明治維新に渡米した5名の幼き女子留学生の動画を作る

古代の謎・歴史ヒストリー

 明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)、横浜の港から岩倉使節団と一緒に米国に留学のため旅立った5人の幼き女子留学生がいました。

 吉益亮子(17歳)、上田梯子(のちの桂川悌子、16歳)、山川捨松(のちの大山捨松、11歳)、永井繁子(のちの瓜生繁子、9歳)、津田梅子(6歳)の5名の少女たちです。

 津田塾大学をつくった津田梅子や鹿鳴館で名をはせた大山捨松は有名です。しかし、残りの3名についてはあまり知られていません。

 ネット上にある渡米時の彼女たちの写真はとても画質が悪く、どんな顔立ちの女の子たちだったのかも分かりません。

 そこで、これまでに培った画像処理の経験を生かして、超高画質、総天然色、さらに、動く写真を作ってみました。

 
    Source: Youtube, Nekoshi

 彼女たちの生没年に係る基本資料をまとめてみました。


  渡航時の年齢は、横浜出発時で計算

 年長者2名は、病気のため一年足らずで帰国します。残りの3名は、渡航時の契約通り10年間の留学を果たします。なんともスケールがすごい。

 彼女たちは国費留学生です。帰国後には、それ相応の日本社会への還元が求められます。特に、10年間もの長期にわたり国費(税金)で留学していた3名の女子たちにはそれが重くのしかかります。

 ところが、明治政府は、帰国した彼女たちに対する適切な職場を提供できませんでした。女子留学生派遣時の卓越した思想が10年の間に失われてしまったのです。この10年の間に明治政府の役人の質が低下していることが分かります・・・・、と思ったのですが、調べてみるとそれは少し違うようです。

 日本に戻った3名の帰国子女たちは、日本語を忘れていました。日本語が話せない、書けない日本人では、働ける職場が限られてしまいます。

 最年長の吉益亮子は、東京府士族秋田県典事吉益正雄娘。津田梅子とともにワシントン郊外ジョージタウンの日本弁務官書記チャールズ・ランメン宅に預けられます。のち1軒を借りて5人で居住します。

 1872年10月、亮子は、目を患ったため病気の上田梯子とともに滞米1年足らずで帰国しました。その後、築地の海岸女学校で教師をし、1886年6月京橋に女子英学校教授所を設立しましたが、その秋にコレラに罹患し亡くなっています。彼女の資料がとても少ないのはこのためです。

 吉益亮子は早世した、というような記述をネット上で見かけますが、嘘ですね。32歳で亡くなった人を早世とは言いません。女子卓球の石川佳純選手にお顔立ちが似ているような気がします。

 山川捨松については、他のサイトでいくらでも情報が手に入るので書きませんが、少しだけ気になることがあります。それは名前の読み方。捨松は「すてまつ」と読みます。それ以外の読み方はないと思います。ところが、複数の英文サイトで「Suematsu Yamakawa」という記述があります。誰かが間違って書いたのをそのまま使っているのか、あるいは、使節団メンバー表がそのようになっていたのか。調べれば分かることですが、今のところ真偽は不明です。

 早期に帰国した2名について、年頃の年長者2名は現地になじめず早期に帰国したように書いている方もいます。しかし、当人たちから見れば、自分たちより年下の3名の少女たちを残しての帰国は断腸の思いだったように感じます。何を根拠にそのように書いているのでしょうか。そのように書いた根拠資料を示してほしいものです。

 動画を見ると、5名の留学生一人一人の顔立ちがよく分かると思います。これまで誰もこのような加工をしなかった理由は、この加工にはとても手間がかかるからです。今回は、手間を惜しまずにやってみました。まずまずのできばえかなぁと思います。