和宮が自殺したことで有名な板橋宿:都市伝説の誤りを暴く!

皇女和宮の謎

 今から154年前、1861年12月15日(文久元年11月14日)午後5時頃、和宮一行は中山道の最後の宿場町、板橋宿に到着しました。

 翌日には江戸に入ります。

 この板橋宿は、和宮にまつわる都市伝説で有名な場所で、一度は訪ねてみたいと思っていたのですが、やっと重い腰を上げて行ってきました。

板橋宿とは

 板橋宿は、現在の東京都板橋区本町、および仲宿、板橋1丁目、3丁目あたりにあった中山道の宿場町で、江戸からは最初の宿場町、京都から見れば最後の宿場町でした。

 「板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみしゅく。現在の本町)、仲宿(なかしゅく。現在の仲宿)、平尾宿(ひらおしゅく。下宿〈しもしゅく。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。」(Wikipedia、「板橋宿」)

 板橋宿における和宮の足跡を辿るには、この三宿のことを知る必要があります。

 板橋宿は江戸まで10Km足らずと近いため、ここに宿泊する旅人はあまりいなかったようです。

 和宮一行の場合、前日は桶川宿に宿泊しています。桶川宿から日本橋までは40.8Km。1日で歩ける距離ですが、無理をしなかったということでしょう。実際、板橋宿に到着したのは午後5時ころ。冬の午後5時なので、あたりは真っ暗だったと思います。

 1861年11月22日(文久元年10月20日)に京都を出発した和宮は、24日かけて板橋宿に到着します。

 中山道は江戸日本橋から京都三条大橋まで結ぶ約百三十五里二町(約534㎞)の距離があります。和宮一行は京都桂宮邸から江戸城清水邸までを25日間で旅しました。当時の女連れの平均的な速さである一日、五、六里(20㎞から25㎞)の速度で行列は進んだことになります。

和宮降嫁行程表

 板橋宿に行こうと思ってはいたものの躊躇していた理由は、和宮が宿泊した板橋宿本陣跡がどこにあるのかよく分からなかったためです。ネット上ではいくつかのサイトで紹介されているのですが、サイトによって場所がバラバラ。結局どこにあるのか分からない。

 Google Mapを貼り付けているサイトもあるのですが、誤差が大きすぎて使えない。

 何しろ、板橋宿本陣は既に無く、あるのは跡地に建つ標識だけなので、適当に歩いても見つけるのは至難の業です。
 そこで、ネットで探すのはあきらめ、地図を購入。さらに、区役所から地図をもらうという作戦に切り替えました。

 まずは、板橋区役所に寄って観光地図を貰います。どこの役所も観光には力を入れているので、便利な地図を配布しています。

 地図を片手に、いざ、板橋宿本陣跡へ。

板橋宿地図
 Source: 「観光いたばしガイドブック」

 地図を貰っても方向音痴の管理人は、全く逆方向に歩いて行ったらしく、大きな道に出ました。地図で確認すると、板橋宿の南端まで来ていました。平尾宿のあったあたりです。東光寺の直ぐ傍らしい(地図の①)。そこで、最初に東光寺に行くことにしました。

東光寺

 お寺の脇にある案内板には次のように書かれていました。

東光寺(とうこうじ)

 創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(1491年)に入寂した天誉(てんよ)和尚が開山したといわれています。当初は、船山(ふなやま、現、板橋3-42)あたりにありましたが、延宝七年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次太平洋戦争による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお、山号の円船山は、地名船山(ふなやま)に由来しています。
境内には、昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(1662)の庚申塔と平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩座像、明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の墓などがあります。
平成9年3月  板橋区教育委員会

 

東光寺案内板

 東光寺の中に入ったものの、案内板に書いてある板橋区の有形文化財とはどれだろう。さっぱり分かりません。
たぶん、宇喜多秀家のお墓は下の写真だと思います。墓地内には宇喜多家のお墓がいくつかあります。宇喜多家の菩提寺なのでしょうね。

 宇喜多秀家については、最近テレビでやっているので、知ってはいるのですが、あまり関心が無い。

 青山墓地を何度も徘徊していた管理人にとって、このお寺の墓地は「ちっちゃっ」という感じ。

 東光寺を後にして、旧中山道を北上します。

観明寺と寛文の庚申塔

 次に出てきたのが観明寺というお寺。

観明寺

 入口に何やら由緒正しき石像が見えます。

観明寺庚申塔
       観明寺庚申塔

 格子の隙間から覗いてみても、格子の間隔が狭いため、どのような石像なのかよく見えません。
 そこで画像処理して全体写真を作ってみました。12枚の写真を合成しています。

【観明寺と寛文の庚申塔】

 参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。
平成12年6月 板橋区教育委員会

 

 青面(しょうめん)金剛像とは、この病魔・病鬼を払い除くといわれる神様で、腕が6本あり、脚が4本あるようです。右下に鶏、両脇には小さな童女が見えます。

 観明寺を後にして、さらに北上します。

板橋宿平尾脇本陣豊田家跡地

 次に目指すのは、板橋宿平尾脇本陣豊田家跡地。

 これがとても分かり難い。柱に「平尾宿脇本陣跡 この道50m先」の小さな縦長の看板を見逃し、通り過ぎてしまいました。

 この小路を50mばかり入った先に「平尾宿脇本陣跡」があります。

平尾宿

 脇本陣跡地はマンションになっていました。当時の面影を残すものは何もありません。

平尾宿1

平尾宿3

【板橋宿平尾脇本陣豊田家】

 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。(中略)

 慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍にとらえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。
平成19年3月 板橋区教育委員会

 

仲宿 板橋宿本陣

 旧中山道をさらに北上し、仲宿に入ります。

 目指すは、和宮が宿泊した板橋宿本陣跡です。
実際に行ってみて分かったのですが、Google Mapはピンポイントで正確に表示しています。

 スーパー「ライフ」の南の角、案内板が建っているのは、「ライフ」の敷地ではなく、お隣の飯田家の敷地内です。

 板橋宿の本陣は代々飯田家が務めていました。その跡地に建つ家の表札が飯田家だったのでうれしくなりました。不動産業を営まれているようです。

 案内板には以下のように書かれています。

【板橋宿本陣飯田新左衛門家】
 本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10Km)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
 板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(1704)、当家は飯田家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約1万6000㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三大目新左衛門珎儀(ちんぎ)の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「旗本陣家」に指定されたことが窺えます。
 本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁行ともに12間半(約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことが分かります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。
 本陣の建物は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しましたが、昭和39年(1964)、明治期に建てられた母屋を解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。
平成23年3月  板橋区教育委員会

 

 やっと和宮が宿泊した本陣(跡)を見ることができました。
・・と喜んでいたら、どうも違うらしい。

 和宮は、ここから50mほど離れたところにある飯田家総本家に泊まったらしい。

 ややっこしいのですが、和宮の下向の際には、飯田家本陣ではなく、飯田家総本家が本陣役を務めたのだそうです。区教育委員会の説明書きを読んでみましょう。

【板橋中宿名主飯田家(総本家)跡】
 当家は、飯田家の総本家で、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通でした名主などを務めました。世襲名は宇兵衛。
 飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃の宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が描かれており、元和~寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。当家は御茶屋守としてこれを管理していたとみられ、後に御林40町歩は、当家に下賜されたといわれています。
 江戸時代を通じ、名主と本陣家の両飯田家は、養子縁組を行うなど、その機能を補完しながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営に当たってきました。
 そのような中で、文久三年(1861)の和宮下向に際しては、名主家が本陣役となっています。
 その後も慶応四年(1868)の岩倉具視率いる東山軍の本営となり、明治初期の明治天皇大宮行幸などでも本陣を務めました。
平成27年12月  板橋区教育委員会

 
飯田家総本家03

 右手看板の向こう側の道路から少し引っ込んだところが総本家跡地です。
 左手奥に見えるのが首都高の高架橋です。

飯田家総本家02

飯田家総本家01

 ここで、飯田宿の本陣について整理しておきましょう。看板を見てもイマイチ理解できないので、板橋区の史料を調べました[1]。

 冒頭に書いたように、板橋宿には上宿、仲宿、平尾宿の三つの宿ありました。この三宿にはそれぞれ本陣・脇本陣・問屋・名主役が置かれました。このうち仲宿には、本陣、問屋を務めた『飯田新左衛門家』と、脇本陣、名主役、問屋役を務めた『飯田宇兵衛家』がありました。

 飯田家は、1704年に名主飯田宇兵衛家から飯田新左衛門家が別家し、飯田宇兵衛家(脇本陣・名主)、飯田新左衛門家(本陣)に分かれました。この家督分けは訴訟に発展した末に行われたものです。

 和宮の降嫁の頃は、飯田宇兵衛家は第13代の昌央が当主で、飯田新左衛門家は第6代の忠義が当主を務めていました。

 1861年の和宮の降嫁の際に本陣として指定されたのは、脇本陣飯田宇兵衛家でした。

 当初は、本陣である飯田新左衛門家が和宮の宿所になる予定でしたが、恐らく宿内の見聞の結果、飯田宇兵衛家を本陣とすることが決定されたようです。[1, P.70] 飯田新左衛門家では、1864年に忠義が亡くなり、しばらく当主不在となります。このため、脇本陣であった飯田宇兵衛家が幕末・明治維新で本陣役を務めることになります。

 幕末、慶応4年1月21日に京都を進発した岩倉具定を総督とした東山道先鋒総督軍(東山道軍)は、3月13日午後6時頃板橋宿に着陣します。和宮は侍女の玉島に岩倉具定への書状を托し、江戸侵攻の中止を嘆願しました。そのため、東山道軍は、板橋宿脇本陣の『飯田宇兵衛』宅に総督府本陣を設置して駐屯することになりました。

 このあたりのことを確認せずに、和宮が宿泊したのは本陣飯田新左衛門家と書いてある本もありますが、それは嘘です(板橋区教育委員会刊行の古い資料にもそのような誤りが記載されています)。和宮の足跡巡りで板橋宿を訪れたら、板橋宿脇本陣こそがお目当ての場所であることを知っておきましょう。

 有吉佐和子の都市伝説を信じる人には、ここが「和宮様が首を吊った場所」になります。

板橋宿における和宮にまつわる都市伝説

 皇女和宮は、ここ板橋宿で首を吊って亡くなりました。

 1861年12月15日午後5時過ぎ、板橋宿、仲宿脇本陣、飯田総本家に入った和宮は、その夜、蔵に忍び込み、首を吊ってしまいます。15歳5ヶ月の短い生涯でした。

 下の図が和宮が宿泊した仲宿脇本陣の見取り図です。和宮が首を吊ったとされる蔵はどこにあるのでしょうか。


板橋・仲宿脇本陣見取り図 (飯田侃氏蔵)[/caption]

和宮宿所図_1

 それからが大変です。

 和宮に死なれてしまったスタッフは、急遽、和宮の身代わりを仕立て上げ、翌朝には何事もなかったかのように本陣を出発し、江戸城清水邸に入ります。この身代わりを仕立てたことは、115年後、有吉佐和子が長編小説『和宮様御留』(かずのみやさまおとめ)を発表するまで世間に知られることはありませんでした。

 この話は、飯田家ゆかりの女性が有吉佐和子に話したことから、表舞台に登場します。

 「ふ~っ」。疲れたので、ここまで。

 この話の続きは過去記事に書いていますので、興味のある方はご覧下さい。和宮ファンの管理人としては、このような都市伝説は許せない!

 この都市伝説があるために、和宮がどこに宿泊したのか念入りに調べました。飯田家総本家の見取り図を見ると蔵は東の玄関の近くにあります。翌日には江戸に入るために、厳重な警備が行われていた脇本陣の入口にある蔵の中でどうやったら首を吊ることができるのでしょうか。

皇女和宮の埋葬のナゾに迫る

板橋

 さらに北上すると「板橋」が見えてきました。石神井川に架かる橋で、江戸時代は当然、木橋、板の橋でした。

 案内板には以下のように書かれていました。

【板橋】
 この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
 板橋宿は、南の滝野川村から北の前野村境まで20町9間(約2.2Km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会(えどめいしょえ)」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。(以下、略)
平成12年3月  板橋区教育委員会

 
 橋を脇から見るとこんな感じです。

板橋

 橋を抜けると、交番の脇の広場に火の見櫓のような建物が建っていました。

和宮も逃れることができなかった「縁切榎」の呪い

 さらに進むと、和宮が避けて通ったといういわく付きの「縁切榎」があります。

縁切榎

 和宮と板橋宿という話の中には必ず出てくる「縁切榎」。和宮降嫁の行列は、この「縁切榎」を避けるように新たに造られた迂回路を通って宿に入ります。

 とてもおどろおどろしい場所でした。怖っ!

 案内板を見てみましょう。

【縁切榎(えんきりえのき)】
 江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷(かかえやしき)がありました。その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿名主であった飯田侃家(いいだかんけ)の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿に至る約1キロメートルの道のりでした。
 なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
平成18年3月  板橋区教育委員会

 

 案内板には、さらっと書いてありますが、現実は違います。ここは、人間の業の強さを感じさせる憎しみや嫉妬、恨みといった感情が渦巻いている異界の入口でした。

 和宮のその後の人生を知れば、この「縁切榎」の祟りを受けたのは間違いありません。

 家茂との結婚が1862年3月11日。家茂が大阪城で亡くなるのは1866年8月29日。わずか4年5ヶ月あまりの結婚生活でした。この間、家茂は京都と江戸を何度も行き来しているので、離ればなれの二人。やはり、「縁切榎」の祟りのようです。

 和宮の行列は、「縁切榎」の祟りを避けるためにはどうすべきだったのか?

 やはり、中山道ではなく東海道にすべきだった!

 「縁切榎」の脇には小さな祠があり、たくさんの絵馬が奉納されています。

 それはよいのですが、問題は、絵馬に書かれている内容です。

 誰々がこの世から消えてしまえといった願い事や不倫の相手を呪う”呪いの絵馬”。そんな絵馬がたくさん奉納されています。しかも、絵馬には全て実名が記載され、奉納した人も実名を書いています。イニシャルやニックネームではなく、氏名がしっかり書かれています。書いた人の本気度が伝わってきます。

 とても怖いものを見てしまいました。見なければよかった。

 やはりここは異界です。こんなところに長くいると碌なことはない。さっさと退散しました。

 以上で板橋宿探検の旅は終了です。
 管理人の目的は、和宮の足跡を辿ることだったので、板橋宿の他の名所は割愛しています。

 でも、この旅で、12000歩も歩いてしまいました。他の場所を回る余裕はありません。

 ちなみに、この記事を読んで「縁切榎」に行ってみたいと思った人がいたら、やめておいた方がよいでしょう。不幸が不幸を呼ぶ「負のスパイラル」に陥ってしまいます。

 今回、板橋宿における和宮の宿泊場所を探す旅になりました。板橋区教育委員会の古い資料は間違いが記載されており、これを信じた人も多いようです。しかし、最新の同委員会資料を読むと正しい情報を入手できます。

 「和宮が自殺したことで有名な板橋宿:都市伝説の誤りを暴く!」という記事が、板橋区教育委員会資料の誤りを暴く」という内容になってしまいました(笑)。

 和宮がどこに宿泊したのかなど、通常であればどうでもよいことです。しかし、有吉佐和子が主張し、生涯、その説を曲げなかった「和宮、板橋宿で首つり自殺」説というトンでもない説があるために、今回、調べてみました。

 有吉佐和子の説は、当然、歴史家から猛反発を受けます。しかし、歴史家の誰も、有吉佐和子を納得させるような反論を結局できなかった(笑)。

 問題となるのは、「自殺したとされる蔵の位置」です。和宮の寝所として割り当てられた部屋の直ぐ傍に蔵があるのなら、百歩譲って、自殺説も否定できない、とも考えられるのですが、蔵の位置が玄関の近くでは、この自殺説は100%あり得ないと断言できます。その理由は、説明不要ですよね。

 本当は飯田家ではなく、別の家(高田家)に泊まった・・・などの説は、いい加減にしろよ、というレベルですね。

 この記事は2016年7月27日にアップしたものですが、文献調査、加筆の上、再度アップしました。

参考文献:

1. 「板橋宿の歴史と史料 -宿場の町並と文化財-」、文化財シリーズ第98集、板橋区教育委員会、2017
2. 「いたばしの史跡探訪」、文化財シリーズ第98集、板橋区教育委員会、1996、p.36
 この文献では、和宮が宿泊したのは飯田新左衛門家としていますが、これは誤りです。同じ教育委員会の資料でも、執筆者により内容が異なるのでは困ります。
3. 「いたばし風土記」、板橋区教育委員会、1987
 この文献も間違った記述がされています。