシスコから1872年8月1日出航、8月24日、横浜港に入港しました。その夜11時に船内で火災が発生し、沈没してしまいます。この事故で59名が亡くなっています。進水後わずか3年で、アメリカ号は歴史から消えてしまいました。

注:59名という人数は”The Ships List“によるが、他の資料では19-90人という記載が圧倒的に多い。

太平洋郵船の太平洋航路の外輪船リスト

船          名 竣 工 年 登録トン数 建造造船所名
① コ ロ ラ ド 号 (COLORADO) 1865年 3,728 William H. Webb.
② グ レ ー ト ・ リ パ ブ リ ッ ク 号 (GREAT PEPUBLIC) 1867年 3,881 Henry Steers
③ チ ャ イ ナ 号 (CHINA) 1867年 3,836 William H. Webb.
④ ジ ャ パ ン 号 (JAPAN) 1867年 4,351 Henry Steers
⑤ ア メ リ カ 号 (AMERICA) 1869年 4,454 Henry Steers
⑥ ア ラ ス カ 号 (ALASKA) 1868年 4,011 Henry Steers

 アメリカ号とジャパン号はHenry Steersという同じ造船所で建造されたもので、形がそっくりです。チャイナ号も同じ形をしています。同じ設計で建造された船のようです。

 チャイナ号

 ジャパン号

ちょっと気になるトイレ事情

 帆船では、トイレはどこにあったのでしょうか。

 帆船のトイレは舳先の両舷に設置された2つの箱が使われていました。それに腰掛け、あるいは狙いを定めて用を足します。箱の底は無く、海に直結しています。このように船の舳先にあるため、船乗りたちはトイレのことを”head”と呼んでいました。

 舳先にトイレを置いた理由は二つあります。一つは、一般に帆船は船尾から風を受けて前に進むため、舳先が風下になるからです。トイレが風下の方が良い理由は説明不要でしょう。

 もう一つの理由は、喫水線より上で甲板の近くに空けられた穴なら、舳先から入ってくる波できれいに洗い流してくれるという効果があります。船長だけは船長室に専用のトイレを持っていたようです。(参照:Wikipedia: Head (watercraft)、他)

 ところで、ネットで探してみると、Wikipediaの記述とは違う写真を見つけることができます。それは、船尾から張り出した一角がトイレになっているもの。日本の「ぽっとんトイレ」のように床に穴が空いており、その下は海。

 使節団が乗ったアメリカ号のトイレはどうだったのでしょうか。

 どうやら水洗トイレだったようです。さすがは客船です。トイレはきれいに掃除され清潔だったとメンバーが書き残しています。ただし、三等船室は分かりません。もしかしたら、海賊全盛期の帆船と同じような感じだったかも。三等の客はいつの時代も最低限の扱いを受けます。

 海外旅行をすると困るのがトイレ。日本のように整備されたトイレはどの国にもありません。パリの街を早朝歩くと糞尿の臭いが通りに漂っています。フランス人は自国の言語や文化の普及には熱心ですが、へそから下は文化とは関係ない、あるいは別文化だと思っているようです。

 誰も書かないのですが、岩倉使節団一行が船に乗って最初に驚いたのがトイレだったように思います。

 でも、文明開化で多くの外国文化が採り入れられますが、明治の日本ではトイレの文明開化はありませんでした。やはり、使節団幹部の人たちは、水洗トイレに驚かなかったということでしょうか?

出典

Shiping San Francisco’s Digital Archive “Pacific Mail Steamship Company”

Toilets of the World