魏志倭人伝の謎にマンガで突っ込みを入れてみた(その2)

 魏志倭人伝の研究者って、たったの「1983文字」しかない文書なのに、中身を読んでしないらしい。いや、読み方を知らないので、日本語で読んで、解釈しているらしい。

 その最たる例が「卑弥呼」という文字を、日本語読みして「ヒミコ」だとしていること。

 魏人が当時聞いた倭人の発音に従って、外来語として漢字を使って表記した「卑弥呼」。当時の倭人がどう発音したかを知るには、当時の魏人がどう発音したかを知ることが大切。たぶん、魏人が聞き取った倭人の音そのものではないにしても似た発音になっていると思われます。

 言霊信仰を持つ倭人が、偉い人の名前を他人に、ましてや外国人に教えるはずもなく、もし倭人が卑弥呼の名を伝えたとすれば、それは個人名ではなく、肩書きだったはず。「ヒミコ」という名前の人物がいたわけではない、と考える方が、無理がない。

 「夜、爪を切ってはいけない」と祖母に言われて育った管理人。その由来は古代に遡り、暗闇のため、切った爪を見失うと、あとでそれを誰かに拾われ、呪殺の道具に使われる恐れがあるからなのだそうです。

 景初3年1月1日(239年1月22日)、魏の皇帝・曹叡が36歳の若さで病死します。

 その前年の景初2年(238年)6月、倭の女王は、大夫の難升米等を魏に派遣して、同12月、洛陽で魏王の詔書とともに、いろいろもらって帰国。エビでタイを釣るように、献上品に比べて何十倍もの下賜品をいただきました。

 またまた金印ももらっちゃった。歴史書『後漢書』にある建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」したのに続き二度目です。魏王、太っ腹! でも、彼はこのあとすぐに死んじゃいました。

 倭国に下賜されたものは織物が主体ですが、金属としては「銅鏡百枚」と「金八両」があります。

 「銅鏡百枚」はよく話題に上りますが、「金八両」についてはほぼ無視されています。

 「金八両」って何グラム? 

 1斤=16両 1斤は220グラム程度(時代により異なるが後漢の値を採用)

 すると、「金八両」は110グラムになります。2) 500円玉硬貨(7g)で15枚分くらいの重さです。

 現在、24金の価格はグラムあたり4,626円程度なので、「金八両」の現在価格は、50万円くらいですね。

 当時の倭国では金はほぼ使われておらず、たくさんもらっても使い道がない。まさに、猫に小判。

 魏は倭国の状況を知っていて、「金八両」という量が決められたのでしょう。なぜ、「金十両」ではなく、中途半端な数字の「金八両」だったのか。これにも理由があるはずです。

 邪馬台国研究者って、この時に賜った下賜品の重量を計算しないんだよね~。重量が分かれば、使節の船団の規模を推定できるのに。献上品には、重量物の「生口(奴隷)」が男女合わせて10名。生口の男を船のこぎ手に使ったということはない。それだと倭国に帰れなくなるから。

 下賜品には重量物はないようなので、下賜品全て合わせて、献上品と同程度の重量だった、という仮説が立ちます。魏側も、船に積める重量を勘案して、下賜品のボリュームを決めている。そんなこと、当たり前でしょ。誰も書かないけれど。

 ここで、漢代に匈奴に下賜したような「金100キロ」とかはあり得ない。帰りの船旅と倭国の船の積載可能量を勘案して、下賜する物品の内容を決める。魏の役人の能力を舐めたらいけない。辺境からの使節であっても非礼があれば、・・その役人の首が飛びます。

 ついでに書くと、下賜品の中に「真珠鉛丹各五十斤」があります。

 この真珠は、パールの真珠ではなく「真朱」という「水銀朱」と考えられています。そして、鉛丹は、鉛の化合物で赤色顔料として使われました。3) つまり、2種類の鉛化合物の顔料を各11kgもらったことになります。

 魏からたくさん贈り物をもらった卑弥呼ですが、彼女が一番欲しかったのは、「鉄」でしょう。戦闘状態にある周辺国との関係を優位に保つには、鉄の武器が不可欠です。

 3世紀から6世紀中頃にかけて栄えた朝鮮半島南部の伽耶を代表する遺跡である大成洞古墳から近年、「鉄鋌(てってい)」と呼ばれる鉄製品の原料となる鉄の板が大量に出土しています。

 玄界灘を渡って大陸に行くのは、当時の技術で命がけ?

 でも、ここら辺がどうもおかしい。

 西暦57年に倭国王が朝貢して金印をもらったことを疑う人はいません。卑弥呼の朝貢も同じです。1~3世紀当時、大陸との交流が盛んだったことが分かります。

 それなのに、遣唐使船は遭難に次ぐ遭難を繰り返し、大陸への渡航は命がけとなります。

 その理由は、渡海技術が継承されなかったからです。鉄を独占したい大和政権は、他の豪族が海を渡って直接貿易するのを禁ずる渡海制(とかいせい)を始めたのではないでしょうか。渡海禁止を20年間続ければ、渡海技術は失われてしまいます。ライフサイクルの短い古代なので、20年は一世代以上の重みがあり、技術の継承を阻むには十分な期間だったでしょう。

 余談ですが、日本国内ではダム建設はほぼ不可能になっています。

 ところが、最近の異常気象により、河川の氾濫、土砂崩れが全国各地で発生しています。過去のデータが役に立たないほど大量の雨が、特定地域に集中して降るという現象が各地で発生しています。

 この被害を未然に防ぐのがダムでした。ところが、ダム建設は認められなくなりました。

 さんざんダム建設を袋だたきにしてきたマスコミは、まずいことになったと思っているでしょう。今の時代、どのようにマスコミがダム建設を叩いたのかが様々なメディアに記録されています。その責任の一端を担うマスコミは、被害に遭われた遺族、財産に対して金銭的にも負担すべきかも。

 じゃあ、ダムを造ればいい。

 ところが、役所はダムをもう造れない。造れる技術者がもういないのです。ゼネコンにも技術者がいない。日本中探しても、ダムを造ったことのある技術者は、すでに退職している人ばかりです。ダム建設の超高度なノウハウはほぼ失われてしまいました。

 技術が失われると言うことは、こういうことです。

 遣唐使船が難破を繰り返した原因はここにあると思います。

出典:
1) 『邪馬台国音韻考』、増田弘、鳳文書林出版株式会社、2001
2) 『卑弥呼に下賜された金八両の意味 -漢魏代の黄金使用との相関的検討-』、門田誠一、佛教大学歴史学部論集第6号、2016
3) 「(74)卑弥呼の真珠(朱)と鉛丹」、倉敷考古館 倉の内外よもやまばなし(HP)

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