和宮の死の真相に迫る! 和歌に隠された暗号

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はじめに

和宮銅像実写版

和宮銅像の実写版
(増上寺安国殿で撮影した銅像をベースに実写化。お顔は明治の美女、朝吹磯子にしました)

 明治10年9月2日午後5時頃、箱根湯本、塔ノ沢の環翠楼において、皇女和宮(静寬院宮)は31歳の若さで薨去されます。その死因は脚気に起因する心不全とされています。

 これが、管理人が皇女和宮の謎を追う中で妙に引っかかっていた部分です。

 和宮は突然亡くなった分けではなく、前々日には重篤な容体に陥っていたと思われます。明治10年9月1日付け讀賣新聞と東京日日新聞に、『箱根へ御滞留の静寬院宮は御病気の御様子にて、宮内省より山岡大書記官がお見舞いにまゐられます。』という記事が載っています。つまり、8月31日の時点で、和宮の容体がかなり悪化していたことが分かります。

 明治10年9月1日 東京日日新聞記事

「静寬院宮は箱根塔の澤の湯にて御養生中なるが、御病症は脚気にて近ごろ追追重らせ玉ふよし。去る31日の夜急報ありしとて宮内省より、山岡大書記官、伊東二等侍醫、池田三等侍醫、ほかに属官3、4名を引き連れ御見舞として一昨日出立せられたり。」

 この時期、8月29日に宮内省改革があり、9月1日付けで山岡大書記官が宮内省庶務内廷課長に就任することになっていました。

 また、東京日日新聞、9月1日付けで、「伊勢神宮へ奉幣使として橋本式部権助は本日東京を出立せられ、陸路東海道を経て、途中、箱根宮ノ下に立ち寄り、即今同所にて御養生あらせらる静寬院宮の御機嫌を伺るると承はれり。」というの記事があります。

 この橋本式部権助とは、橋本実梁(さねやな)のことでしょう。父親は橋本実麗(さねあきら)で、和宮の母親、橋本経子とは兄弟の関係にあります。つまり、橋本実梁と和宮はいとこ同士の関係です。

 和宮との関係でみれば、江戸城総攻撃の際に和宮が手紙を送った相手です。「1月15日、慶喜は天璋院の仲介で和宮に面会、隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を願ったが、和宮は謝罪の件のみを引受けた。和宮は天璋院と相談して、征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王には土御門藤子を、東海道鎮撫総督・橋本実梁には上臈・玉島をそれぞれ歎願の使者として差し向けることにした。」(Wikipedia、「和宮親子内親王」)

脚気で亡くなった家茂の最後の状況

 和宮の夫で14代将軍の家茂。彼も脚気で亡くなったとされています。

 その時の状況とはどのようだったのでしょうか。和宮と同じ病で亡くなっているので、家茂の死の間際は和宮の最期の状況と似ていたのではないでしょうか。

 そこで、記録が比較的残っている家茂の薨去までの状況を追ってみましょう。

 当時の将軍に出されるご飯は、米を一粒一粒吟味して、ヌカを徹底的に洗い落としてから炊いていました。当然、ビタミンB1がすべて取り除かれてしまいます。これが脚気発症の主因になっているようです。

 慶応元年5月16日(1865年6月9日)、家茂は、第二次長州征伐総攬のため江戸出発します。5月22日(1865年7月14日)、入洛・参内し、長州征伐の趣意書を朝廷に提出します。3度目の上洛でした。

 二日後の5月24日(1865年7月16日)、大坂城に入り長州征伐の大本営とします。

 ところが、6月に入ると、足の腫れ、むくみなどの症状が出て、次いで全身倦怠感や手足のしびれなど脚気特有の症状に見舞われることになります。

 7月9日(1866年8月18日)、和宮は家茂病気の報を受け取ります。

 7月16日(1866年 8月25日)、和宮と天璋院が急派した奥医師、大膳亮弘玄院・多紀安琢(養春院)・遠田澄庵・高島祐庵・浅田宗伯が大阪城に到着し治療にあたりました。

 しかし、真夏の暑さが脚気を悪化させ、さらに、見舞品の甘味もそれに追い打ちをかけることになります。無頼の甘党である家茂のもとには、羊羹、カステラや金平糖などが次々と届けられました。

 糖分はビタミンB1の消費を促し、脚気を悪化させることにつながりました。

 家茂の墓の発掘によって、彼には30本の虫歯があったことが確認されました。成人の歯の数は親知らずを含めて32本なので、ほぼすべての歯が虫歯に冒されていました。このときあった虫歯がもとで、咽頭炎などの感染症があると、発熱が起こり、発熱は脚気を悪化させてしまう。

 家茂は、江戸医学所頭取の松本良順(外科医)をとても信頼しており、松本は家茂が薨去するまでの約3週間、松本良順は、つきっきりで家茂の看護に当たることになります。有名な家茂と同じ布団で寝たのはこの時です。

 家茂の最期の状況は、病床でうわごとを言ったり、錯乱状態になったようです。死ぬ間際の錯乱の原因は、ウエルニッケ脳症であったと推察できるようです。重症の脚気が脳にまで及ぶと、錯乱症状が見られるとか。

(この部分の記述は、武将たちの病を研究されている若林医院院長 若林利光氏による)

1.いったい、何があったのか?

 当時、和宮は1877年(明治10年)8月7日に箱根塔ノ沢を訪れ療養中でした。地元の人たちを招き歌会をするなど、病状は快方に向かっていたと考えられていました。ところが、9月2日に急逝します。

 上で示したように、当時の新聞報道を辿れば、8月31日に和宮の容体が悪化したことが東京の宮内省に伝わっていたことが分かります。

 宮内省内での静寬院宮担当者は『静寛院華頂宮家政取締役』。静寬院宮と華頂宮をお世話する役職がありました。この『華頂宮』とは、和宮ともゆかりの深い宮家です。ちなみに、当時は『宮内庁』ではなく『宮内省』でした。

 華頂宮博経親王は、万延元年(1860年)8月、徳川家茂の猶子になっています。つまり、和宮の子供。そして、同日、和宮の兄、孝明天皇の猶子にもなっています。天皇の猶子になった理由は、親王宣下をもって親王とする慣習があったためです。皇族あるいは天皇の子供であっても親王宣下を受けないと親王にはなれません。

華頂宮博経親王

         華頂宮博経親王

 ちなみに、和宮の場合、降嫁に先立ち、文久元年(1861)4月19日、内親王宣下を受け、諱を親子(ちかこ)と賜っています。和宮直筆の【静寛院宮御詠草』には「親子」の署名が巻毎にされています。和宮は、成人した後も幼称「和宮」と呼ばれることを好んだことから、広く和宮と称されています。逆に「親子」という記述はほとんど見かけません。なにしろ、フリガナがなければ「おやこ」と読んでしまうので、内親王などを付けたりして誤読を避け、「親子」単独で使われることはないようです。

 華頂宮博経親王の正室は南部郁子。郁子の妹が南部麻子。明治7年に南部麻子は八戸南部氏第10代当主南部栄信と結婚。南部麻子が住んでいた麻布の旧八戸南部藩上屋敷を買い上げ、移り住んだのが京都から東京に戻った晩年の和宮でした。

 極めつけは、下の写真です。南部郁子・麻子姉妹の父親、南部利剛と「和宮」といわれる女性の写真。二人が座っているのは同じ椅子です。しかも、この白い飾り紐の付いた特殊な椅子は他の古写真では見ることはできません。

南部家とのつながり

 この和宮といわれている被写体は、実は和宮ではなく、「柳澤明子」です。大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申(やすのぶ)の正室で、公卿左大臣一条忠香(ただか)の次女です。そして、明治天皇皇后・昭憲皇太后の姉にあたる方です。この写真は清水東谷写真館で撮影されたものです。

 この写真は、和宮ではないのですが、最後の将軍慶喜の後、徳川宗家を継いだ徳川家達( いえさと)が和宮と見間違うくらい柳澤明子と和宮はお顔が似ていたと管理人は考えています。何しろ、この写真は、箱根・阿弥陀寺だけでなく、徳川宗家にも和宮の写真として保存されているのですから。(関心のある方は過去記事『皇女和宮の写真の真偽を確認する』をご覧下さい。)

 和宮が亡くなった時、喪主である徳川宗家を嗣いだ徳川家達は14歳で、英国に留学中でした。

 家達が日本を発ったのは1877年6月11日で和宮薨去の3ヶ月前のことでした。その後家達は、イギリスのイートンカレッジで学び、1882年(明治15年)10月19日に帰朝します。

 和宮の写真とされる根拠にもなっている箱根阿弥陀寺に寄進されたこの写真。寄進者の祖母が昭憲皇太后に仕えた女官長高倉壽子(当時88歳、1840-1930)に和宮本人の写真であると確認したのが1928年1月27日のこと。この典侍高倉壽子は、和宮の葬儀に皇后宮の御名代として参列しています(当時37歳)。

 徳川宗家を嗣いだ家達はこの時(1928年)、64歳で健在でした。家達は和宮に何度も会っている人です。それなのに、この写真は徳川宗家に、「第九六號 静寛院宮御寫真」と墨で書かれた紙と共に保管されていました。当然、家達は、写真は和宮本人のものだと認識していたことになります。

 でも、実際には違いました。写真は、間違いなく柳澤明子です。なぜ、高倉壽子だけでなく、家達までもが写真を和宮だと見誤ったのでしょうか。

 これは、当時のお化粧が影響しているように思います。徳川家達が見間違うのも納得がいきます。そもそも、当時の女性は厚化粧でお顔がよく分からない。例えば、鍋島直正の長女、松平慈貞院(健子・貢姫)の写真を見ると、とてもきれいな方のようですが、化粧していない素顔を想像できそうにありません。

松平慈貞院(健子・貢姫)color

 さらに、和宮と柳澤明子は同い年です。二人は姿形がとても似ていたのでしょう。だから、和宮をよく知る二人とも見誤った。逆の見方をすれば、この写真は、『当時の和宮の面影を色濃く映し出した柳澤明子の写真』と捉えることもできます。つまり、この写真は和宮ではありません。それで終わり。ではなく、和宮の容姿がうかがえる貴重な写真であるということです。

 もう一つ、興味深い情報を提供しましょう。家茂・和宮夫妻と柳澤保申・明子夫妻の誕生日です。

 この謎に関わる二組のペアが全員、弘化3年生まれです。

  • 和宮      弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)
  • 家茂     弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)
  • 柳澤明子  弘化3年10月23日(1846年12月11日)
  • 柳澤保申  弘化3年3月26日(1846年4月21日) (Wiki記述とは1日違う)

 いかがでしょうか。華頂宮家、そして、南部家との関わりが尋常ではないと感じるのは管理人だけでしょうか。この辺は、別の記事で書いているので関心のある方はそちらをお読み下さい。

 話を戻します。

 新聞報道に記載された、お見舞いのため和宮薨去の前日に塔ノ沢を訪れた宮内省の『静寛院華頂宮家政取締役』を努めた山岡大書記官とは、山岡鉄舟(1836年7月23日-1888年7月19日)のことです。

 
 幕末・維新の混乱期に和宮の身辺警護を任せられる人物として朝廷の信頼を得ていたのが、江戸城無血開城の直接的立役者である勝海舟と大久保一翁、そして、山岡鉄舟。人格者である山岡鉄舟に心酔している方も多いようです。

 その山岡が塔ノ沢環翠楼を訪ねたのは、明治10年9月1日のこと。そして、翌9月2日午後5時頃、和宮は薨去されました。山岡は、環翠楼か近くの宿で一泊し、翌日に東京に戻ったと考えられます。そして、和宮薨去の訃報を聞くことになる。

2.和宮の死因についての疑問

 管理人は、和宮の死因について以前から疑問を持っていました。

 大部分の人は心臓が止まって死ぬ。その結果、直接の死因は「心不全」となる。心不全は病名ではないと言うことです。そんなの当たり前じゃないか、と思われますが、そうではないケースもあります。例えば、首を切り落とされた場合。心臓は動いていてもその人は死んでいますよね。

 和宮の死因は「脚気衝心(かっけしょうしん)」と言われています。これは、脚気に伴い心臓機能の低下・不全(衝心)を併発したときに呼ばれる症状です。

 しかし、和宮は激しい下痢に襲われていました。脚気で下痢の症状は出るのでしょうか。

 調べてみると、脚気が原因で下痢になるようです。しかし、激しい下痢というのが引っかかる。

 そもそも脚気は「江戸患い」とも呼ばれ、江戸を離れれば病状は改善する。食生活が変わるからです。和宮の場合も快方に向かっていたようです。それが急に脚気衝心で亡くなるということに違和感を覚えました。和宮の本当の死因は別なのではないだろうか。

 和宮がなぜ箱根塔ノ沢で療養することになったのか。これは、麻布のお屋敷で、和宮付の女官が脚気で亡くなったことが理由のようです。脚気の原因が分からない中、「江戸患い」である脚気の治療には、江戸を離れ、転地療法することが最も効果的だと考えられたようです。

 通常、これで死因の推理は終わるのですが、管理人が和宮の謎の解明として新たな記事を書くことになった理由は、別にあります。

3.和宮の葬儀への出席者があり得ない!

 和宮の葬儀は、9月13日に増上寺で行われ、その後、家茂のお墓の横に埋葬されます。

 和宮の葬儀の様子についてはネット上にはありません。唯一あるのは当サイトの記事だけです(『明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く』)。この記事は、当時の新聞報道を調べて記載したものです。

 その記事を書いている時に奇妙なことに気づきました。

 和宮の葬儀に参列した人たちが、「ありえない!」メンバーたちだったということ。

 それは、「名代」「御名代」を立て「御代拜(拝)(ごだいはい)」している人の多さ。高貴な方は誰も葬儀に参列していないという事実です。 

【葬儀参列者】(明治10年9月14日付け 葬儀翌日の讀賣新聞より抜粋)

  • 主上の御名代は徳大寺公
  • 皇大后宮の御名代は権典侍西洞院成子
  • 皇后宮の御名代は、典侍高倉壽子(ひさこ)
  • 桂宮(かつらのみや)様の御名代は、三上命婦 (みょうぶ)
  • 二位の御局の御名代も命婦
  • 北白川宮の御名代は畑中正景(はたなかせいけい)
  • 東伏見宮の( ひがしふしみのみや)の御名代は谷岡之助
  • 山階宮(やましなのみや)の御名代は金谷忠章
  • 喪主徳川家達君の名代は松平確堂君
  • 天璋院さまと徳川慶喜君と同君の奥方の名代は一色能一

  なんでも保管庫『明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く

 「御代拜(拝)(ごだいはい)」とは、「代理人が祭祀を代行すること」。つまり、皇太后、徳川慶喜、天璋院篤姫などご本人は出席せず、代わりの者が拝礼したということです。高貴な方々はほとんどが「御代拝」。これにはとても違和感を覚えました。
 最初は、高貴な方は葬儀に出席しないのが当時の慣わしかと思ったのですが、どうもこれはおかしい。

 このことが心の隅にずっと引っかかっていました。まるで、汚れ物を避けるかのような行動のように感じます。

4.和宮の死因に迫る!

 もしかして、「和宮のご遺体は病原菌に汚染されていたのでは?」。

 ふと、こんな考えが浮かびました。

 和宮の本当の死因は、別の病気だったのではないか。そして、その病気故に、高貴な方々は感染を恐れ、葬儀への参列を辞退し、名代を立てたのではないのか。それを知らない外部の人たちは本人が参列した。

 そのように考えた理由は、吉益亮子の情報が全く見つからないことと関係があります。明治維新に米国に派遣された5名の女子留学生の最年長者である吉益亮子は、眼病を患い、1年足らずで帰国することになります。そして、1886年秋、コレラにより亡くなっています。ところが、それ以外の情報が全く見つからない。亡くなった日付けも場所も、お墓の場所さえもわからない。当時の新聞を調べたのですが、見つけることができない。1886年のコレラによる死亡者の数があまりにも多いというのが理由のひとつだと思います。

 吉益亮子の死亡時の情報がない。埋葬の記録が見つからない。

 これって、和宮の場合と似ている。

 そこで、次のような仮説を立ててみました。

 当時、恐れられていた疫病とは、コレラ(虎列剌)。発病後数時間で死に至る場合もあり、罹患者の致死率は60~70%。原因が分からず、当時、とても恐れられていた伝染病でした。発病三日目には簡単にコロリと死んでしまうことから「三日コロリ」とも呼ばれ、とても恐れられていました。このような状況から、迷信や偏見などにより罹患者は迫害を受けることもありました。このため、この病で亡くなった場合は、それを隠匿するということもあったのではないでしょうか。

 感染経路が「経口」、「接触」、「空気」なのかも分からない状況では、庶民がパニックに陥ることは容易に想像できます。コレラで亡くなった人の葬儀への参列など怖くてできません。空気感染への懸念もあったわけですから。ドイツ細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見されたのは1884年のこと。和宮が亡くなってから7年後のことです。

 では、和宮薨去の年、すなわち、1877年9月、コレラは日本で発生していたのでしょうか。

 実はこの年、19年ぶりにコレラが大発生していました。まさに、和宮が亡くなった明治10年9月に横浜で発生し、全国に広がった、との記述もあります。

 定説では、明治10年(1877)のコレラは、9月6日、横浜で確認されたコレラ患者が最初とされているようです。この年のコレラ感染経路は三つあり、コレラ患者の発生は、横浜経路、長崎経路が9月6日、軍隊系統が9月中旬とされています。

 「横浜の初発患者は九月五日、居留地三番館米国製茶会社(ウォルシュ・ホール)の従業員二名であった。病源はアモイから輸入した物品がコレラに伝染していたためと推測される。横浜毎日新聞によれば、上記の初発患者は間もなく死亡、さらに同業者13人が発病、原因は同館の便所のそばの汚染された水を飲んだためと見られ、ただちに水の使用を禁じたと報じられている」(神奈川のコレラ)[7]

 もし、これが正しければ、9月2日に薨去された和宮の死因がコレラであるという仮説は成立しません。しかし、定説と言われる話ほど疑ってかかる必要があります。

 実はその前月、8月27日に内務省から「虎列刺(コレラ)病予防法心得」が公布されています。

 この通達は、検疫についての権限、隔離病棟の設置、患者の隔離、死亡患者の埋葬許可規定などとても厳しい内容になっています。さらに、病菌に汚染された物品の授与などの禁止、患者・汚染物の扱い、死体のむやみな移動禁止などの規定が設けられています。

 前掲書には、次のように書かれています。

 「ここで注意すべきことは、明治十年八月二十七日、内務省達乙第七九号で「虎列刺(コレラ)予防法心得」が発せられていることである。(中略)内務省達の出た八月二十七日はこの年のコレラ初発患者の出るほんの数日前であったことが注目される。日本では十五年近くもコレラの発生を見なかったが、南アジア、中国などの状況からみて、日本侵入間違いないと見た内務省はかなり突っ込んだ通達を出したのである。(中略)既述の通り、実際の流行を見たのが九月五日なので、これらの記事の掲載は誠に時宜を得たものであった。」(神奈川のコレラ p.8)[7]

 管理人の疑問は、「時宜を得たものであった。」というのは本当かということ。当時の内務省の仕事ぶりからして、時宜を得た行動をしたのは、後にも先にもこの時だけではなかったのか。そうであるならば、「時宜を得たものであった。」という見方自体が誤っているのではないか。内務省は、国内でコレラ患者が発生したとの情報に接し、急遽、通達を出したのではないのか。

 明治10年のコレラは、8月に発生していたのではないか。

「流行虎列刺病予防の心得」橋本直義画、明治10 年(1877 年)

 上の絵からも分かるように、明治10年の段階においても、庶民の間でコレラは「虎狼狸(コロリ)」、つまり、虎、狼、狸が合体したような姿をしていると考えられていた時代です。

 管理人は、この「心得」公布の時期が気になりました。和宮薨去の6日前です。

 コレラの発生は、気温の高い夏が最も危険でしょう。なぜ、秋に入ろうという8月末の公布なのか。

 一般には、お隣清国で7月に発生したコレラの流行状況を踏まえ、急遽取りまとめられたものとされています。
 
 調べてみると、上で書いた『定説』とは違う状況が見えてきます。

 別の資料を見ると、7月時点で大阪でコレラ患者が発生していたようです。(明治10年7月25日付けのクララの日記)

 また、Wikipediaには「西南戦争直後の1877年(明治10年)にも流行し、この年の夏は長崎から関西地方・関東地方に広がって、東京では北品川、市ヶ谷、本所において病院が新しく急造されるほどであった。この夏だけで614人がコレラのために死去している(Wikipedia, “コレラ”)」との記述もあります。

 「ゲールツが横浜司薬場監督時代に日本の防疫行政の基礎をつくったことも忘れられない。明治10年8月、外国船の運んできたコレラ菌が全国的に蔓延し、治療の手立てがないまま次々に患者が亡くなった。」(「くすりの社会史:人物と時事で読む33話」、西川隆、2010、p.21)

 「明治10年の流行は患者一万四千、死者八千余で終息した」[1]

 この後にも10万人以上の患者を出したコレラの流行がたびたび起きています。しかし、明治10年の流行は特別なもので、明治になってから初めての流行でした。

Source: 『医制百年史』資料編、厚生省医務局、1976、p.545

 コレラが蔓延している地域で採れた、あるいはそこから輸入された、コレラ菌で汚染されている食べ物が和宮に献上された。地域にコレラ患者が次第に増加するのではなく、汚染された献上品によって箱根塔ノ沢でピンポイントで発生したコレラ患者。そのようなことがあったのではないか。珍しい献上品のため、それを食べたのは一人だけ。

 もしそうであるとすれば、この「献上品」とは煮炊きをせずに生で食するもの。女性が喜んで食べそうな異国の果物、とくに、バナナあたりが有力な候補でしょうか。コレラと言えば、やはりバナナでしょう。

 この真偽は確認のしようもないのですが、あながち否定もできないように思えます。

 和宮と縁のある要人が和宮の葬儀に誰も参列していないという謎はこれで説明できます。

 和宮の薨去から葬儀・埋葬の記録がほとんど存在しないということも、これで説明できます。

 和宮の葬儀の形式を仏式にするか神式にするかでもめたということもこれで説明できます。神仏分離と廃仏毀釈が盛んに行われていた時代です。宮内省がなぜ神式を採用せず、仏式にすることを容認したのか。通説では和宮の遺言に従ったとされていますが、もしそうなら、最初からもめる必要もない訳です。本当の理由は、「早く埋葬したかったから」ではないでしょうか。

 塔ノ沢から麻布のお屋敷まで和宮のご遺体を搬送する時、一泊した藤澤の遊行寺のことが記録から抹消されていることも説明できます。

 神式で行った場合、和宮は、豊島岡墓地に埋葬されることになったと考えられます。

 和宮薨去の4年前、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が死産した際には、東京市周辺に墓所及び葬送儀式を行う広い面積を持つ場所が必要となり、明治政府が複数の候補地の中から護国寺の一角にある現在の豊島岡墓地を選定し、1873年(明治6年)9月22日に「豊島ヶ岡御陵」と命名されています。本来であれば、和宮はここに埋葬されることになったと思います。

 豊島岡墓地入口。この門が開くことはほとんどない。2016.11.6撮影

5.謎の短歌に隠された暗号

 最後に、環翠楼の当時の楼主で塔ノ沢村の戸長でもあった中田暢平が残した歌。

 この旅館は和宮終焉の「環翠楼」として有名ですが、当時は「元湯 中田暢平旅館」と言いました。現在の環翠楼は大正8年に建てられた木造4階建の建物です。オーナーも中田暢平とは他人です。和宮・篤姫が泊まった部屋「早川」は、当然、現在はありません。「環翠楼」という名前は、明治23年に伊藤博文が命名したとされています。このため、和宮がここに滞在していた当時は「環翠楼」などなかったことになりますが、混乱を避けるため、本記事では当時の旅館も「環翠楼」という呼び方をします。

 明治10年9月11日の東京日日新聞を読むと、宮内省は、和宮が環翠楼滞留中に用意していた道具類をお金とともに中田暢平に贈呈しています。現在、環翠楼に残るわずかばかりの和宮ゆかりの品物はこのようにして取得したことが分かりました。旅館に大変な迷惑をかけた代償ということでしょう。現在の環翠楼のオーナーも知らない話ですね。

 明治16年(1883)、この歌は、静寛院宮が身罷られた後、環翠楼当主中田暢平が和宮追慕のあまり七回忌の折りに詠んだもので、勝海舟が筆を執った「静寛院宮に奉る歌」として碑に残されています。

『行人過橋』

月影の
かかるはしとも
しらすして
よをいとやすく
ゆく人やたれ

 『月影の 架かる橋とも 知らずして 世をいと(た)やすく ゆく人や誰』

 この歌の意味は、実際よく分かりません。いろいろな解釈ができるので。

 ここで、この歌のお題『行人過橋』に着目します。塔ノ沢、行人過橋といえば『西遊日記』でしょう。執筆者は『福田行誡(ぎょうかい)』。伝通寺、増上寺を歴住し、浄土宗東部管長となり、和宮が亡くなった明治10年に浄土宗管長となった方です。そして、明治12年、73歳の時、増上寺の住職となりました。

 『西遊日記』は『行誡上人全集』で読むことができます。

 その日記の中に、福田が箱根塔ノ沢で環翠楼に宿泊し、『行人過橋』というお題で詠んだ次の歌が掲載されています。日記の中に「和宮」や「環翠楼」という名前は出てきませんが、前後の文から宿泊場所が環翠楼であり、和宮薨去の部屋でお念仏を称えたことが分かります。

 この日記が書かれたのは辰の年となっているので、明治13年ではないかと思います。次の辰の年には福田はこの世にいないので。明治13年1月31日、福田は塔ノ沢に到着します。福田が和宮が眠る増上寺の住職になったのはその前年のこと。和宮薨去から2年半しか経っていない環翠楼での描写は貴重です。

 『其のころのしつくはいまもしたたりて ぬらす岩ねのこけのころも手』

 『何にしかもかけわたすらむ丸木橋 ゆきて歸(帰)らぬひともある世に』

 管理人には、この歌は『虎狼狸(コロリ)、虎狼狸(コロリ)』と詠っているように聞こえます。

 上述の明治16年の和宮七回忌に田中暢平が詠んだ歌とされるものは、明治13年の福田行誡の歌を意識して詠んだのではないでしょうか。あるいは、明治13年に福田行誡を迎え環翠楼で開催された歌会で、福田と共に詠んだ歌を明治16年に公開したという気もします。

 『和宮様の七回忌の法要が、明治16年旅館「元湯 (環翠楼)」で行われ、増上寺からは立譽大教正福田行誡が78歳の老躯をおして参列され、導師をつとめられました。』(阿弥陀寺の歴史)

 えっ、ここでも福田行誡が再登場しています。

 すると、『西遊日記』の塔ノ沢の記述が気になります。日記には、和宮の名前も旅館の名前も一切出てこず、分かる人には分かるという書き方になっています。この一連の歌には別の意味が隠されている。そんな気がします。というか、これだけ条件が揃えば、『陰符(暗号)』が隠されていると考えるのが妥当でしょう。そして、その内容とは、「和宮の死にまつわること」。

 該当部分のページ

 

Source: 『行誡上人全集』、福田行誡、梶宝順、1906、p.153

 この明治13年にはもう一人、重要人物が環翠楼を訪れています。天璋院篤姫です。

 1880(明治13)年9月23日、天璋院は生涯ではじめて旅行します。千駄ヶ谷の徳川宗家を出て新橋から鉄道利用で横浜に赴き、東海道を人力車を利用して江ノ島に参詣、小田原に一泊、熱海に10月28日まで一月近く滞在しました。10月28日に熱海を出発し、箱根芦ノ湖を巡り、宮ノ下に2泊した後、小田原に向かう途中、塔ノ沢の環翠楼を訪問しています。亡き静寛院宮に涙し、和宮の面影を偲んで次の和歌を詠みました。(「熱海箱根湯治日記」)

「君かよわひ(齢)とどめかねたる早川の水のながれもうらめしきかな」。

 和宮の葬儀にも出席しないで何を今さら!

 慶喜は生涯、和宮の命日には増上寺にお参りしていたと慶喜の九男の妻が述べています(『和宮』辻ミチ子、ミネルヴァ書房、2008、p.167)。

 和宮の葬儀にも出席しないで何を今さら!

 この謎は今回の仮説が正しければ、解けていると思います。

 いかがでしたか。今回の記事。和宮にまつわるこんな謎があったのかと驚いた方もいると思います。楽しんで頂けたら幸いです。

明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く』にも書きました。ちょっと覗いてみてはいかがでしょうか。

6.暗号の解読

 暗号の解読をしてみます。(結論から書くと、現時点で、解読できていません。)

 和歌の下二句を暗号キーとする伝統的な暗号作成手法が用いられていると仮定し、その解読をやってみます。以前、この方式の暗号を解読するEXCELプログラムを作成、公開したのですが、今回は、その方法では対応できないのでプログラムを改造する必要があります。

 中田暢平氏の歌を暗号文と見立て、解読を試みたのですがうまくいきません。むしろ、福田行誡の歌の方が謎めいています。「こ・ろ・り」の文字がすべて入っているので。 

 キーが違うのか? 悩ましい。もしかして、キーは篤姫の歌か?

おわりに

 和宮の晩年を調べる中で、心の隅に残っていたいくつかの疑問点を洗い出し、その謎を解くための様々な仮説を考えて見ました。

 今回の記事を書くきっかけとなったのは、1886年にコレラで亡くなった吉益亮子の死亡日時を調べるため、当時の新聞を閲覧していた時のこと。新聞のどこにも吉益亮子についての記述は見当たりません。葬儀についての広告、訃報欄を期待したのですが、見つかりません。

 それもそのはず。毎日、数百人規模でコレラによる死亡者が出ていました。これでは、訃報欄はコレラ死亡者で埋まってしまう。そもそも、訃報欄は皇族・高官しか載らないし、訃報告知のための「死亡広告」(「黒枠広告」)の数も極端に少ない。

 コレラによる死亡患者の数が火葬場の処理能力を上回り、さらに埋葬方法自体も厳しく制限されているため、大変な状況だったことが分かりました。

 そして、流言飛語が飛び交う状況下、コレラに罹患すると周囲から迫害を受けることもあったようです。当時コレラで亡くなった場合、埋葬制限によりまともな葬式もできなかったと考えられます。だから、いくら探しても吉益亮子についての情報が見つからない。死亡、埋葬の記録が見つからない。

 ふと、同じような感覚に囚われた記憶が蘇りました。そう、和宮のケースと同じです。

 まさか、和宮がコレラで亡くなった? そんなはずない。そう思って調べ始めたら、なんと、1877年に19年ぶりにコレラが大発生していたことが判明。

 でも、和宮の薨去は9月2日だし、1877年のコレラの発生は横浜で9月6日だから、これは違う。

 そう思ったのですが、どうもこの定説自体が間違っている可能性があることがだんだん分かってきました。要は、資料がたくさん残っている横浜の記録をベースにして、この時のコレラの最初の患者は横浜で9月6日に発生! というストーリーでつじつまを合わせているらしいことが分かってきました。

 開港している港が限られていた江戸時代の知識を明治19年に当てはめたお粗末な定説。当時、開港している港はたくさんあり、どこからでも病気は入ってくる。現に、7月には関西で発生していたとの記述も見つけました。

 すると、和宮がコレラで亡くなったという可能性もゼロとは言えない。

 「あれ? もしそうなら、和宮の葬儀参列者の謎も解けるじゃん」

 「えっ! 和宮が裸体で埋葬された謎も・・・・解ける・・」

 「お棺の中の多量の石灰の謎も・・・解ける・・」

 「篤姫の不可解な行動の謎も解ける

 「えっ、えっ、えっ。 埋葬時の謎がみんな解ける」

 最初は単なる思いつきであり、そんなはずないよ、という思いが98%くらいあったのですが、次第に、数々の謎を説明できる仮説になるのでは、という気がしてきました。

 こんな感じで、この記事を執筆することになりました。

 一度終了した和宮の謎の解明を新たに書き始めたのはこのような経緯がありました。

 短歌の中に暗号は本当に隠されているのか。暗号解読は闇雲にやってできるものではありません。

 少し時間をかけて考えて見たいと思います。

 田中、福田の和宮に対する追慕の情は相当のものだと感じました。追慕の情は、天寿を全うした人に対しては発生しない感情のように思います。そんな彼らが残したいのは、和宮の本当の死因だったのではないでしょうか。

 「和宮様は脚気なんかで亡くなられたのではない。突然の疫病で亡くなられたのだ。どんなに口惜しく思われたことであろうか。それを思うと泪が止まらぬ。真実を公表することは憚られるが、せめて、我々の手で、本当のことを後世に伝えていくことこそ、今の我々にできることではないのか。」

 和歌の暗号にたどり着いた(かもしれない)管理人としては、こんな二人の会話をイメージしています。すると、暗号を解くための暗号キーとなる和歌は何か? これが問題になります。

【参考】

1.「病者への否定的な眼差し ―巣鴨病院と駒込病院を事例に―」、小泉博明、p.314

2.『行誡上人全集』、福田行誡、梶宝順、1906

3.『虎列刺(コレラ)病予防法心得』、内務省、1877

4.阿弥陀寺の歴史

5.『勝海舟の嫁 クララの明治日記』、クララ ホイットニー、 一又民子訳 、中公文庫、1996

6.『神奈川のコレラ』、大滝紀雄、大滝紀雄、日本医史学雑誌 第38巻第1号、1992、p.7

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