北極海にこつ然と消えた二隻の英国軍艦 フランクリン探検隊の謎を追う

 2017年1月23日放送の『世界まる見え!テレビ特捜部』で、『フランクリン探検隊』失踪のナゾについてやっていました。同番組では、過去にこの謎について誤った報道をして謝罪をおこなったといういわく付きのナゾです。今回は、どうなのでしょうか(笑)。

 「2004年1月に放映された「甦るミイラ伝説」の中で、1845年、フランクリン探検隊がアルミの缶詰に含まれる鉛の大量摂取により死亡した可能性があると放送した。しかし当時アルミ缶は存在しておらず、鉛中毒を引き起こすようなアルミ缶は存在しないことが判明し、翌週のエンディング後にお詫びの放送を行った。」(Wikipedia,「世界まる見え!テレビ特捜部」

 この番組は、過去のニュースを、あたかも最近”判明”したかのように報じる、というイカサマをよくやるのですが、”アルミ缶の鉛?”も、いつものように”判明して”、初めて分かったようです。なかなか笑えるテレビ局ですが、番組としては楽しく見ました。

 この記事では、最新情報を交えて、(イカサマ)番組の中で語られなかったことなども書いていきたいと思います。

フランクリン遠征隊の謎とは

 1845年5月19日、イギリスのテムズ川下流の港グリーンヒザ(Greenhithe)を二隻の軍艦が出港しました。船の名は、エレバス号(HMS Erebus)とテラー号(HMS Terror)。船名の前についている「HMS」とは「英国軍艦: His(or Her) Majesty Ship」の略です。

 この航海の目的は、ヨーロッパとアジアを結ぶカナダ北極諸島を経由した新たな『北西航路(Northwest Passage)』を開拓することでした。

 この遠征隊を指揮したのは、海軍大佐のジョン・フランクリン卿(Sir John Franklin)で、彼の名を取り「フランクリン遠征(Franklin’s expedition)」と呼ばれました。しかし、グリーンヒザ港を出帆した二隻の軍艦は、二度とイギリスの港に戻ってくることはなかったのです。129名の乗組員と共にこつ然と消えてしまいました。

 この二隻の軍艦は、1845年7月28日、グリーンランド近くのバフィン湾(Baffin Bay)に停泊行しているところを、近くを通った捕鯨船団に確認されたのを最後に消息を絶ちました。どこに行ってしまったのか。船と乗組員はどうなったのか、なぜ、消息を絶ったのか、など、イギリス、そして、軍艦が失踪した海域を管轄するカナダにとって、長年のナゾでした。170年前に現実に起こったミステリーです!

 ところが、このナゾが解き明かされたのです!

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北西航路と北極海航路とは

 ヨーロッパからアジアに北極海を経由して渡るルートとして、北西航路(Northwest Passage)と北極海航路の二つがあります。前者は、北アメリカ大陸の北方を通って大西洋と太平洋を結ぶ航路であり、フランクリン遠征が開拓しようとしたルートでした。これに対し、北極海航路は、ユーラシア大陸北方(ロシア・シベリア沖)の北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路です。

 この二つのルートは、一年のほとんどの期間氷に閉ざされるため、現実には航行するのは極めて困難でした。19世紀に航行に成功した例は数えるほどしかありません。しかし、現在では、地球温暖化の影響で、北氷洋の氷が溶け、夏の短い期間だけ航行することができるようです。

 下の画像の緑色のラインが、フランクリン卿が開拓しようとした航路になります。

 イギリス政府はそれまでにも数回の北極地域の探査を陸と海から行っており、残された空白部分を埋めるためのルートの確認がフランクリン隊の使命でした。カナダは1763年にイギリス領になっており、イギリス政府にとってカナダ北方の国境確定のためにも極地探検は重要でした。

 適当な画像がないので作りました。グリーンランドの下側が、フランクリン隊が最後に確認されたバフィン湾です。

Source: Google Earthをベースに管理人が作成

二隻の軍艦はどのような船だったのか

 この探検航海に使われた二隻の軍艦はどんなものだったのか。まず、これから見ていきましょう。

 二隻とも、艦首に装備した臼砲を主兵装とする三本のマストを備えた木造帆走蒸気軍艦(臼砲艦)でした。1813年に進水したテラー号は、全長31.09m、貨物の積載量が325トン(B.O.M)、総乗員数67人。もう一隻のエレバス号は、1826年に進水、全長32m、貨物の積載量が372トン(B.O.M)、総乗員数はテラー号と同じ67人でした。[1]
 日本の遠洋まぐろ漁船は、全長47m~50m、漁獲量180~300t、航海日数300~700日、乗組員数は25~30人なので、現代の遠洋まぐろ漁船よりも一回り小さな戦艦だったことが分かります。

 この二隻の軍艦は、南極探査船として改造され、船体は鉄板で外装が施されました。南極探査で大きな成果を上げた両船は、北氷洋に投入されることになります。

 旗艦エレバス号を率いるのはフランクリン卿、そして、僚船テラー号はフランシス・クロージャー(Francis Crozier)が船長を務めました。

 船は氷に閉じこめられ、身動きができない状態の中で、1847年6月に探検隊の指揮官フランクリン卿が死亡し、その後、テラー号船長のクロージャーが指揮をとることになります。そして、悲劇の死の行軍により、遠征隊員129人全員が死亡するという悲惨な結末を迎えることになります。

 これは、クロージャー船長の判断ミスだったのでしょうか?

 順を追って、そこに至る経緯を見ていきましょう。

 後で出てきますが、フランクリン探検隊が出発した年から8年後に、アメリカ合衆国のペリー提督に率いられた黒船船団が浦賀に現れます。この時の蒸気船は3隻でした。すべて帆船としても航行可能な機帆船です。これらの黒船と比べても、エルバス号とテラー号がいかに小さな船だったのかが分かります。

所属

船名

進水年

全長

全幅

総トン数(英トン)

総乗員

英国

エレバス号

1826

32m

8.84m

315

67

英国

テラー号

1813

31.08m

8.23m

325

67

米国

ポータハイン号

1850

77.32m

14m

2415

米国

サスケハナ号

1850

78.3m

13.7m

2450

米国

ミシシッピ号

1842

70m

12m

3230

食料・石炭ストックのナゾ

 エレバス号とテラー号には、約3年分の保存食・缶詰のストックがあったようです。でも、これって変だと思いませんか?
 上で、わざわざ二隻の船の仕様を調べた理由がここにあります。

 3年分の食料って、狭い船の中に、どうやって保管するんだろう? その重さは? 容積は? 船に乗せられる大きさなの?

 現地補給できるのは、水くらい。氷山を溶かせば飲料水を確保できます。これは大洋を航海する探査船とは違い、局地探査船に付与されたメリットです。

 しかし、食料の問題は深刻です。
 大洋を航海する船であれば、魚を釣ったり、近くの島に寄港して食糧を補給することも可能です。しかし、局地探査では、氷が厚すぎて、魚を釣ることは不可能でしょう。他の食料として、野生動物を狩る方法も考えられますが、もし狩りができたとしても、隊員129名全員の胃袋を満たすことなどできません。やはり、持参した保存食を食べるしかなさそうです。

 船に積み込んだ食料は分かっているようです。
 「この旅は約3年続くと予想されていたため、船には136,000ポンド以上の小麦粉、3,684ガロンの高品質のアルコール、そして33,000ポンドの缶詰の肉、スープと野菜を積み込んだ」(Wikipedia)

 これをキログラムに直すと、61トン以上の小麦粉、16,578リットルの高品質のアルコール、そして15トンの缶詰の肉、スープと野菜を積み込んだ」ということになります。

 缶詰を1食あたり1缶食べるとすると、129名の乗組員のために必要な缶詰の数は、3年間で42万個となります。Wikipediaによれば、8,000個の缶詰が大急ぎで作られたと書かれています。もし、積み込んだ缶詰の総数量が8,000缶であったとすれば、一人当たり62缶になります。

 1846年1月1日、テラー号の乗員に最初の犠牲者が出ます。John Torringtonという名の船員で、当時20歳の若者でした。彼の遺体は、ビーチー島(Beechey Island)東海岸に埋葬されます。それから3日後の1月4日、今度はエレバス号から二人目の犠牲者が出ました。John Hartnell、25歳です。さらに3ヶ月後の4月3日、エレバス号で三人目の犠牲者William Braineが亡くなりました。32歳でした。彼ら三人の遺体はビーチー島に埋葬されます。

Franklins-3Crews Image Credit: Kristina Gehrmann illustration

 1851年に、彼らの墓地が捜索隊により発見されました。その後、墓地のことは忘れられてしまいますが、1976年に再発見されます。1984年に発掘調査が行われ、完全に冷凍保存された三人のミイラ化した遺体が見つかりました。検死解剖の結果、三人の遺体からはかなり髙濃度の鉛が検出されました。このため、彼らの直接的な死因は鉛中毒であると判定されました。

 この鉛は、缶詰の密閉に使われたハンダから溶出したものと考えられています。

 ビーチー島で亡くなった三人は皆若者ばかりです。しかも、イギリスを出てから227 日目で最初の犠牲者が出ています。保存食である缶詰に手を付けるのは他の食料がなくなってからと考えられるので、缶詰を食べて鉛中毒に罹り死亡するには早すぎるように思います。

 もう一つ気がかりなのが燃料です。二隻の船は機帆船で、帆を使ったり蒸気エンジンを使って進むこともできるハイブリッドタイプの軍艦です。当時の蒸気エンジン(レシプロエンジン)は燃焼効率が悪く、大量の石炭を必要としました。

 黒船来航で、ペリー提督率いる蒸気船3隻を含む船団が浦賀に姿を現したのは1853年のこと。フランクリン探検隊が北極航路探査に出発したのが1845年なので、黒船来航よりも8年も前のことになります。1846年には皇女和宮が誕生します。日本ではそんな時代でした。

 そもそもペリーが日本に開港を迫った理由の一つが蒸気船の燃料補給でした。石炭の確保です。

 浦賀に来航したペリーの船団のうち、蒸気船は三隻でした。ペリーが乗った旗艦ポータハイン号、ペリーがアメリカの港を出港したときに乗っていたサスケハナ号、そして、ミシシッピ号。これらはいずれも外輪を持った蒸気船でした。しかし、当時の蒸気船の運航には、大量の石炭が必要でした。たとえば、ミシシッピ号には一週間分の石炭しか積むことができませんでした。このため、蒸気の力だけで太平洋を渡ることはできず、途中に補給地が必要でした。

 話をフランクリン探検隊に戻しましょう。エレバス号とテラー号はどのくらいの石炭を積んでいたのでしょうか。ペリーの時代の蒸気船よりも20~30年前の船です。英国海軍がスクリュープロペラを採用するのは1846年以降なので、エレバス号とテラー号の推進装置がスクリューでないことは確かです。蒸気機関を使って高速で航行できたようですが、その推進装置が何だったのかは分かりません。南氷洋や北氷洋を外輪船が航行できるとは思えないし、・・・。

 そう思って調べていたら、意外な落とし穴が。英国海軍のスクリュー推進装置を持つ艦船リストの中にエレバス号とテラー号が載っていました。[3]  どうやら、この二隻は、当初帆船として建造されたものの、フランクリン探検隊出発の前年あたりに、スクリュー式蒸気船に改造されたようです。

 ちなみに、エレバス号とテラー号が積むことができた石炭は、わずか12日間分でした。このため、石炭は暖房用に用いられたのだと思います。しかし、量が足りない気がします。

 この探検隊の失敗の要因は、とても小さな船二隻に129人もの乗組員が乗船していたことで、食料と燃料が枯渇したことにあるのではないでしょうか。大型蒸気船を造り上げた設計者ブルネルは、「船に積める燃料などの容積は船の長さの3乗に比例し、必要な燃料は船の2乗に比例する」という理論を持っていました。つまり、蒸気機関は小さな船ほどは効率が悪かったのです。

 この理論で計算すると、エレバス号に積める石炭の量は92トン程度だったのではないかと思います。[11] そもそもこの船に積める荷物の重量は315トンに過ぎません。

 3年分の食料を準備し、当時としては優れた装備を備えた最新鋭の軍艦。そんなイメージで見ていたのですが、実態は、かなり違っていたように思います。蒸気船としては非効率な小型船であったため、大量の石炭を積んでも12日しか蒸気機関を使えなかったこと、帆船操作のために67名ものクルーを乗船させる必要があったこと、そのために必要な食料は、現実には3年分は積み込めなかったように思います。

 このため、両船は、多量の石炭と食料を積み込むために、大砲類はすべて取り外した測量船だったのではないでしょうか。

 これらのことから、管理人は、このミッションの失敗は、船の大きさに原因があったのではないかと考えています。

消えた軍艦の捜索

 1848年になって、行方不明になった二隻の軍艦の捜索が始まります。しかし、二隻の軍艦の足取りはようとして不明でした。

 1854年、北極探検家ジョン・レー(John Rae)が驚くべき情報をもたらしました。

 彼は、現地の先住民イヌイットと出会い、イヌイットがキング・ウィリアム島で見つけたとされるフランクリン隊が残した遺物を取引で入手することに成功しました。それらの大部分はボタンや用具類でした。そのとき、乗組員同士で人食いが行われたという話をイヌイットから聞きました。イヌイットたちがその様に考えた根拠については不明です。

 フランクリン探検隊は、それまでに北極に送り出された探検隊と比べ、当時としては最高レベルの装備を持った調査隊でした。それ故、フランクリン探検隊の消失事故は、イギリス政府にとって信じられないものでした。

 捜索を通じて、次第にフランクリン探検隊の足取りが判明します。

 1845年、最初の冬、3人の乗組員が死に、ランカスター・サウンドのビーチー島(Beechey Island in Lancaster Sound)に埋葬されました。

 1846年夏に、彼らはキング・ウィリアム島(King William Island)に向け南下しました。そこで、彼らは氷の中で足止めされることとなります。

 1859年の捜索隊フランシス・レオポルド・マックリントックとW・ホブソン(Francis Leopold McClintock and William Hobson)は、この島に築かれた石塚の中から、乗組員が残したメモを発見しました。このメモは海軍の標準的な記録でした。しかし、そのメモには、最初の標準海軍記録が書かれてから9ヵ月後に書かれた本文を修正する走り書きが残されていました。この修正文には、1848年4月22日に船の放棄することがかかれ、そして、非常に短い文章でジョン・フランクリン卿が死亡したこと、23人のクルーも死亡したことが書かれていました。この短いメモ書きは、しばしば、「最後の記録」として引用されますが、残念なことに、その時発生していた最悪なこととは何だったのかは書かれていません。また、船を放棄した場所の座標が書かれていました。「北緯69度37分42秒、西経98度41分」です。この座標をGoogle Mapで表示するとキング・ウィリアム島の北西の突端あたりになり、どの収集でもこの位置が船の放棄位置として示されています。

 1848年のイギリス海軍の座標がGoogele Mapで使えるのですから、さすがはイギリスという気がします。1884年に開催された第1回国際子午線会議(ワシントン)で、多くの海図を出版していたイギリス案が認められ、ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線に決められたことに起因しています。

 残された乗組員が船を捨てたのは、ロンドンの近くのグリーンヒザ港を出港してから1069日目(2年11ヶ月3日)のことでした。船を捨てた理由は明らかです。食料が尽きたのです。夏まで待つことができなかったのです。

ranklin-Root-map   Image Credit: Canadian Geografic

彼らは船を放棄し、どこへ向かったのか

 残されたメモには、カナダ本土の”Back River”を目指すと書かれているようです。我々が推測できる唯一のことは、残されたクルーたちが船を放棄し、ハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company)の前哨基地(outpost)を目指し南に向かっただろうということです。

 ハドソン湾会社は、毛皮交易のため1670年に設立された英国の国策会社で、良質な毛皮を求め現カナダ北部に手広く展開していたようです。クルーたちは、闇雲に歩き始めたのではなく、ハドソン湾会社の前哨基地”Back River”を目指したのだろうと考えられているようです。

 ”Back River”の位置は、軍艦を放棄した場所から直線距離で340kmです。実際の距離は、Google Earthで計測すると410km位になりそうです。
 
 下の画像で黄色のラインは、残された隊員たちが彷徨したルートです。このルートに沿って遺骨が散らばっていました。黄色のラインの最後の部分で、最後の隊員が息絶えます。青のラインは、最後の隊員が歩めなかった部分です。

 黄色のラインを見ると、海岸沿いに歩いていることが分かります。海の部分は平坦な氷で覆われていたのではなく、かなりの高低差があったことから、比較的平坦な海岸沿いのルートをとったことが分かります。

 それにしても、距離があり過ぎ。まさに死の彷徨です。

Image: Google Earthをベースに作成

 南に向け出発した彼らは、この前哨基地にたどり着くことはありませんでした。数年後、地元のイヌイットと捜索隊によってキング・ウィリアム島の岸に沿って散らばる隊員たちの遺骨が発見されました。

 最近の研究で、これらの遺骨には人肉食いが起こったかも知れないことを示すナイフの跡が見つかっています。狩猟民族で、動物解体の専門家でもあるイヌイットの考察が正しかったことが証明された形になったようです。

ジョン・フランクリン卿の遺体はどこにあるのか

 当初、ジョン・フランクリン卿の遺体はエレブス号の中ではないかと考えられました。船を捨てるほどの逼迫した状況の中で、お墓を造ったとは考えにくかったのです。つまり、エレブス号全体がフランクリン卿のお墓ではないのか。

 キング・ウィリアム島の石塚に残されるメモは、彼が1847年6月11日に死んだという記述から始まります。そには、彼の遺体がどこに埋葬されるかについては書かれていなかったので、彼の遺骸はそのまま船に残されたのではないかと考えられました。しかし、それはあり得るのでしょうか。

 1869年に捜索者C・F・ホール(Charles Francis Hall)に対するインタビューにおいて、彼は次のように語りました。

 イヌイットのハンターたちは、金属の道具を探すため遺棄された船の中に入りました。そこで、一人の巨漢の死人が船の中に残されているのを見つけたと話しました。

 それは、J・フランクリン卿の遺骸だったのでしょうか。

消えた二隻の軍艦がついに発見される!

 1848年4月に放棄された二隻の軍艦はその後どうなったのか。イギリス政府とカナダ政府にとって大きなナゾとして残りました。この船を捜索している理由のひとつは、フランクリン探検隊が全滅した理由が船の中に残されているのではないか、と考えたからです。

 本格的な探索が行われた結果、2014年9月2日に、深さ12mの海底からエルバス号が発見されました。

 そして、昨年、2016年9月12日に、The Arctic Research Foundationの調査チームが、深さ24mの海底でテラー号を発見しました。

 二隻の軍艦が見つかった位置を地名で書いても誰も分かりません。現地の詳細な地図が入手できないので、一般の人にとって、地名で書かれても何の役にも立ちません。そこで、沈没船の位置図を作ってみました。クリックすると拡大できます。

 Image: なんでも保管庫

 エレバス号もテラー号も放棄された場所とは全く違うところに沈んでいました。これでは見つからないわけです。

 昨年見つかったテラー号は、ほぼ原形を留めており、ほとんどの窓にはガラスが残っており、圧搾空気を送り込めば浮上するのではないかと思えるほどの保存状態のようです。調査は始まったばかりで、情報はほとんどありません。今後の調査の進展が楽しみです。

     発見されたテラー号の操舵室

 エルバス号とテラー号を発見した”Arctic Research Foundation”は2012年に設立された民間の非営利団体ですが、ほとんど情報を発信していない。HPを見ると、トップページだけしかなく、まるで詐欺師グループのHPのような印象を受けます。どうも、いろいろ利権が絡む事案のようです。CNNの報道もとても中途半端で、まるで報道規制でもあるかのように基本情報さえ伝えない。「世界丸見え・・」でも中途半端な伝え方でした。この”Arctic Research Foundation”はちょっとうさんくさい団体なのかも知れません。このため、この組織名をあえて日本語訳していません。今回の記事を執筆していて、かなり勉強になったのですが、いまいち後味の良くない記事になってしまいました。

 今回はイギリス艦船の失踪にまつわる記事でしたが、日本でも、今から64年前に調査に出たまま、未だに戻ってきていない船があります。海上保安庁の海洋観測船「第五海洋丸」です。

 この船は、1952年9月24日、明神礁の噴火を観測中に大爆発に巻き込まれたと考えられていますが、真相は未だに分かっていません。醤油樽、木箱、ブイ、船体の一部が発見されたので沈没したのは間違いありません。

 なぜ、爆発に巻き込まれたのかがナゾとして残っています。第五海洋丸は噴火している明神礁から離れ、一定距離を確保していたはずです。

 観測していた場所が、ベヨネーズ列岩と明神礁との中間地点で、観測中にその真下で発生した別の海底噴火の直撃を受けたとする説もあるようです。乗組員31名は全員死亡とされています。

 『明神礁に消えた”第五海洋丸”のなぞ』が解明される日が来ると良いのですが。

【出典】
1. B.O.M:ビルダーズ・オールド・メジャメント( Builder’s Old Measurement)。イギリスで1720年から1849年まで使用されていた全長と全幅から船の積載量を計算する推定法である。
2. Wikipedia, “Franklin’s lost expedition
3. Wikipedia, “HMS Terror (1813)
4. Wikipedia, “HMS Erebus (1826)
5. Wikipedia, “Francis Crozier
6. “OTTAWA CITIZEN, Has second ship in Franklin Expedition been found?“, September 12, 2016
7. CNN, “HMS Terror: Franklin expedition ‘ghost ship’ found on Arctic sea bed“,September 15, 2016
8.‘PERFORMANCE OF SCREW STEAM VESSELS IN HER MAJESTY’S NAVY., Table II.’,“A treatise on the screw propeller: with various suggestions of improvement”, John Bourne, 1852
9. 日本製缶協会HP
10. http://www.rom.on.ca/en/blog/the-ongoing-mystery-of-the-franklin-expedition
11. 1837年にロンドンで建造された蒸気船シリウス号(SS Sirius (1837))は、全長54.4m、幅7.8m、乗客40名、乗組員36名という仕様で、450トンの石炭を積み込んだという記録があります。これを元にエレバス号の石炭積み込み可能量を算出すると、92トン程度であったと考えられます。

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