『卑弥呼の日食』の謎を追う

古代の謎・歴史ヒストリー

はじめに

 今日は、『卑弥呼の日食』について書きたいと思います。

 『卑弥呼の日食』。なかなか素敵な響きです。何のことなのでしょうか。先ずは、このあたりから紐解いていきましょう。

 『卑弥呼の日食』のことを井沢元彦氏の『逆説の日本史1 古代黎明編』(初版の発売日は1993/9/3)で知った方に、その情報は間違っているということを最初にお伝えしておきます。この本は、かなりの部数が発売されているようなのですが、・・・。

 『卑弥呼の日食』について、ネットで調べると、どうも中途半端な記事しかないような気がします。孫引きの引用ばかりでは、主張したいことが伝わりません。このサイトへの訪問者の関心は、結局、本当なの? という1点に尽きると思います。

 そうであるのなら、答えは簡単です。それは、現代科学では「分からない」。これが結論です。

卑弥呼の日食

『卑弥呼の日食』とは

 皆既日食が起きる年になると、世界中で大きな話題になります。どこで起きるのか、いつ起きるのか、何分続くのか、など、高い関心を呼ぶようです。


Ⓒ なんでも保管庫

 『卑弥呼の日食』について、初めて書籍に著したのが元東京大学東京天文台教授で天文学者の斉藤国治氏(1913-2003)です。彼の著書『古天文学 パソコンによる計算と演習』(恒星社刊1989/3)、『天文学への道』(原書房刊 1990.5)で『卑弥呼の日食』のことが述べられています。

 斉藤国治氏の1990年刊行の書籍『天文学への道』に飛びついたのが井沢元彦氏で、同書の183ページに書かれてある『表11-1 B.C.664以降に日本を横断した皆既日食」に基づき、「・・一世紀から、邪馬台国の時代までに、日本列島上で観測できた皆既日食はたったの二回しかない。紀元158年7月13日、紀元248年9月5日 この二回だけである」2) p.261と、自信たっぷりに他人の研究成果を使って述べていますが、これって間違っています。実際には、西暦247年3月24日にも起きています。

 『天文学への道』は、少し書きすぎたきらいがあり、確かにこの本を読むと、斉藤国治氏の提唱する「古天文学」は、過去の日食の発生をその日付のみならず、食の状況を “分” 単位で説明できる・・・ように思えます。この本では、誤差(ΔT)のことにはまったく触れていません。

 井沢氏は、この本を参考に、シャーマンであった卑弥呼は、突然に邪馬台国を襲った天地晦冥(てんちかいめい)の異変(皆既日食)に遭遇し、彼女の呪術者としての魔力がなくなったものと部族民から判断されて、殺害されてしまった、という説を唱えます。

 この説に対し、出典に挙げられた『天文学への道』の著者 斉藤国治氏は、困ったことになったと思われたのではないでしょうか。

 斉藤国治氏は、井沢氏の『逆説の日本史』(1993)の2年後、1995年刊行の『宇宙からのメッセージ 歴史の中の天文こぼれ話』の「第1章 邪馬台国・卑弥呼の日食」の中で、『天文学への道』の当該部分を書き直した形で、いくつかのデータを修正すると共に、誤差についても明記され、『(ここでちょっと注意をうながしておきたい。・・・)』と注意を促されています。4) p.9

 注意喚起の要点は、以下の4点です。

  1. コンピュータ・グラフィックスで日食が描画されると、それが絶対正確な結果だと即断してしまう傾向が一般にあること
  2. 日食の予報計算は十分精密な結果を保証するといっても、それは現代の日食についていえることで、1000年以上前の時代の日食についてはそうはいかない
  3. そのころの月の運動の不正やその後の地球の自転速度の減衰についての知識がまだ十分ではないため、研究者のあいだで計算に使う天文要素の一致した値が決められていない
  4. したがって、発表者によってその計算結果にいくらかの相違が見られる。

 斉藤国治氏は、世界各地に残る古い記録と、天文計算の結果を突き合わせ、古代にあったさまざまな伝承が、実際に起こった天文現象と深い関わりがあることを明らかにしました。

 その一連の研究の中で、「アマテラスの岩戸隠れ」の伝承が皆既日食のことだと日本人の意識に定着していることから、その日食について調べる過程で、3世紀、邪馬台国の卑弥呼の時代に『皆既日食』があり、卑弥呼が亡くなったとされる西暦248年、まさにその年に、日本で皆既日食が起こっていたことを発見します。そして、それが、どのように見えたのかを、計算結果に基づき明らかにしました。

 斉藤国治氏のその時点での天文解析結果では、紀元1世紀から3世紀の間でみると、皆既日食は、158年7月13日と、248年9月5日の2回しかなかったことが分かり、248年の日食が卑弥呼が亡くなったとされる年であることに着目されたようです。

 この本を読んだ井沢元彦氏が、この情報を根拠に、霊力が衰えた卑弥呼が殺害されたという説を唱えました。しかし、これは根底から覆されることになります。日本で観測できる皆既日食は、前年の247年にも発生していたのです。

247年と248年に発生した皆既日食とは


   Photo: Ⓒ なんでも保管庫

 ここから、かなり専門的な話になるので、斉藤国治氏の書籍に基づいて記載することにします。

 皆既日食は、太陽が月により完全に隠れる現象で、統計的には、18年間に10回ほどの頻度で地球上のどこかでおきています。それほど希有な現象ではありません。しかし、観測者を地球上の一点に固定すると、その上を皆既帯が通過する確率は平均して340年間に一回の割となります。 3) p.182

 つまり、ある地点を固定したとき、そこで皆既日食が観測されたという記録があるとしたら、過去の皆既日食発生日時の計算結果からそれが起きた年月日を特定できることになります。逆に、いつの皆既日食だったのか、その年が記録に残っている場合、観測された”場所”を特定することができます。

 魏志倭人伝に邪馬台国についての記述がある年代である西暦248年に皆既日食がおきました。この皆既日食を卑弥呼の死と結びつけ、持論を展開したのが井沢氏です。その真偽はともかくとして、井沢氏の主張の根拠となる本を執筆した古天文学の専門家である斉藤国治氏がどのように考えたのか、その内容を見ていきましょう。

 確かに、管理人は皆既日食は見たことがありません。調べてみると、最近発生した皆既日食は、2009年7月22日にトカラ列島などで見られたものが今世紀最大の皆既日食のようです。この時期、管理人は外国で暮らしていたので、日本の状況は分かりません。

 その前は、1987年9月23日に沖縄で金環日食が観測されました。さらに前は、1963年7月21日に北海道北東部で日の出とともに皆既日食が観測されています。やはり、皆既日食は、本州では滅多に観測されない天文現象のようです。

 ところが、西暦247年3月24日の日没時と翌248年9月5日の日の出時、まさに、卑弥呼の死の前後に皆既日食が2年続けてあったのです。

 前述したように、ある研究によると、地球上の同じ位置で皆既日食が見られる確率は、三百数十年に一度と言われているそうです。1) 日本で皆既日食が起きた、ということと、それを当時の人が見たということとは、同義ではないようです。

 ひとつに、皆既日食発生時の天候の問題があります。

 当日の空が曇っていれば、当然、天文ショーは見ることができません。曇天の場合など、日中でも、辺りは夕闇に包まれているような明るさになります。実際、先日も、午後二時にもかかわらず、夕暮れのような暗さになり、少し驚きました。でも、その程度のことは、年に数回起こります。

 皆既日食を見たことのある人はあまりいないと思いますが、実際にはどのような状況になるのでしょうか。外国で起きた皆既日食をテレビで見ていても本当のところはよく分からない。テレビの番組づくりが、そのような視点で作られていないからでしょう。

 斉藤氏は、国内外で10回以上の日食観測(皆既食8回、金環食2回)を経験されたそうです。その時の状況は、「日食が進むにつれてあたりには冷気が漂ってきて、周囲は夜でもなく黄昏色に暗さを増し、空を飛ぶ鳥はねぐらへ急ぎ、雄鳥はときを告げる。」4), p.7 一般に考えられているほど真っ暗になる分けではないようです。ただ、「アマテラスがほそ目に岩戸を開けると一閃の光が外の闇に流れ出る場面は、皆既日食の終わりに月の縁から日光がサッとほとばしり出る一瞬、いわゆるダイヤモンド・リングの出現を実によく表現している」4),p.7 そうです。

 二つ目の疑問は、邪馬台国という特定の場所で、247年と248年のふたつの日食が見られたのかということ。

 これは、皆既帯と呼ばれる皆既日食が観測される範囲に邪馬台国が位置していたのかで決まります。ところが、この二つの日食の皆既帯は、日本列島の全く違った場所を通っています。二つの帯が交差することもありません。つまり、247年と248年の皆既日食を「邪馬台国」など同じ場所で『見た』人はいなかったのです。どちらか一方、あるいは、両方が部分日食であったと考えられます。

 三つ目の疑問は、この日食がどう見えたのかということです。

 斉藤氏は、『宇宙からのメッセージ 歴史の中の天文こぼれ話』(1995)の中で、紀元後から600年間に本州・四国・九州を通った25の中心食の例を挙げ、次のように説明しています。

 この25例の皆既日食に「岩戸日食」が含まれていると仮定して、魏志倭人伝に登場する邪馬台国の年代に着目します。

 魏志倭人伝によれば、景初2年(238)に卑弥呼は、大夫・難升米を半島の帯方郡に遣わし、郡王の斡旋を得て魏都・洛陽に詣で、魏・明帝に拝謁し男女生口や班布を献上しました。それから9年後の景初8年の記述には、卑弥呼が南に国境を接する狗奴国と対立を起こし、互いに攻撃し合っている。卑弥呼は使を帯方郡に使わして援助を望んだが、帯方郡主からは激励をうけるにとどまった。そのあと突然に、「卑弥呼以て死す」という記事になる。4),pp.14-15参照

 斉藤氏は、247年と248年の日食に着目し、この二つの日食を詳細に調べています。まず、米国ペンシルバニアのZephyr Services社のソフト「Total Eclipse」を使って描画した二つの日食の日食帯(日入帯食、日出帯食)を示し、皆既帯の位置と部分食帯の範囲を示しています。皆既帯の位置は、後で説明するNASAの計算結果とほぼ同じに見えます。

 次に、邪馬台国の位置が現在のところ定説がないことから、とりあえずとして九州福岡市(東経130.4度、北緯33.6度)、奈良飛鳥京(東経135.8度、北緯34.5度)の2点で作業を進めます。

 日食計算の方法は、斉藤氏の著書『古天文学―パソコンによる計算と演習』6) によると書かれています。この本は入手できなかったので、分かりません(ΔTの選定方法を知りたかったのですが)。

 247年3月24日の日食は、夕暮れに起こりました。中心線は、アフリカ西方の太平洋上に発し、夕方に九州西方海上に近づき日の入りとともに終わります。福岡市では17時14分に欠け始め、18時13分に食の最大(食甚)を迎え、その時の太陽の直径が月によって隠された比率、食分は1.03で、皆既となっています。その後、欠けたまま日没を迎えます。奈良飛鳥京では、欠け始めが17時37分で、食甚を迎える前に日没となります。日没時は18時13分で、食分は0.63でした。

 248年9月5日の日食は、早朝に起こりました。中心線は、朝鮮半島の海上あたりに発し、能登半島・奥羽地方を横断して太平洋に抜けました。福岡市では、5時35分、食分0.85の欠けた状態の日の出を迎え、5時42分に食甚(食分0.93)となり、6時45分に復円となります。奈良飛鳥京では、5時34分、食分0.44の欠けた状態の日の出を迎え、6時04分に食甚(食分0.95)となり、7時10分に復円となります。

 記載した時刻はすべて、福岡市、奈良飛鳥京、それぞれの地域の平均太陽時表示です。日本標準時との差は、福岡市で7分22秒マイナス、奈良飛鳥京で1分17秒プラスだと思います。


 Source: NASA Eclipse Web Siteデータより作成

 食分1.0以上が皆既日食です。したがって、247年、248年のいずれの年でも、皆既帯が通らない福岡、奈良のいずれの土地でも、皆既日食は起こっていません。そんなことは皆既帯が通る場所を見れば明らかなのですが。ところが、斉藤氏の計算では、247年の福岡で食分1.03の皆既を迎えています。これが結局は、「ΔT」の問題でもあるのです。

 斉藤氏は、「以上の検証によると、AD247年の日食は福岡市で見ると日入り時に皆既食となっているから、古天文学的には一応これを岩戸日食として推薦したいことになる。」4),P.21 と述べています。ところが、続く文章で、「しかし、かならずしも即断はできない。前言したごとく、計算者によって食の状況は微妙な違いを出すものである。ことに本食影が地球表面をかすめるような「日出帯食」・「日入帯食」の場合(今回がそれである)には、地球自転の微妙なちがいで、状況がかなり影響をうけるわけである。」として、他者の研究では皆既は日没後に発生したとの計算例も示しています。

 ここまでの結論として言えることは、「247年と248年に、日本で皆既日食が起こったことは確かだが、少なくとも、邪馬台国の候補地とされる北九州や奈良の周辺では、皆既日食ではなく、部分日食が起こっていた」ということです。皆既日食ではなく部分日食だったとすると、かなりインパクトが低くなります。

 そうだとすると、部分日食の程度(食分)が気になります。皆既とは言えないけれど、ほとんど皆既と同じような、『食分1.0』に近い部分日食だったのかということです。

 他人の情報は、まず疑ってかかる。自分で確認して初めて、独自の推論を述べる。こんなスタンスで書くことにします。

 20年以上前に書かれた本を読むと、3世紀の日食について、そして、卑弥呼が亡くなったとされる428年にそれが起きたことを大変な発見として、それに基づき、さまざまな憶測のもと、ストーリーを組み立てています。

 ところが、計算技術が進歩し、その計算方法やツールがネット上で簡単に入手できる現代では、話が少し違ってきます。

 少なくとも、最近書かれた書物・文章で、天文学者の斎藤国治氏の説(1989)や井沢氏の『逆説の日本史』を持ち出すようでは、時代遅れという印象を受けます。

 わずか20年前の書物が役に立たないのですから、この分野の情報を発信するときは要注意ということでしょう。

自分でできる日食計算とそれから分かること

 では、早速、日食の計算をしてみましょう。井沢氏が『逆説の日本史 古代黎明期編』を書いた時代とは違って、だれでも簡単に日食の計算ができるようになりました。自分で『卑弥呼の日食』を確認できる時代になったのです。

 そして、Δtの問題に直面することになります。

 とにかく、やってみましょう。自分でやってみるのが重要です。

日食 Photo source: Wikipedia 宇宙から見た日食

NASAの日食webサイト

 世の中、便利になったもので、NASAの日食サイト(NASA Eclipse Web Site)で、過去や未来の日食について調べることができます。

 247年3月24日と248年9月5日の日食を調べてみます。


 NASA Eclipse Web Site

 結果をGoogle Mapに出力すると次のようになります。局地点は、奈良県巻向遺跡と宮崎県西都市にしてみました。

 上述した斉藤氏が注意喚起をしている部分に、地球の自転速度の減衰があります。長期的に見ると、地球の自転は潮汐摩擦によって減速させられます。さらに、地球の自転にはふらつきがあるため、その補正量をどの程度見積もるのかが大きな問題になります。現在の自転速度はほぼ正確に分かっているのですが、1000年以上前の自転速度などだれも測っていないので分かりません。しかし、自転速度が正確に分からないと、日食により月の影が地表面のどこに落ちたのかを特定することが困難になります。このため、その値を推定することになります。

 例えば、1700年前に起きた皆既日食が熊本で観測できたと思っていたら、実際には、当時の地球が早く回転していて、皆既日食を観測できたのは上海より西だった、ということにもなります。

 当時の地球の自転速度をどうやって推定するかというと、さまざまな時代、さまざまな地域における日月食等の観測記録が使われます。皆既日食などがあったと思われるイベントの日時を特定し、そこから計算するようです。当然、どのイベントを採用するのか、本当に皆既日食についての記録なのかなど、議論の余地があり、いくつかの推定式が存在するようです。

 国立天文台の「暦Wiki」によれば、日食計算の中で、地球の自転遅れを表すパラメータ(ΔT)は地球時 TTと世界時 UT1の差として定義されます。

 ΔT=地球時(TT)-世界時(UT1)
 TT = TAI + 32.184秒  (TAI: 国際原子時)
 UT1 = UTC + DUT1    (UTC:協定世界時、DUT1:世界時と協定世界時の差分)
 ΔT = TAI – UTC – DUT1 + 32.184 秒

 上のNASAの日食計算では、248年9月5日のΔTは「8138」という値が使われています。ところが、他の日食計算ソフトで試して見ると、同じような結果にならない。どうやら、ΔTだけではなく、他のパラメータや計算式自体も違うらしい。

 素人の管理人には、さっぱり分からない。ただ、分かったことがあります。それは、西暦248年に皆既日食が起きたのは間違いないけれども、それがどの場所で、何時何分に起きたのかまでは、現代科学をもってしても特定できないということです。

 つまり、皆既日食帯がどこを通ったのか特定できないため、あるソフトで計算した日食イベントのデータだけをもって、卑弥呼が殺されたという結論を導くのは少し無理があるようです。

北大の『日食図・日食計算プログラム』

 北海道大学の『日食図・日食計算プログラム』をダウンロードして、比較して見ましょう。248年9月5日の皆既日食を調べてみます。

 解凍したフォルダの中の「ECLMAIN.exe」をクリックして、ソフトを起動します。

 [計算年]に[248]を入力し、[月日の指定]ボタンをクリックすると、その右に、日食の発生した日付リストが表示されます。[9/5]を選択して、[日食図]ボタンをクリック。

 小さなウインドウが開くので、右上の□ボタンで拡大表示します。その上で[描画]ボタンをクリック。すると下の図が描画されます。表示は、[世界時(UT)]なので、日付が前日9月4日になっています。

 ここで、DT = 7064.159 と表示されます。このプログラムのデフォルトの数字ですが、最初の設定画面で、この値を任意のものに変更可能です。

 [終了]ボタンを押して、このウインドウを閉じます。
 次に、[拡大図]ボタンをクリック。 [中心地点の緯度・経度の決定]で、[奈良]を選択して、[地名]が[奈良]になったのを確認してから、[描画開始]ボタンをクリック。拡大表示され、皆既日食帯がどこを通るのか確認できます。[倍率]を小さくすると、部分日食帯もみられます。

 さらに、[食の推移]ボタンをクリックすると、指定の場所での日食の状況をアニメーションで見ることができます。この画面の時刻は、世界時ではなく地方時です。

 設定ファイルを修正すると、邪馬台国の候補地として有力視されている奈良県の纏向遺跡における日食の状況をGIFアニメーションで表示できます。

 表示されるアニメーションからGIFアニメを作りました。クリックすると拡大表示できます。


  248年9月5日、纏向遺跡における日食の出現

 上記の説明を読まずにこのアニメーションを見てしまうと、邪馬台国の場所が日食から特定できてしまうのではと思ってしまいます。前提条件が欠落した情報の一人歩きほど怖いものはない。

 『日食図・日食計算プログラム』で纏向遺跡を表示するには、設定ファイルを修正します。
 フォルダの中の[GPPOINT.txt]というテキストファイルを開き、以下の項目と座標を追加します。
 座標は、度・分単位です。最後の 76 という値は、纏向遺跡の標高(m)です。Google Earthで調べた標高を入れました。

 日本,Makimuku ,纏向遺跡,34,32,N,135,50,E,76

 なお、プログラムのウインドウ上の欄に、直接緯度・経度・高度を入力することもできます。

 このプログラムの計算諸元『日食のベッセル要素』は北大サイトからダウンロードできます。

 248年9月5日(世界時9月4日)のΔTは、 ΔT = 7064.158536 という値を使っています。同日のNASAのΔTは「8138」です。単位は秒です。似た値になっていますが、2時間以上の違いがあります。その間に、地球は大きく回転している。経度にして30度も回転しているのです。 ΔTというパラメータが計算結果にいかに大きな影響を与えるかが分かると思います。

 記事の冒頭に、『現代科学では「分からない」。これが結論です。』と書きましたが、このことを示しています。

卑弥呼の日食を想像する

 斉藤氏が計算で用いたΔTの値が分からないのですが、北大ソフトを使って試算すると248年の日食では、ΔT=6000 を使ったのではないかと思います。

 ΔTについては、現在のところ、研究者によって違った値を用いているのが実態です。でも、そんなことはよくある話。一つの推論は、その研究者の研究結果によってなされます。ある研究に基づいて推論したとしても現時点ではなんら問題がなさそうです。誰もそれが間違っていると反論できないので。

 日食がどのように見えたのか、もう少し奇麗なものを見てみたい。そこで、日食の動画を作ってみます。

 西暦247年3月24日、宮崎県西都市の男狭穂塚古墳の頂上から見た日食でセットしました。問題のΔTは、NASAの値、ΔT = 8138 を使いました。

 リピート再生します。

 

 中間画像を生成しているので、動きが滑らかになりました。

 ここまで作って、間違いに気づきました。247年3月24日の日食には、ΔT = 8152 を使う必要がありました。 248年の値8138を使ってしまった(汗)。幸い連続年の値なので、両者に大差はない。このままにします。

 原田常治氏の『古代日本正史』にしたがって、邪馬台国の場所として彼が提唱する西都市における日食を調べてみたのですが、ふと、山が邪魔で日没の日食は見えないんじゃないか、という疑問が湧きました。どこまで見えるのだろう。

 そこで、Google Earthを使って、視界を妨げそうな山の高さと、そこまでの距離を調べます。

 山までの距離は概ね13km。すると、仰角1度40分38秒より太陽高度が高いと日食が見られそうです。これより高度が下がると、山の間からかろうじて見えるという感じでしょうか。

 では、勝手にその時の状況を推理してみましょう。(ΔT = 8152に修正後)

 247年3月24日、邪馬台国では、いつもと変わらぬ夕暮れを迎えていました。隣国の狗奴国と戦争状態のため、男たちは皆、戦にかり出されており、村に残っているのは、年老いて余命が尽きそうな卑弥呼と女官たち、そして、村の老人と女子供たちだけ。

 午後5時17分、それは突然始まりました。西の空を見上げていた女官の一人が、太陽の異変に気づいたのです。

 「姫巫女さま、大変です。太陽が黒くなり始めました!」

 姫巫女の宮はてんやわんやの大騒ぎ。

 卑弥呼は、「矢を射て、太陽をつなぎ止めるのじゃ!」と巫女に命じました。まるでマヤ文明における太陽をつなぎ止める石のような感じです。


  Photo: Ⓒ なんでも保管庫

 女官の一人が矢を射ます。しかし、残念ながら当たりません。太陽はどんどん黒くなっていき、それを止めることはできません。

 皆で沈み行く太陽を固唾を飲んで見守っていると、5時55分頃には半分まで欠けてしまいました。そして、6時17分に食の最大(食分0.9393)を迎えます。そして、そのまま山に隠れて見えなくなり、あたりは真っ暗になりました。

 明日は太陽が昇るのだろうか。それが黒い太陽だったら・・と皆が恐怖心に駆られます。

 女官がふと振り向くと、姫巫女が倒れ、既に事切れています。どうやら、日食に興奮して心不全を起こしたらしい。まあ、90歳以上まで長生きしたのだから、天寿を全うしたということでしょう。卑弥呼の死を嘆き悲しむ者はおらず、女官たちは、日食のことなど忘れ、お葬式の準備に取りかかりました。そして、直径が100歩ほどもある大きなお墓を造ってお祀りしましたとさ。その時、奴婢が100人ほど道連れに殺されたので、気持ち悪いし、殺された100人の怨念が恐ろしいので、最近では、その塚には誰も寄りつかないとか。「親魏倭王」の金印は、中国に返しちゃったし、塚にはお宝は何もないので盗掘される心配もない。

 以上が、『卑弥呼、日食にビックリ死!』、という管理人の新説です(笑)。

 卑弥呼が殺害されたにもかかわらず巨大な墓が作られたという矛盾する説よりは、はるかに信憑性があるように思います。

おわりに

 247年と248年に日本で観測された皆既日食。魏志倭人伝に書かれてある正始8年(西暦247年)の邪馬台国の記述。偶然にしてはできすぎています。卑弥呼の死は、247年説と248年説があるようですが、どちらの説を採っても日食が関係しているところもできすぎている。通常は疑ってかかるほどできすぎた話ですが、これらは疑いようのない真実であることは確かです。

 すると、導き出される結論は、日食と卑弥呼の死と何らかの関連があるのではないかということ。卑弥呼の突然の死のように考える人がいますが、卑弥呼はすでにかなりの高齢なので、いつ死んでもおかしくはない。それを無視して、戦争で死んだとか、殺されたとか考える方がかえって不自然です。管理人の「卑弥呼、日食でビックリ死」の方がまだましです。

 卑弥呼のことは、新たな発見もなく闇の中です。しかし、日食の状況を詳しく調べれば、邪馬台国の位置など何か分かるかも知れない、と思って調べ、書き始めた記事ですが、この分野からのアプローチでも邪馬台国の場所の特定は難しいということが分かりました。

 今回の記事は、内容よりも、苦労して作った巫女の画像の方がインパクトがあるのでは?

 247年の西都市における日食で、NasaのΔTを使っています。その理由は、ソフトのデフォルトの数字では表示できなかったから。デフォルトのΔT(7074.714)では、その地点では日食が観測できないとエラーが出ます。これも自分でやってみて初めて分かること。

出典:

1) http://www.tokara.jp/kaiki/nissyoku/
2)『逆説の日本史1 古代黎明編』、井沢元彦、小学館文庫、1998(初版本の発売日は1993/9/3)
3) 『古天文学の道 歴史の中の天文現象』、斉藤国治、原書房、1990.5
4) 『宇宙からのメッセージ 歴史の中の天文こぼれ話』、斉藤国治、雄山閣、1995.12
5) 国立天文台 暦Wiki 用語解説
6) 『古天文学―パソコンによる計算と演習』、斉藤国治、恒星社厚生閣、1989/3
7) 天文学の知識、”AstroArts”