明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く

 皇女和宮の晩年の情報が極端に少ない。

 特に、和宮が箱根で亡くなってから葬儀・埋葬までの間の情報が皆無と言ってよいほど見つからない。
              Foto: Nekoshi

 それを良いことに、さまざまな憶測がもっともらしく語られています。

 和宮について書いた大学の先生方も、和宮の晩年から薨去され葬儀に至る部分はほとんど何も書いていません。現在、ネット上にある情報は、Wikipediaに書かれている情報以外にはなく、それが全てということです。このため、わずかばかりの情報を基に、とんでもない解釈をしている小説もありますし、その小説を根拠に、さらに肉付けしているサイトも見受けられます。

 管理人には、他人のふんどしで相撲をとっている輩と写ります。既存のわずかばかりの情報をこねくり回すのではなく、ネット上にはない新たな情報を自分で調べることで、仮説を立証したり、棄却することができる。そして、それが重要ではないかと思います。 

 そこで、当時の新聞の報道ぶりを確認してみました。この情報が文献にもネット上にもまったく見当たらないからです。
 和宮についての多くの書籍を読みましたが、この記事に書く内容を見つけることはできません。この記事が唯一のものだと思います。

 なぜ、これまで誰も調べなかったのか。それはとても手間のかかる作業だからです。この点、暇な管理人ならできます(笑)。

【 目 次 】

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明治の新聞が読めない

 予想はしていたことですが、当時の新聞を読むためには、少しばかり知識が必要です。何の予備知識もなく読もうと思っても読めたものではありません。

 まず、当時の新聞ですが、運良く、自宅近くの図書館で見つけました。マイクロフィルム化されており閲覧できます。 和宮(靜寛院宮)が亡くなったのは明治10年9月2日。当該月のフィルムの閲覧を図書館司書の方にお願いします。20分ばかり待たされましたが、無事にマイクロフィルムが見つかりました。

 新聞のマイクロフィルムをモニターに表示し、目的の記事があるかどうか確認しました。当時の新聞がどのような紙面構成になっているのか分からないので、記事の存在を最初に確認しました。9月6日の新聞を開くと、和宮薨去のことが書かれています。見つかったので、ひとまず、ホッとしました。

 次に、中身を読み始めたのですが、読めない。その理由は、「ひらがなが読めない」という何とも情けない理由です。当時の新聞、というか、当時の文書全般だと思いますが、「変体仮名」という現在から見るとまるで暗号のような文字が使われています。

 この変体仮名は時代が降るにつれ統一されてくるのですが、明治10年頃は、新聞記者が好き勝手に変体仮名を使っているらしく、使い方に一貫性がないように思います。

 読めない「変体仮名」は前後の文脈から大体分かります。これをメモしておくと、さしあたり不自由なく読めるようになりました。読めなかった「変体仮名」は、「は」「た」「な」「を」「す、ず」「ゆ」の6文字。ネットで「変体仮名」の画像検索すると、リストを見つけることができます。
      Source: 『Koin変体仮名』から転載

 次に困ったのが、文体が「候文(そうろうぶん)」になっていること。これは読んでいるうちに慣れてきます。でも、”候條”など、ネットで調べてもよく分からない言葉も出てきて四苦八苦。さらに、文語体と口語体をまぜこぜにしたような文体で、悩ましい。

 当時の新聞で便利な点は、全ての漢字にルビがふってあること。しかし、ルビ自体が旧仮名遣いなので、少し戸惑います。小さな「っ」のような促音は表記されない。

 送り仮名も現代とはかなり違います。たとえば、「すぐに」は、現在は「直ぐに」と書きますが、当時は「直に」でした。この送り仮名が異なる点も、読みにくさに拍車をかけます。

 国名や外国の都市名も漢字なのですが、これが知っているものとは違う。
 例えば、ロンドンは「倫敦」と書くことは多くの人が知っていると思います。夏目漱石の「倫敦塔」でもこの文字が使われています。ところが、「龍動」とも書くらしい。ネットで調べて初めて知りました。また、「澳国」という単語が出てきたので調べたらオーストリアのことでした。オーストリアは他に、「澳太利、澳太利亜、澳地利、澳大利亜、窩々所徳礼幾」とも書くようです。(「外国名の漢字表記」参照)

 さて、前置きが長くなりました。
 和宮様が亡くなられた当時の新聞報道(讀賣新聞)の関連記事を掲載します。仮名遣いは、原文のままを基本としましたが、それだと意味が分からなくなる、読むのに疲れると感じた部分は現代仮名遣いに直しました。新聞には句読点がありません。とても読みにくいので、管理人の判断で適宜入れています。

 和宮は9月2日に亡くなられましたが、讀賣新聞の記事は9月1日から始まります。

1.明治10年9月1日 御見舞の記事

 『箱根へ御滞留の静寬院宮は御病気の御様子にて、宮内省より山岡大書記官がお見舞いにまゐられます。』
 亡くなられる前日の記事です。和宮危篤の報が宮内省に入ったということでしょう。

 この山岡大書記官とは、江戸城無血開城の直接的立役者である山岡鉄舟のことです。鉄舟は、西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。そして、宮内卿代理-宮内大書記官-庶務内廷両課長-『静寛院華頂宮家政取締役』となります。明治10年、つまり、和宮薨去の年の2月、鉄舟42歳の時、西南の役が起きます。

 少し脱線しますが、この『静寛院華頂宮家政取締役』という役職。とてもおもしろい。『静寬院』とは『静寬院宮(和宮)』です。『華頂宮』は、前年の明治9年(1876年)5月24日に亡くなった華頂宮博経の宮家のことです。当時の宮内省は、『静寬院』と『華頂宮』の家政を同じ担当者が所管していたようです。

 ところで、博経は徳川家茂の『猶子(ゆうし)』だったということは、あまり知られていません。博経は、1860年10月11日、9歳の時に孝明天皇の養子となり、同日、徳川家茂の猶子となっています。

 「孝明天皇」-「和宮」-「家茂」-「博経」が1本の糸でつながります。そして、[博経]の正室が[南部郁子]。南部郁子の妹[南部麻子]が結婚して住んでいた旧八戸南部藩邸を購入して住んだのが、京都から戻った[和宮]です。
 [華頂宮博経]を通じて、すべての登場人物がつながります。

              Image by Nekoshi

2.明治10年9月4日 和宮薨去の布告(第六拾三號)

 9月4日、和宮薨去(こうきょ)が公表されます。和宮が亡くなられたのは2日午後5時なので、薨去当日と翌3日、和宮薨去は公表されなかったことになります。

 『二品親子内親王本日薨去あそばされ候らいて、この旨布告候こと。但し三日の間歌舞音曲等、令停止(ちゅうし)せしめ候らいて、東京府下本日よりその他の地方は到達の日より可算すべく候こと。
明治10年9月2日 太政大臣三條實美』

和宮薨去の布告 明治10年9月4日

 この布告の他に、同日、以下の記事が載っていました。

 『静寛院宮様は、先月7日に東京を御たちにて箱根へ御湯治に入らせられ、その後御不礼につき山岡大書記官を御見舞として遣はされた。788號にも出してある通りにて伝え承けたまはるに、脚気の御気味にてなやませられ 殊に瀉痢の御症状加はって、一昨二日午後五時に薨去せられ、この由の電報その筋へ達するや早くも三條公岩倉公をはじめその外の貴顕(きけん)は皇居へ参内され、即刻杉宮内少輔には馬車にて東京を御出立になり 主上は今月1日より日々太政官代へ臨幸まします筈なれと、この事につき、臨幸あらせられず(三日のあひだ)。又、吹上の整列天覧も御延引(えんにん)になり、澳國(注:オーストリアのこと)のリィチヌンスティン親王には昨日、皇后宮に拝謁のところ、これも御沙汰止(ごさたやみ)になり、天下億兆の人民も、君と愁ひを共にし、数ならぬ新聞記者も、ために袖を濡らし謹んで筆をとりました(あとは明日)。』

 「788號」とは、明治10年9月1日の記事を指しています(9月2日(日)は休刊日)。
 瀉痢の御症状とあります。下痢ですね。死亡日時は、「明治10年9月2日午後5時」と書かれています。

 和宮薨去の知らせは箱根からどのように伝えられたのか疑問だったのですが、電報と書いてありますね。当時、電報が使われたということを始めて知りました。

 知らせを聞いて直ぐに現地に駆けつけた杉宮内少輔とは、杉孫七郎氏のこと。1874年(明治7年)に宮内少輔になり、そして、和宮が亡くなったこの年に宮内大輔に昇進しています。

 ところで、宮内少輔というのは何でしょう。
 明治10年当時は、同18年の「内閣制度」成立前の「太政官制度」の時代でした。太政官の一省である宮内省は皇室関係の事務を司る官庁で、長官は「卿(きょう)」で、大輔(たいふ)、少輔(しょうふ)、大丞(だいじょう)、権大丞(ごんのだいじょう)などの職員で構成されていました。(『皇室事典』p150)明治4年に「侍従長」が設置されているのですが、明治10年時点では「少輔」という役職があったことが分かります。

 新聞記者達も和宮薨去に涙を流したという記事は、現代にはない、悲しい響きですね。
 同日、以下の記事も載っていました。

 
 『この静寛院宮(和宮様)は、仁孝天皇の皇女にて弘化3年12月11日の御誕辰(ごたんしん)徳川十四代の将軍家茂公(昭徳院殿)の御台所に成らせたまい、その後、西京へ御出になり、又東京へ帰らせ給ひてより麻布市兵衛町の御邸に住はせ給ひし宮にておはしました。』

 送り仮名の「は」と「わ」の使い方が現代とは違うので少し読みにくいですが、慣れれば、味わいがあって、明治の文章を読んでいるんだぁ、という感慨に浸れます。

3.明治10年9月5日 和宮薨去発表の翌日の記事

 『静寛院の宮様が薨去(ごうきょ)あさばされたについては、華族中山忠能(ただやす)君が取敢ず箱根へ出張され、多ぶん明日は御尊骸が東京へ御着に成るゆゑ、それ夫々(それぞれ)御待受があり、御葬式は麻布の御邸(おやしき)より芝の増上寺へ御佛葬(ごぶつさう)になるとかいふが、未だ判然せず、是について在京の勅奏任官(ちょくそうにんくわん)と華族方は、一昨日、昨日、今日と三日のあひだ天機伺(てんきうかが)ひとして参内され、皇太后宮(くわいたいこうぐう)と皇后宮(くわうごうみや)とは一昨日より三日のあひだ御遠慮あそばし、英國龍動(いぎりすろんどん)居られる徳川家達(いえさと)君へも直に電報がかかり、橋本君が伊勢の奉幣使を免ぜられたのは御續(おつづき)がらゆゑであるといふ。』

 Wikipediaで書かれている『当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。』という記述にあるのは、このことかなぁと思いました。4日の時点で増上寺で葬儀をするかどうかはまだ決まっていなかった。
             Image by Nekoshi

 華族中山忠能(なかやま ただやす)とは誰か?
 忠能の娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、明治天皇を産んだことから、忠能は明治天皇の外祖父にあたります。和宮の降嫁問題では、公武合体派の公家として縁組の御用掛に任じられ、また、降嫁の際には、江戸まで同行しています。和宮降嫁を勧めた人物です。

 記事の最後に、橋本君なる人物が唐突に出てきますが、誰でしょう。

 和宮の母、観行院(橋本経子)の兄にあたる橋本実麗((はしもと さねあきら、1809-1882)のことでしょう。和宮降嫁騒動の時にしばしば登場する人物です。和宮降嫁に反対した人物ですが、降嫁の際には江戸まで同行しています。

 降嫁問題の主役である和宮も家茂も舞台からいなくなったのに、脇役たちは健在です。
 

4.明治10年9月7日 和宮の御遺骸の帰京(薨去発表の3日後の記事)

 『静寛院宮の御遺骸は、一昨日塔ノ澤をお立ちにて小田原梅澤にてお小休(こやすみ)、大磯がお昼休み、夫(それ)より又、南湖にてお小休があり、藤澤の遊行寺がお泊まりで、昨日は戸塚程谷生麦(とつかほどがやなまむぎ)のお小休にて川崎がお昼で、大森でお小休み。それより品川へとお道筋、また神奈川懸より警部、警部代理とも六人と巡査が十人出張にて、途中御守備をして、儀仗兵は騎兵半小隊お出迎ひをして川崎まで出張し、前駆は少警部が一人、御霊柩は馬車にて四方は油単(ゆたん)で包み、四面を騎兵にて警衛し、次に俱奉(ぐぶ)の馬車は六両(杉、山岡、橋本の三君そのほか)。品川よりのお道筋は昨日出した通り、途中、分署、分署より巡査を出して警護し、午後二時十分ごろ御着になり。主上(てんしさま)ご名代は伏見宮、皇太后宮と皇后宮の御名代は新樹典侍にて堀川女嬬(にょじゅ)と命婦(みやうぶ)二人が侍し、御待受は二位のお局をはじめ香川君、高崎君、兒玉君、その外、華族方にてお供物その他御賄等は宮内省より御廻しになり、増上寺の方丈(はうぢやう)も四人の僧を連て参られました。』
              Foto: Nekoshi

 この記事から、和宮の御遺骸は、9月5日に塔ノ沢を出発し、藤澤の遊行寺で一泊。翌6日の午後2時10分ころ、麻布の御邸に到着したということが分かりました。

  塔ノ沢(9/5) ⇒ 小田原梅澤(小休止)⇒ 大磯(昼食)⇒ 南湖(小休止) ⇒ 藤澤の遊行寺(宿泊) (9/6) ⇒ 戸塚程谷生麦(小休止) ⇒ 川崎(昼食) ⇒ 大森(小休止) ⇒ 品川 ⇒ 麻布の御邸到着

 御遺骸の移送は馬車を使ったことが分かりました。これも不明だったことの一つ。どうやって運んだのか。御所車じゃないだろうし、などいろいろ思いをめぐらせていました。

 儀仗兵が柩を御護りしながらの帰京だったことも、ついに分かりました。

 箱根塔ノ沢から麻布までは、YahooMapによると、距離84.7km、徒歩で17時間3分かかります。このため、どこかに一泊したと考えたのですが、それが藤沢の遊行寺であることが分かりました。遊行寺で検索しても和宮との関係を書いている記事は見つかりません。これについての情報発信は、本サイトの記事が初めてなのでしょう。皆、忘れ去られています。

 明治10年当時、警部とか警部代理などの肩書きの人がいたことも初めて知りました。刑事物のドラマを見ているときに、使える「うんちく」です。

 それにしても、この当時の新聞記事を書いている記者は、小学生並みの作文力ですね。
 管理人が小学校低学年の時に書いた遠足の感想文を思い出しました。「朝起きて、顔を洗って、靴を履いて・・・・、朝ご飯をたべて、・・・お昼をたべて・・・」
 とても魅力的な記事を見つけました。 

 『静寛院和宮は今日東海道筋より八ツ山札の辻から赤羽根飯倉が御道筋にて正午に麻布へお着棺になり又昨日だした通り芝増上寺の徳川十四代将軍家茂公の廟の後ろへ御埋葬と極り大そう立派な御廟が出来ますとうけたまわりましたが 是れにつきお邸(やしき)は昨今御混雑ゆゑ夫(それ)につけ込んで一昨ぎん賊忍び入り女中部屋に在った着類に十品ぬすみましたが不埒な奴では有りません。』

 当時の生々しい混乱ぶりが伝わってきます。なんと、和宮邸に泥棒が侵入し、女中の着物が盗まれます。
 「盗んだのに不埒な奴ではない」とは? 当時の「不埒な奴」がどういう意味で使われていたのかが、この記事から伝わってきます。女官に危害を加えるような盗人ではなかったと言うことを強調した言い方でしょう。

 この記事から分かることは、泥棒に入られるほど和宮邸の警備が手薄だったということ。そして、邸は大混乱だったということでしょう。
 

5.明治10年9月8日 葬儀の日程

 『静寛院宮の御葬式は今月13日ごろにてそれまでは日々宮内省より女官がたが御見舞とし参られます。』

 この記事により、7日時点で葬儀の日程が決まっていなかったことが分かります。
 また、「御見舞」は宮内省の女官が行った、ということが分かります。
              Foto: Nekoshi

6.明治10年9月11日 葬送の布告 官令 第六十五號

 『故二品親子内親王、来る十三日、芝増上寺へ御葬送相成候條(あいなりそうろてう)此旨(このむね)布告候事。 明治10年9月10日 太政大臣三條實美』

 この日、次の記事が掲載されました。
 『明後日は、故二品親子内親王の御葬送につき、在京の奏任官以上、麝香間(じゃこうのま)詰の華族、その外、有位の華族は、当日天機伺ひとして宮内省へ参上され、又当日は太政官はお休暇になります。』

 またまた難しい単語がでてきました。『麝香間』とは何でしょうか。「麝香之間」とは、京都御所内の部屋の名称だそうです。そして、「麝香間詰め」とは、「麝香間祗候(じゃこうのましこう)」のことのようです。これは、明治維新の功労者である華族または親任官の地位にあった官吏を優遇するため、明治時代の初めに置かれた資格で、職制・俸給等はない名誉職なのだそうです。

7.明治10年9月13日 葬儀当日の記事

               Foto: Nekoshi

 『前號にも出した通り、今日は靜寛院宮様の御葬式にて、徳川六代将軍文昭院殿のお式と十四代の将軍昭徳院殿とのお式を折衷して行なはせられ、御出棺前のお式は午前七時に御霊殿を装食(しょうしょく)す、同じく八時に諸員着床、次に導師及び衆僧着席、この間奏樂、次に洒水、次に伽陀附樂、この間、奠供(てんく)、次に導師麝香、次に呪文、次に奉請、次に誦経、次に伽陀附樂(この間、撤供)、次に奠茶、次に稱名(しょうみょう)、次に後唄(ごはい)、次に囘願、次に導師轉座(てんざ)、次に衆僧退座、次に喪主拝礼、焼香、次に御代拜同上、次に皇太后宮御代拜同上、次に皇后宮御代拜同上、次一品内親王御代拜同上、次に皇族御拜禮同上、次に従四位徳川慶喜代拜同上、次に徳川天璋院代拜同上、次に徳川慶喜妻代拜同上、次に宮御外戚拜禮同上、次に御供上﨟以下拜禮同上、次に御供宮内省勅奏任拜禮同上、次に奉送大臣参議以下奏任官以上麝香間詰総代並びに華族総代拜禮同上、次に奏任女官拜禮同上、次に宮内省・・・・(略)・・・、次に撤供、この間奏楽、次に奠拝御遷座、この間奏楽、次に御棺を御輦(みくるま)に納。次に各退座また御葬送のお式は午前第十時御出棺途上衆僧散華、伶人奏楽、御棺芝文昭廟二天門外に至り御供り諸員車馬を下る。この時、先着の諸員同所にて奉迎、次に檀林並びに衆僧同所門内にて迎へそれより先進して龕前堂(がんぜんどう)に至り左右に披列す、次に導師これを迎へ御棺を龕前堂に奉安す。この時持物の衆徒同所南北に整列す。次に奠供、この間奏楽。次に洒水、次に導師着座、次に伽陀附楽、次に導師献香呪願、次に、・・・・・・(略)・・・・・・、次に御棺御廟へ奉送。この間、伶人奏楽」にて御行列から御道筋はおよそ前號に出てゐる通りゆゑ別段に書立ません。』

 この日の記事はとても長いので一部省略です。焼香の順番を延々と書いているようで、読んでいると疲れます。箇条書きか表形式の方が分かりやすいのでしょうが、新聞は活字を組む都合上、このような書き方になっているのでしょう。

 「御代拜(拝)(ごだいはい)」とは、「代理人が祭祀を代行すること」。つまり、皇太后、徳川慶喜、天璋院篤姫などご本人は出席せず、代わりの者が拝礼したということなのでしょうか。高貴な方々はほとんどが「御代拝」。ちょつと許せない!?

 新聞は、どうも情報が断片的で、読んでも何が何だかさっぱり分からない。
 和宮の葬儀は、増上寺で行われたので、過去の将軍の葬儀の流れが参考になりそうです。
 「徳川歴代将軍の死と葬儀」という記事の中で、徳川家慶(十二代将軍)の葬儀の流れが載っていました。ざっと目を通すと、雰囲気が分かります。

1. 御棺において壙四方の結界作法 
2. 伝通院等による棺前焼香三拝、鎖龕(棺の蓋を閉ざす)作法終え退出
3. 霊厳寺等、棺停安拝し迎檀林誦経咒願 
4. 学頭(僧の役名)先ず灑水(しゃすい=水をそそぐこと)を行なう
5. 天光院鈴を持ち先導
6. 霊巌寺他敬従持念
7. 香炉を捧げる
8. 御棺左右に常照院敬い侍(はべる)
9. 衆僧表門の左右で拝迎
10. 楽人龕前堂表に列居
11. 導師龕前堂に奉侍
12. 僧衆を拝迎し先進列行、龕前堂左右に着座平伏
13. 御棺入。この時導師、龕前堂木戸北方より拝迎終え、南方の曲録に倚る
14. 御棺を龕前堂に奉安
15. 武家改着装束
16. 棺前に机を設置し香花燈明を献じる
17. 菓子を奉献する
18. 灑水(常福寺勤奉)
19. 導師着畳
20. 伽陀(偈)(月窓院勤奉)
21. 導師献香咒願
22. 広懺悔(威徳院勤奉)
23. 龕前疏(上奏文)(弘経寺勤奉)
24. 後唄 (花岳院勤奉)
25. 四誓偈
26. 回向 十方
27. 導師北方の曲録に倚る
28. 大僧正ご拝礼
29. 庭上の行列
30. 御棺出 庭上
31. 供奉役人先進
32. 合はち
33. 発楽
34. 行列先進徐行僧衆 誦根本咒
35. 鈴に従い散華
36. 伶人 廟所仮堂の外南方列立
37. 持物の衆徒随時六観音牌の側に止る
38. 奏楽
39. 供奉役人 拝殿南北奉侍近侍のほか供奉諸士御門外に止る
40. 導師仮堂の外南方曲録に倚る
41. 御棺仮堂内に奉安
42. 僧衆圍のうち 廟堂の外左右列立
43. 机を設置して香花燈明を献じる
44. 奉香机
45. 灑水
46. 四智讃発音
47. 合はち、鐃(にょう=銅鑼(どら)の一種)
48. 導師献香礼拝おわり曲録に倚る
49. 鎖龕(さがん)
50. 起龕(きがん)
51. 奠湯(てんとう)
52. 奠茶(てんちゃ)
53. 念誦
54. 導師進 棺前献香引導
55. 誦甘露咒
56. 導師奉圍遶(かこいめぐらす)御棺終わり着畳
57. 咒願終わり下堂、つづいて南方の曲録に倚る
58. 僧衆退き圍之外左右
59. 拝殿に香机ならびに膝つきを設置
60. 大僧正拝迎役者随従
61. 奏楽
62. 名代参堂礼拝
63. 下堂楽奏
64. 大僧正南方曲録に復座
65. 僧衆拝殿着座
66. 讃偈を称える(光学院勤奉)
67. 設御机(役僧これを行なう)
68. 典供
69. 導師着座献供咒願
70. 願生偈
71. 回向文(阿弥陀本誓願の文)
72. 阿弥陀称号(六字詰七変)
73. 武家拝礼
74. 導師退出僧衆斑列随従
75. 収供具
76. 奉■ 棺壙役者両僧如法監護
77. 武家退出
 (以上、引用)

8.明治10年9月14日 葬儀翌日の記事

 葬儀当日は、増上寺周辺は人出で大変なことになっていた様子が分かりました。仕事を休んで拝みに来たという人もいて、お祭り騒ぎだったようです。記事を書いている記者もかなり興奮しているのが文章から伝わってきます。文章と文体がとにかく無茶苦茶です。
              Foto: Nekoshi

 和宮薨去に対する市中の反応を知りたかったので、その様子が書かれた記事が見つかってうれしいです。記事の中で分からない部分も結構あるのですが、疲れたので、深追いしないことにします。

 『昨日は午前十一時に、静寛院宮の御棺は麻布を御出門になり、御道中の樂はマルチスヒヌーブルスを奏し主上の御名代は徳大寺公、皇大后宮の御名代は権典侍西洞院成子、皇后宮の御名代は、典侍高倉壽子(ひさこ)、桂宮(かつらのみや)様の御名代は、三上命婦(みょうぶ)、二位の御局の御名代も命婦、北白川宮の御名代は畑中正景(はたなかせいけい)、東伏見宮の( ひがしふしみのみや)の御名代は谷岡之助、山階宮(やましなのみや)の御名代は金谷忠章、喪主徳川家達君の名代は松平確堂君、天璋院さまと徳川慶喜君と同君の奥方の名代は一色能一、このなか、麝香間詰(じゃこうのまづめ)の総代は伊達宗城君にて、橋本家御兩君(ごりょうくん)は喪主の次に恭られ、徳川家御親類は勿論(もちろん)出られ、華族の総代は醍醐忠順君、御送りは三條公、岩倉公を始め参議そのほか勅奏判任の官員がた、又、魯西亞(ろしや)の全権公使も送られ、御式は昨日出した通りで、「静寛院宮二品内親王好譽和順貞恭大姉」といふ御尊號になり、諸宗の教正、講義訓導の人々は久我大教正を始め、天台、臨済、日蓮、真言、宗洞真宗その外にて四十人も参拝され御着棺の時は、發砲の式があり、横浜碇泊の軍艦、神奈川の臺場にても發砲し、静寛院宮様はご自身でお送りになりました。

 この御葬式を拝見に出た人は實に夥多しく、御道筋の左右に立並んで、それはそれは動くことも成らないなど殊(こと)の外、群集し中に怪我をした者もあり、芝邊(しばへん)からかけて食物、見世物の客が一ぱい。當社の向の松田なども[一トしきか
(注:意味不明。「ひとしきりは」)かも。]は客が充満して、門口は寄せた芝居のはねの様にワイワイいふ程つめかけ、此程の御式その外を書いた新聞を望む人の多いこと、何程か知れず。徳川十四代将軍の御台所の御葬儀だから商売を休んで拝みに出たといふ人が沢山あり、天気都合もよろしく萬事お滞りなく済み、今日は、二七日のお逮夜(たいや)で、お式があり、四七日は大施餓鬼、また、御祥月には放生會(ほうじょうえ)があり、その外、七七日には何れも御法事が有ります。』

  高位の方のほとんどが代理を立てているのに驚きました。これは異常です。
  天皇陛下は神官なので、死の穢れを避けるため、葬儀には出席されないと聞いたことがありましたが、そのほかの高位の方々も出席せず、代理を立てている。天璋院(篤姫)、おまえもか!

 天璋院と和宮は幕末・明治期に至っても、決して仲がよかった分けではないのですが、天璋院は後年(明治13年)、和宮最期の地、塔ノ沢を訪れ、追悼の歌を詠み、涙しています。また、慶喜は生涯、和宮の命日には増上寺にお参りしていたと慶喜の九男の妻が述べています(『和宮』辻ミチ子、ミネルヴァ書房、2008、p.167)。

 この葬儀の出席状況について別の見方をすれば、旧徳川家一族の明治政府(宮内省)に対する示威行為とも捉えることができます。神式・仏式という葬儀の形式に始まり、さまざまなしきたりの違いが確執を拡大させたように思います。宮内省は、和宮をあくまでも皇族として扱いました。

 徳川家達は、家茂の遺言に従い和宮が彼を推挙したために、徳川家の当主になることができた分けですから、大恩ある和宮の葬儀には出席するのが当たり前なのですが、なにしろ、ロンドンに留学中なので、帰ってくるのは無理ですね。

 新聞の、「君」、「さま」、「敬称なし」の使い分けが面白い。また、「御代理」と「代理」の二つの言い方をしています。この時代の厳密なルールで使い分けをしているのでしょうね。

9.明治10年9月18日 葬儀から5日後の記事

               Foto: Nekoshi

 『静寬院宮の御棺を納めるときに、石屋が一人、誤って穴へ落込み怪我をして、直に病院へ送られ、御手当金として当人へ十二圓下されましたと。』

 石屋が穴に落ちて怪我をしたり、御見舞金12円もらったなど、ちょっとユーモラスです。でも、実はおかしい。
 この12円という金額は、当時の警視庁警部補の月給と同じ額です。怪我の程度が分かりませんが、御見舞金としては、かなり奮発しているように思います。というより、これはおかしい。

 石屋が穴に落ちたのは自己責任。そのリスクは契約の中に入っている。怪我をするのは仕事のリスクの一部なので、雇い主が高額の見舞金を払うのはおかしい。よほどひどい怪我だったということです。

 でも、墓穴から落ちただけで、そんな大怪我をするの?
 その答えは、別記事『皇女和宮の埋葬のナゾに迫る』で推理しています。

10.明治10年9月10日の新聞(東京日日新聞)

 13日午前11時出棺
 8日は初七日に当たらせらるれば、有栖川宮、東伏見宮、伏見若宮をはじめ、諸省の勅奏官の方々に至るまで参拝せられたりとぞ。

11.明治10年9月11日の新聞(東京日日新聞)

 中田暢平に御滞留中御用ひに成りした道具に金圓を添えて同人に賜りたりと云ふ。
 中田暢平とは、和宮が宿泊していた環翠楼(当時は「元湯 中田暢平旅館」という名前でした)の主人です。
 また、9月15日の新聞には、以下の記述が見えます。
 「宮の上臈『藤の井拜に老女等を打ちつれて御墓所へ参拝せられたりとぞ』」

 この記事から、和宮に付いていた最高位の侍女の名前は「藤の井」だったことが分かります。たぶん、絵島のことではないかと思います。

12.和宮の死因は、本当に脚気だったのか?

 以前から不思議だったのが、和宮の死因です。脚気は快方に向かい、地元の人たちを集め歌会を開くまでに回復していた和宮がなぜ急逝したのか。死の直前には、激しい下痢に襲われていたようです。そして、心不全で亡くなる。

 これって、あの病気を彷彿させます。それは、死の伝染病と恐れられた「虎列剌(コレラ)」。なんと、和宮が亡くなった明治10年(1877年)9月、横浜で発生したコレラは猛威を振るうことになります。この年、コレラの流行で患者1万4千人、死者8千人を出しました。19年ぶりにコレラが日本に持ち込まれたために発生した悲劇でした。

 海外のコレラの流行状態から危機を察した内務省は「コレラ病予防心得」を8月に公布しています。そして、9月2日、和宮が薨去します。

 コレラは経口感染なので、珍しい食べ物を横浜からいち早く、初物として和宮に献上されたために和宮がコレラに感染してしまった・・・、ということも十分考えられるのではないでしょうか。当時、コレラに罹患した人に対する偏見、迷信に基づく迫害などもあったようです。これは、羅病者の60~70%は助からなかったという高い致死率に基づくものでした。

 和宮の薨去についての記録が著しく少ない理由は、もしかしたら、「和宮はコレラで亡くなっていた」ということかも知れません。棺に入れられた大量の石灰は、消毒用だった?

 もしそうであるのなら、その事実は絶対に隠匿する必要があります。しかし、そのように主張する根拠はほとんどありませんが。

 和宮の葬儀で不思議だったのが、おもだった関係者がすべて代理を出席させていること。これって、絶対にあり得ない! この謎は、和宮の死因が「コレラ」(または、その疑いが濃厚)であれば解けます。高貴な方をコレラで亡くなったかも知れない個人の葬儀に出席させることはできない。そのような時代だったのです。

 なぜ、こんなことを書くのか。それは、吉益亮子の死因を調べるために当時の新聞記事を閲覧していた時にひらめいたからです。和宮の死因に違和感を感じていました。

 和宮が亡くなった1877年(明治10年)の後、1879年(明治12年)と1886年(明治19年)にはコレラによる死者が10万人の大台を超すという惨事に見舞われます。そして、吉益亮子は1886年秋、コレラに罹患し亡くなっています。

 当時の新聞記事で吉益亮子の名前を見つけることはできなかったのですが、新聞記事から、コレラによる被害拡大のすさまじさを知ることができました。

 和宮の死因は、「コレラの疑いがあった」。それ故、死から埋葬に至る記録は消し去られてしまった。このように考えることもできるように思います。

13.その他の文献

 以下の文献の『静寬院宮薨去并御葬送の事』という節に葬儀の模様が描かれています。内容的には新聞報道と同じで、新たな記述は見当たらない。新聞から転記しているものと考えられます。
『近世太平記4篇巻之中』、吉村明道 編、明治12年、東壁堂、pp.40-42

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明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く」への1件のフィードバック

  1. いしい 雅子

    こんばんは。
    一市民の意見としてとらえてください・・・
    左手のことですが、おそらく…御病気か
    何かのけががきっかけかもしれませんが、悪化させ、そうしなければならなかったのではないでしょうか?脚気の持病はよく知られていますが、仮に、左手のけがの療養もかねていたとしたならば、温泉療法のつじつまが合うように思います。

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