和宮の写真として柳沢明子の写真が誤って使われ続けられている不思議

ディープ・プロファイリング

 先日もテレビで和宮のことをやっていました。そのときに気になったのが、和宮ではない別人の写真を「和宮として」番組に使っていること。

 和宮とされた写真は、大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申(やすのぶ)の正室「柳澤明子」です。

 このことを指摘したのが、古写真研究家の森重和雄氏です。森重氏は、『歴史通』(2011年7月号)の「古写真探偵 皇女和宮の真実」という記事で、明治35年2月発行の雑誌『太陽』の口絵「物故諸名士」に、『和宮とされる写真』と同じものが掲載されていたことを明らかにしました。

 なお、森重によれば、このことは明治初期軍装蒐集・勲章研究の第一人者である平山晋(すすむ)氏が森重氏に和宮の写真ではないのではないかとの疑問を投げかけたことから研究を行うことになった由。

 この柳沢明子さんは、公卿左大臣一条忠香(ただか)の次女(弘化3年10月23日生まれ、明治35年1月8日死去、58歳)で、明治天皇の皇后(旧名:一条美子)の姉にあたる方であることから、当時の時代背景を考えれば、写真の取り違えなど起こるはずもないことです。

 雑誌『太陽』は、雑誌発行の前月に亡くなった柳澤明子さんの写真を「物故諸名士」として口絵に掲載しました。写真は、柳澤家から入手したものと考えられます。・・・というか、柳沢家の方から進んで写真を提供したということでしょう。

 この写真の真偽については、過去記事『皇女和宮の写真の真偽を確認する』に詳しく書いてありますので、関心のある方はご覧ください。

 森重氏の記事が公表されたのは2011年のこと。今から7年も前のことです。それなのに、テレビでは柳澤明子さんの写真が和宮の写真として使われ続けています。NHKの番組でも同様です。他人の写真を放送で使えば放送事故です。テレビ局各社はどういうつもりなのでしょうか。「誤報道、みんなでやれば怖くない!」 テレビ局の機動力があれば、柳沢家で写真を確認すればすむこと。

 管理人は、上の過去記事で、和宮と柳澤明子さんの容姿がとても似ていたのではないかと推理しています。徳川家達が見間違えるほどに(詳しくは過去記事参照)。森重さんは、小坂善太郎元外相の祖母繁子さんの日記で、この写真を和宮だと確認した高倉寿子を「昭憲皇后(明治天皇の皇后)」の女官と書かれていますが、彼女はただの女官ではありません。高倉寿子(1840-1930)は昭憲皇后の女官長を務め、和宮の葬儀にも皇后の名代として参列しています。(和宮の葬儀についての当時の新聞記事を国会図書館で閲覧していた時に見つけました。)

 長年、和宮の写真とされてきた柳澤明子さんの写真は、高画質のものがなく、お顔がよく分からないのですが、今回、高解像度版を作ってみました。実は、和宮と柳澤明子さんの血筋を遡って調べたのですが、赤の他人でした。しかし、容姿は似ているのだと思います。

 和宮に似ているとされる柳澤明子さんの画像を修復してみました。和宮のお顔もこれに近かったのではないかと思います。

皇女和宮

 繰り返しますが、和宮の写真は、現時点で一枚も見つかっていません。

 本サイトにおける和宮関連の記事はたくさんあり過ぎて、管理人でさえ、どこに何を書いたのか覚えていない(笑)。
 右サイドバーのカテゴリーリストの『皇女和宮の謎』で一連の記事を閲覧できます。