和宮が晩年に住んでいた麻布のお屋敷(跡地)に行ってきました

皇女和宮の謎

 以前、『皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?』という記事を書きました。

 和宮の足跡を訪ねている方も多いのではないでしょうか。そんな方に役立つ情報です。

 前回の記事では、机上のお話しでしたが、今日は、実際の現地のお話しです。先日、現地に行ってきましたので、現状を詳細にご紹介できます。やはり、臨場感が違いますね。

 1874年(明治7年)7月8日、京都から戻った和宮は、一旦、降嫁の際に宿泊した清水邸(現、武道館)に入り、その後、明治政府が用意した麻布のお屋敷に移ります。

 ここでの和宮の生活は、隠遁生活であったようで、一歩も外へは出なかったそうです。

 1875(明治8)年1月31日に静寛院宮邸を明治天皇と皇后陛下が訪れています。

午前11時頃、皇后陛下が到着。午後1時頃天皇陛下が到着され、夕方6時頃まで滞在されました。

 1876(明治9)年5月5日、静寛院宮邸に天皇皇后両陛下が再び行幸します。

正午過ぎに到着し、能楽天覧、饗宴が行われたそうです。同行したのは岩倉右大臣など。

 和宮が京都にいた時の日記(「静寬院宮御日記」)を読むと、例えば、明治3年1月11日に「后宮様よりお年玉を給わる」と書かれています。また、1月22日にも「后宮様より御便り、鮭給わる」とあり、頻繁に手紙のやりとりが行われていたようで、皇后は和宮にかなり気を遣っていた感じです。皇后が東京に移るのは明治5年4月なので、当時はご近所に住んでいたということです。

 当時、麻布の和宮邸には30人くらいのお付きの女官たちがいたようです。

 お付きの人に傅かれてさぞや楽しい隠遁生活・・・とは思いません。使用人を使うということは、実際には大変なこと。毎日発生するいろんなトラブルの処理をしていたのでしょう。

 この麻布のお屋敷があったのは、当時の住所で『麻布市兵衛町一丁目十一番地』です。

 敷地面積は3000坪。高台のひな壇で日当たり良好な場所にあります。

 下の地図の南東方向に「金地院」が見えます。ここは八戸南部藩の菩提寺です。そう、和宮のお屋敷は、旧八戸南部藩上屋敷を購入したものですね。そして、金地院の南隣りには、現在、東京タワーがそびえています。

「和宮邸:明治東京全図 1876(明治9)年
Source: 「明治東京全図 1876(明治9)年」

 現在の住所は、『東京都港区六本木1丁目9番1号』のあたりです。地下鉄の最寄り駅は都営南北線の「六本木一丁目」駅で、駅から徒歩5分程度です。

 旧和宮邸の現在の土地にはビルが建っていると思ったのですが、実際には公園のようになっています。

旧和宮邸を歩く

 旧和宮邸まで行ってきましたので、写真でご案内します。

 道路は当時とほとんど変わらないのですが、一部変更になっています。

 当時は、敷地の西側と南側が道路に面していましたが、現在では下の図のようになっています。

和宮邸位置図1877年

 当時の地図を元に、現在の状況を見ていきます。

 下の地図の番号に付いている矢印が写真の撮影方向を示しています。この地図がないと、写真で東とか南とか言われてもさっぱり分かりません。この地図で位置を確認しながら写真をご覧下さい。

和宮邸地図

【写真①】

 「六本木一丁目」駅から歩くと、「ラフォーレミュージアム六本木」の大きなビルが見えてきます。

 このビルの前で原発反対のデモをしている人たちを見かけました。調べてみると、原子力規制委員会・原子力規制庁がビルの中に入っているようです。和宮と原子力。何とも不釣り合い。

 このビルは旧和宮邸の西側の境辺りに建っています。つまり、写真の正面に見えるビルの右側の敷地が旧和宮邸です。

【写真②】

 旧和宮邸に接する道路で、東側を望んだ写真です。道路は下り傾斜になっています。

【写真③】

 道路脇には、マンションのような建物が建っています。会社の施設ではないかと思います。カーテンが皆同じで、生活感がないので、通常のマンションではないようです。

【写真④】

 敷地南側の境を東方向に望んだ写真です。この写真の少し右手に東京タワーが見えます。

 道は少し下り坂になっています。道路の右側はかなりの落差のある崖のようになっています。道路の左側が旧和宮邸です。道路より少し高い位置にあります。

【写真⑤】

 南側の道路から北側を望んだ写真です。

 石段があり、そこを昇ると公園になっています。

 ここに看板があります。看板には下のように書かれています。何とも味気ない文章です。和宮のことは一言も書かれていません。港区の職員のやる気のなさがひしひしと伝わってきます。まあ、有名になっても困るのですが。



 『SITE PLAN  この広場及び道路は建築基準法に基づく総合設計制度により設けられた公開空地で歩行者が日常自由に通行又は利用できるものです。平成5年10月、東京都都市計画局』

 旧和宮邸が公園のようになっているのは、ここが歴史的に貴重な史跡だと意識したわけではなく、単なる法律で空き地が必要だったということのようです。高い金をかけてこんなつまらない看板を立てている。東京都って・・・、アホですね。港区も教育委員会があるのにおバカさんばかりのようです。都の職員は、ここがどんな由来の土地なのか、何も知らないということでしょうか。

【写真⑥】

 旧和宮邸の東側の境付近です。石畳のきれいなスロープになっています。


【写真⑦】

 旧和宮邸の北側から南側を望んだ写真です。

【写真⑧】

 旧和宮邸の北側の境界近くから東南を望んだ写真です。ビルの谷間から東京タワーが見えます。

【写真⑨】

 旧和宮邸敷地北側の境付近にある御組坂(おくみざか)。

【マルA】

 いよいよ旧和宮邸の敷地内に入ります。

 敷地内はまさに公園といった感じで、快適な空間が広がっています。

 高画質パノラマ写真をアップします。写真をクリックすると拡大表示できます。

 この場所はとても快適な空間でした。石でできたベンチに座り、往時の和宮様を偲ぶという贅沢な時間を味わうことができます。



 皇女和宮は、1874年(明治7年)7月8日にこの屋敷に入り、1877年(明治10年)8月7日、主治医に湯治を勧められ、療養のため箱根の塔ノ沢温泉へ向け、この屋敷を後にします。

 そして、ちょうど一ヶ月後の9月6日午後2時10分頃、和宮は再びこのお屋敷に戻ってきます。遺骸となって。

  9月13日午前11時、和宮の亡骸は麻布のお屋敷を後にし、増上寺に向かいます。

 以降、和宮がこの屋敷に戻ってくることはありませんでした。

 後には、主人のいない館がひっそりと佇むばかりでした。

 現地に行ってみて感じたことは、増上寺まで近いということでした。

 和宮は家茂のお墓に何回お参りしたのでしょうか。ちょっと気になる。

 帰りは金地院に寄って、その後、全面改修中で中に入ることができない東京プリンスホテルの脇を通り、浜松町まで歩いて帰宅しました。本当は、和宮宝塔があった場所を確認したかったのですが、ホテル全体が工事用シートで覆われていて、入ることができません。

金地院