岩倉使節団を乗せたアメリカ号内での女子留学生に対するセクハラ事件

岩倉使節団の謎

 1871年12月23日、横浜港から一路サンフランシスコに向けて出港した岩倉使節団一行総勢107名を乗せた外輪船アメリカ号。その船内でちょっとしたセクハラ事件が発生します。

 岩倉使節団は46名で構成されていました。それに大使・副使の随従者18名、留学生43名の計107名が乗船していました。留学生の中には、5人の幼い女の子たちがいました。

 吉益亮子(17歳)、上田梯子(のちの桂川悌子、16歳)、山川捨松(のちの大山捨松、11歳)、永井繁子(のちの瓜生繁子、9歳)、津田梅子(6歳)の5名の少女たちです。(年齢は横浜出港時点の満年齢で算出)

 このセクハラ事件は船内での模擬裁判に発展します。事件とはどのようなものだったのでしょうか。

 船の中の女性と言えば、アメリカ公使チャールズ・デロング(Charles E. DeLong、1832-1876)の妻エリダ(Elida Vineyard)がいます。彼女は1844年生まれなので、この時27歳。二人の子供がいたようです。女子留学生と一緒に写るエリダの写真がありますが、27歳には見えない体格の良さで、どうもセクハラとは無縁な感じがします(個人の感想です)。(この部分の出典 ”Spoilsmen in a “Flowery Fairyland”: The Development of the U.S. Legation in Japan, 1859-1906 (American Diplomatic History)” Jack L. Hammersmith,1998)

留学生とデロング夫人エリダ

 田中彰氏の書籍「岩倉使節団『米欧回覧実記』」から事件の概要を見ていきましょう。

 一行は長い船旅に退屈し始めます。12月23日に横浜を出航しサンフランシスコに到着したのが翌1872年1月15日のこと。途中どこにも寄港はしていません。暦のうえでは24日間の船旅ですが、日付変更線を超えているので、船に乗っている人たちにとっては25日間の旅になります。

 事件が起きた日付けは分かりませんが、この中間あたりではないかと思います。

 彼女らは「便所へ行くにも、必ず二人充て組み合ひ、一人が用を辨ずる間一人はその袴を持つという具合」だったそうです。「用を辨ずる間」とは「用を足す間」という意味でしょう。現代でもよく見かける光景でしょう。しかし、この光景を誰が覗いていたのかは分かりませんが、かなり詳しい記述です。

 この女子留学生に二等書記官の長野桂次郎がたわむれた、というのが「事件」です(注:これはガセネタです。詳しくは最後までお読み下さい)。

 どのように「たわむれた」のか、誰が被害者だったのかは不明です。まさに、「たわむれた」程度で、長野にしてみれば少しからかっただけ、という軽い気持ちだったのでしょう。なにしろ狭い船内です。

 ところが、彼女たちは副使大久保利通にこれを訴えたから、ことは大きくなりました。

 長野桂次郎は、万延元年遣米使節団(1860年)に16歳で通訳見習いとして参加しています。この時は、立石斧次郎と名乗っていました。彼は通訳・小花和度正の子で、叔父のオランダ通詞立石得十郎の養子となります。遣米使節団のメンバーである得十郎に同行して渡米しました。当時のサムライが口下手で恥ずかしがり屋で妙なプライドだけが高かったのに対し、陽気で誰とでもうまくコミュニケーションができる斧次郎はアメリカでアイドル並みの人気を博し、数千通のファンレターをもらったり、彼のことを歌った「トミー・ポルカ(Tommy Polka)」がヒットするなどしました。

 Youtube: “Tommy Polka”

 長野は岩倉使節団に二等書記官としての参加で、特命全権大使、副使、一等書記官に次ぐ地位ですから、旧幕臣としては高く評価されていたことがうかがえます。「トミー」の愛称でアメリカで親しまれた少年立石斧次郎(長野のこと)もこの時28歳になっています。長野は、持ち前の陽気な性格から、酔った勢いで幼い女子留学生をからかったのでしょう。詳細は不明です。

 ところが、彼女たちは長野の行為を笑って受け流すことはできなかったのです。5人の女子留学生は皆、旧幕臣か賊軍の汚名を着せられた藩士の娘たちでした。10年間もの長期留学という条件を承諾しての参加は家名を復権させるという彼女たち、およびその家族たちの願いでもありました。彼女たちから見たら、旧幕臣で渡米経験もある、そして、新政府に二等書記官として厚遇されている長野の行為だからこそ許せなかったのでしょう。たとえば、会津藩の家老の娘で会津戦争後、下北半島最北端の不毛の地斗南藩で極貧の生活を送っていた山川捨末などは泣き寝入りする気持ちはさらさらなかったと思います。

 彼女たちは、それを大久保に訴えました。なぜ、大久保だったのでしょうか。副使は大久保だけではありません。木戸孝允も伊藤博文も山口尚芳もいます。しかし、このメンバーをみれば、このような事案を真摯に聞いてくれるのは大久保しかいないのが分かります。

 大久保にとって、こんなめんどくさいことはない。国家の体系を案ずる自分がなんでこんな連中のトラブルに巻き込まれるのか、そんな気持ちだったでしょう。とうぜん、穏便に済まそうとします。しかし、これが「模擬裁判事件」へと発展していくことになります。

 この訴えに対する処置は、伊藤博文に一任されます。そこで、一等書記官の福地源一郎らが主唱して模擬裁判を開くということになります。この福地も旧幕臣で、海外経験者。1861年の第1回遣欧使節団に定役並通詞として参加しています。のちに東京日日新聞社社長になる人物です。

 長野より2歳年上の福地は、長野の行動や言動に危うさを感じていたのではないでしょうか。船内では、海外経験者の書記官が未経験者の理事官を愚弄するという状態が日常化しており、長野に対する他のメンバーの不信感をひしひしと感じていたのでしょう。

 実は、福地は5人の保護、監視役として彼女らの隣室に部屋を取っていました。福地とエリダが女子留学生たちの面倒を全面的に見ました。梅子の父津田仙弥は福地の家に住み込みで英語を学んでいたことがあり、また、上田悌子の父親上田畯(外務中録)と吉益亮子の父親益田正雄(外務大録)も外務省職員で、外務少丞である福地とは知り合いでした。以上のような理由から、福地の取った行動が何となく理解できるような気がします。出航3日目に、船酔いのため持ち込んだお菓子ばかりを食べている少女たちから、福地は、身体に良くないとお菓子をすべて採り上げ海に捨ててしまったので、少女たちからは嫌われていたそうです。
(「高原千尋の暗中模索」を一部参照しました。)

 模擬裁判の裁判官には伊藤と理事官の山田顕義(あきよし)に決まり、弁護士役や書記(福地)も割り当てられます。以下、岩倉使節団『米欧回覧実記』より引用します。

 「保守的な理事官・司法大輔佐々木高行は新しがり屋の伊藤らのやり方が気に入らなかった。彼は猛反対した。暇つぶしの架空の裁判ならともかく、実際におこった問題で裁判沙汰にするのは、双方の恥辱のみならず使節団自体の恥になるのではないか、と。しかし、欧米ではこうしたことはよくやるのだ、ということで、彼の反対論はおしきられた。 不満を述べる佐々木に大久保は、「ことはもはや始まったのだから、この度は致し方ない。今後のことはとくと話しておく」と答えたという。」
 岩倉使節団『米欧回覧実記』田中彰、岩波書店、1994、pp.4-6

 この裁判の結果がどのようになったのかは分かりません。そして、被害者が誰だったのかも分からずじまいです。たぶん、5人の女子留学生の中で最年長の吉益亮子(17歳)か上田梯子(16歳)でしょう。残りの三人はセクハラというにはあまりにも幼すぎる。

 彼女たちが、もし大久保ではなく、最初から伊藤に訴えていたら別の展開になったような気がします。寡黙で一人で考えるタイプの大久保と違い、伊藤はあちこちの船室を訪ね団員との会話を楽しんでいたようです。大久保の目に見えないことも海外経験のある伊藤の目には見えていました。

 大久保から伊藤に丸投げされた形になったこの事案の処理について、伊藤の関心は、長旅で退屈しきっている団員の退屈しのぎという短絡的なものではなく、船室を訪れてわかった、内向きなわだかまりから脱却できないでいる団員たちに欧米式の模擬裁判を通じて欧米人の考え方を示そうとしたというのが本音のような気がします。

 知っている人にとっては当たり前のことが、それを知らない人にとっては不安の種になります。問題となるのは、分からないから同じところをぐるぐる回って考えが前に進まないこと。船内には渡航経験者が数名いますがほとんどが旧幕臣たち。国の将来を本気で考えている者はいなかったでしょう。

 ところで、もし、彼女たちが直接伊藤に相談していたら、伊藤は彼女たち自身の名誉を優先的に考えたでしょう。模擬裁判などに発展することはなかったように思います。

 今回は、岩倉使節団渡米の最中に起こったセクハラ事件と模擬裁判についてまとめてみました。

 明治が始まってまだ4年。残された資料を分析し、当時の人たちの行動や考え方を推測するのは楽しくもあります。

 岩倉使節団を乗せたアメリカ号の船内ではさまざまな珍事が起こっていたと思われますが、その記録は限定的です。しかし、当時の時代背景や他の関連情報に基づき、ある程度は推測できます。本記事はその手法に基づき書いています。残された既存資料の記載内容を踏み外さず、当時の状況を再現する。今日は、そんな記事にしてみました。

 女子留学生たちは、服装を動きやすい洋服に着替えたいと上層部に訴えましたが認められず、船中では着物を着用することとなります。上述したように、袴をはいていたことが分かりました。トイレの時は大変そうです。スカートなどはかれたら、またセクハラ事件が発生するという懸念が上層部にあったのでしょう。男たちには、見たことのないスカートの中身がやはり気になります。いつの時代でも同じ。

 そもそも、彼女たちはパンティを持っていたのでしょうか? また、謎が深まります・・・・。

セクハラ事件の真相

 どのようなセクハラ事件だったのか、記録がないので分かりません。しかし、推測することはできます。(追記で犯人を特定しています)

 上述した「「便所へ行くにも、・・・・」の記述は、一行の記録係だった全権特命大使使節秘書、久米邦武の「久米博士九十回顧録、下巻」に記載されているものです。久米は使節団報告書『特命全権大使米欧回覧実記』を残していますが、彼の報告書の特徴は、肝心なことは何も書かれていないということです。

 その久米が晩年に残したこの記述は、そのものズバリを指しているように思います。
 つまり、この記述の内容が長野によって行われたことで裁判に至ったのではないでしょうか。

 この記述を見て、「それは誰が見ていたの?」ということが管理人の疑問でした。

 二等書記官である長野は、彼女たちと同じ一等船室。船には女性用宿泊区画があり、通常はこのようなシーンを見ることはできないと思います。男女一緒の共同便所ではないのです。それを見てしまったから、長野が訴えられた。
 
 これが事件の真相のように思います。

セクハラ事件の犯人が分かった!

 この事件の真相は、次のようなものでした。

 「少女たちの明治維新 日本で最初の女子留学生たち」岩崎京子、PHP研究所、1983、に犯人の名前が記載されていました。やはり、犯人は長野でした。でも、別の長野でした(汗)。そして被害者はやはり最年長の吉益亮子でした。まあ、他はガキンチョなので。

 「ある日、事件がおこった。随行のひとり、このさい名をいわせてもらうと、司法権少判事の長野文炳(ながの ぶんぺい:大阪府士族、18歳)が吉益亮子のそでをひっぱり、たわむれた。おとなしい亮子は、あいてにくってかかるなんてできない。部屋にかけこんで泣きだした。びっくりしたみんなはなにがおこったのかときいたけれど、亮子はくやしそうに身をもむだけ。いっしょにトイレにいった繁子も、はじめは亮子の気もちを思ってか、いわなかったが、あまりみんなが心配するので説明した。「まあ、ほっておくわけにはいかないわ。」ほこり高い梯子がおこりだした。」前掲書pp.63-64

 この記述でも、「たわむれた」内容が分からないのですが、おっとり屋の亮子が泣き出したくらいなので、単に袖を引っ張られただけではないことが分かります。長野が亮子の袖や袴を引っ張った場所がトイレで、彼女が用を足している最中だったということでしょう。長野文炳は1854年生まれ。亮子と同い年の17歳です。今風に言えば、思春期の高校生がトイレで戯れたという感じでしょうか。

 なお、松邨賀太著「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」では、この事件について次のように紹介しています。
  
「その彼(長野)が、岩倉使節団にも通訳として乗船していたが、何かと梅子らにチョッカイを出すので副使大久保に訴えた。同じく伊藤に相談すると、伊藤は外務少丞の福地源一郎に善処を求めた。その結果、船内にて模擬裁判をやらせたという。なんでも学ぼうとする明治の精神が船中にも現れていたのである。」
「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」松邨賀太、2004、p.29

 「梅子ら」と書かれていますが、根拠はないと思います。著者はとても漠然とした書き方をする方のようです。

追記

 「長野」違いという恐ろしいミスを犯してしまいました。お恥ずかしい。これだから、歴史書はあてにならない。
 犯人は『長野文炳』です。

 そして、もう一人の長野、長野桂次郎のひ孫にあたるのがフリーアナウンサーの長野智子です。

 船内裁判の被告長野文炳は、後に大審院判事になります。被害者の亮子は、生涯独身でした。