コティングリー妖精写真の謎を追う!

ミステリー

はじめに

 『コティングリー妖精事件』についてご存じでしょうか。今からちょうど百年前に発生した妖精激写にまつわる事件です。2017年、この事件が発生してから100周年を迎えます。

 20世紀初頭のイギリスで、二人の少女たちによって撮影された妖精の写真。不思議好きの人ならば見たことがある写真だと思います。

コティングリー妖精事件

 ところが、この写真は、ねつ造されたものであることが明らかとなります。写真を撮影した少女たちが、年老いて死ぬ間際になって、この写真はねつ造したものであると白状したのです。

 なぁ~んだ。解決済みか。と思ったら、そう簡単には解決しないところがこの妖精写真なのです。
 撮影者がねつ造を告白! これですべて解決!

 でも、本当に解決したのでしょうか。実は、この写真は謎だらけなのです。

 わずかばかりの情報で、すべてが分かったような気になってしまう。

 彼女たちが、なぜ、カメラを持っていたのですか?

 それを現像したのは誰ですか?

 なぜ、きれいに撮影できたのですか?

 なぜ、この写真を長年、偽物と判別できなかったのですか?

 なぜ、コナン・ドイルまでだまされてしまったのですか?

 彼女の親たちはどう考えたのですか?

 彼女たちが使ったとされる絵本の原本は、本当に見つかっているのですか?

 なぜ、彼女たちは嘘を言ったのですか?

 妖精写真は偽物だと紹介するサイトでも、たったこれだけの疑問にさえ答えずに偽物説を吹聴しています。

 少女たちが最後まで偽造と認めなかった写真とは?

 無駄に詳しく謎を掘り下げるのがこのサイトの特徴です(笑)。

 では、謎に満ちた妖精の世界に旅立ちましょう!

コティングリー妖精写真とは

 謎を追うにあたり、いつものように『通説』から見ていきましょう。

 コティングリー妖精事件(The Case of the Cottingley Fairies)は、イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー村に住む2人の従姉妹フランシス・グリフィス(1907年9月4日 – 1986年7月11日)とエルシー・ライト(1901年7月10日 – 1988年4月)が撮ったという妖精の写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動のことをいう。この写真は2人による捏造であった。Wikipedia, 「コティングリー妖精事件」

 なるほど、「コティングリー」とは、村の名前だったのですね。

 以降、具体的に見ていきましょう。

 まず、妖精が撮影された場所です。ブラッドフォード近くのコティングリー村(Cottingley, Bradford)を地図で確認しましょう。

Source: Google Map

 マンチェスターの北東40Kmくらいに位置する村です。以前は西ヨークシャーと呼ばれていた地域で、ここはイングランドです。 それが何か? 実は、イングランドとスコットランドとでは、妖精が違います。

 次に、妖精を撮影した二人の少女についてです。二人はいとこ同士の関係にあります。

 彼女たちは、数年間かけて合計5枚の妖精写真を撮影していますが、最初に撮影したのが1917年7月です。

 この妖精写真とは下の5枚の画像です。写真の撮影時期を明示しているのはこのサイトだけでしょう。


Source: Wikipedia “Cottingley Fairies” より作成

左上から右、下に。
1.1917年7月撮影 フランシスと4体の妖精
2.1917年8月撮影 エルシーと妖精グノーム
3.1920年8月撮影 フランシスと1体の妖精
4.1920年8月撮影 エルシーと1体の妖精
5.1920年8月撮影 最後に撮影された写真。左右に2人の妖精と中央の不明な物体

エルシー・ライト

☆ エルシー・ライト(Elsie Wright Hill、1901年7月10日 – 1988年3月、満86歳)。26 Greaves Street, Bradfordで生まれる。(生年月日について、1901年7月19日と紹介しているサイトもあります。)

 エルシーが4歳の時、家族と共にカナダに引っ越しましたが、4年後にコティングリーに戻りました。1926年にエルシーはアメリカに移住し、そこで将来の夫であるフランクヒルに会いました。結婚後、彼らはフランクがエンジニアとして働いていたインドに移り、最終的に1949年にイギリスに戻りました。エルシーは1988年3月にノッティンガム(Nottingham)で亡くなりました。

 エルシーは妖精写真が最初に撮影された1917年7月当時、16歳です。撮影時期は、服装から夏と思ったのですが、1917年7月に撮影されたものだと分かりました。16歳になったばかりの頃と推察できます。

 当時のエルシーの写真が残されています。少し色を付けてみました。なかなかカワイイお嬢さんです。


    Elsie Wright、15歳頃

フランシス・グリフィス

☆ フランシス・グリフィス(Frances Griffiths、1907年9月4日 – 1986年7月11日、満78歳)
 フランシスは、この時、9歳だったようです。でも、もうすぐ10歳。

 下の写真は、10歳のフランシスと思われます。

 二人の少女は、もっと小さな女の子たちかと思っていたのですが、意外に年長でした。
 確かに、エルシーは大人びて見えます。日本でいえば中三から高1くらいの年齢です。フランシスも幼女ではなく小学4年生くらいです。

コティングリー妖精写真物語の始まり

 1917年。妖精写真が撮影された年、フランシスと彼女の母親アニーは南アフリカからイギリスに戻ったばかりでした。フランシスの父親アーサー(Arthur)は軍人で、この時はフランスで従軍していました。エルシーの母親ポリー(Polly Wright)とフランシスの母親アニー(Annie Griffiths)は姉妹。この縁で、この母娘はエルシーの家でいっしょに暮らすことになります。 この姉妹、なかなかの美人さんです。


  エルシーとフランシスの母親ポリーとアニー

 時は第一次世界大戦の終盤。イギリスは、1914年8月4日にドイツに宣戦布告し参戦していました。900万人以上の兵士が戦死した悲惨な戦争でした。イギリスの戦死者は90万8000人(総人口の2%)。

 1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、Uボートによる無制限潜水艦作戦を敢行し、イギリスに大打撃を与えました。翌年、戦争が終結するなどとはだれも予想だにしていませんでした。そんな時代だったのです。

 そして、この年(1917年)の7月。二人の少女が妖精写真を撮影したことを両親に伝えます。

 エルシーとフランシスは、庭の低地を流れるコティングリー渓谷(Cottingley beck)の小川の傍で毎日遊んでいました。そこは、狂ってしまった世界の中で唯一癒やされる小さな天国でした。しかし、たとえそこが平和だったとしても、村の大部分の家族は、男たちの出兵により離ればなれの生活をしていました。

 7月のある日、彼女たちが、ずぶ濡れの足、泥だらけで木の葉を体中にくっつけた恰好で家に帰ってきました。
 「どうしたの? その恰好は」と尋ねる母親たちに、娘たちはこう応えました。

 「妖精のあとを追いかけていたのよ」

 もちろん、大人たちは彼女たちの言葉を信じません。子供の遊びだと思ったのです。
 ところが、彼女たちは「妖精は本当にいる」と言い張ります。

 それほど言うのならと、アマチュアカメラマンをしていたエルシーの父親アーサー・ライト(Arthur Wright, 1865-1926)が旧式のカメラ(Midg Quarter Plate)を娘に貸しました。

 このカメラで妖精の写真をとってごらん! 父親は、カメラを設定し、娘たちに使い方を教えました。ちなみに、アーサーはこの時52歳です。

 このカメラは、乾板を使うとてもシンプルな構造で、それゆえ、偽造写真など簡単に撮れるものではありません。それから30分ほどして、少女たちは家に戻ってきました。顔に勝利を確信した満面の笑みを浮かべて。

 アーサーは、興奮している娘たちを見て、カメラを暗室に運び現像に取りかかります。
 そして、焼き付けた写真の中に、信じられない”何か”を見つけることになります。

 そこには、滝の近くの林の茂みの中にいるフランシスが写っています。しかし、彼女の周りには、ダンスをしている羽の生えた4人の妖精も写っていたのです。

 彼は驚きました。しかし、すぐに、彼は写真を退けて、それが偽物だと決めつけました。それから二ヵ月あまり後、エルシーは再び父親からカメラを借ります。その時に撮したのが、芝生に座るエルシーが1フィートの身長のグノームに手を伸ばしている写真でした。1917年に撮影された写真はこの二枚です。

 後になって、もう3枚の写真が撮られましたが、アーサーは信じませんでした。これ以降、娘にカメラを貸すのをやめてしまいます。しかし、彼の妻は信じました。

 フランシスは、この写真を1918年11月9日、南アフリカに住む彼女の友人ヨハンナ・パルビン(Johanna Parvin)に送りました。そこから、この妖精写真が世界に拡散していくことになります。この時のフランシスの手紙は、妖精がいるのが当たり前という感じで、送った写真に対する驚きはありません。彼女にとって妖精は身近な存在だったことを窺い知ることができます。[3]

 1919年に、エルシーとフランシスの母親は、ブラッドフォードで開催された神智学協会(the Theosophical Society)の会合に出席しました。そこで、『妖精と他の神話の生き物たち(fairies and other mystical figures)』というテーマで話をしました。

 すぐに、会合に出席した女性メンバーたちは彼女の話を信じ始めました。そして、この件は当時高名な小説家であったアーサー・コナン・ドイルの関心を惹くことになります。コナン・ドイルは、当時、英国スピリチュアリスト協会( Spiritualist Association of Great Britain, SAGB)の主要メンバーであり、神智学に対し強い関心を寄せていました。コナン・ドイルがこの写真のことを知ったのは1920年5月と自著に書いています。[5]

 しかし、それが本当に動き出したのは、協会の幹部の一人エドワード・ガードナー(Edward Gardner)がさらにそれを調べることに決めた時でした。多くの報道を経て、この物語は一人歩きを始めることになります。

 すぐに、数千人の人々がコティングリーに押しかけ、そして、この驚くべきコティングリーの妖精を彼ら自身の目で見ることを望みました。しかし、彼らにより森が踏み荒らされ、混乱が引き起こされたことから、まもなく、少女たちの家族と地元の村民は、もう騒ぎは十分であるとして、騒動を抑え、この物語は終わりを迎えることになります。1921年頃のことです。

 しかし、実際には彼らの関心は終わっていなかったのです。長い年月の後、2人の少女たちは結婚し、この村を去りました。外国に住んだようです。彼女たちが年老いて、そして、引退したあとになっても、彼女らはリポーターたちによって探し出されました。1976年に、ジェームズ・ランディによって、写真が偽物であることが暴かれます。彼女たちは、写真が偽物であることを告白しました。

 彼女たちは、雑誌から妖精を切り取り、翼を書き加え、カードボードに貼り付け、ピンで固定したと白状しました。しかし、彼女たちは最後まで、写真は偽造したけれど妖精をみたのは事実です。森の妖精は本当に存在し、フランシスが撮影した最後に写した写真は本物ですと主張し続けました。

 この5枚目の写真が他の4枚と大きく異なっている点は、写っている妖精が半透明になっていることです。これは二重露出によるものと推測されていますが、真偽は不明です。

 彼女たちが写真を偽装しようとした理由は、妖精の存在を信じており、そして、それらが実在するということを証明するためでした。妖精は大人たちの目には見えなかったのです。自分たちには見えているのに、大人たちには見えない。このジレンマから偽装写真をつくることになったようです。

 エルシーは5枚の写真すべてが偽造されたものと認めましたが、フランシスは4枚の写真の偽造を認めたものの、最後の写真だけは本物であると主張し続けました。これって本当に、本物かも? 後で、この最後の写真を詳細に見ていくことにします。

 コナン・ドイルは、エルシー及び彼女の父親に、自分の記事の中で妖精写真を掲載する許可を求める手紙を書きました。エルシーの父親は、この申し出を許諾しますが、金銭の授受は拒否します。もし、写真が本物だとしたら、お金で妖精が汚れてはいけない、と考えたからでした。

 エルシーの父親アーサーは、もとより妖精写真を信じていませんでした。騒ぎが起きる前、イラストを切り抜いたと考えたアーサーは、家の中を探しましたが、撮影に使われたとされるイラストも、切り抜いたとされる雑誌も見つけることができなかったのです。

カメラの謎

 少女たちが妖精を撮影したとされるカメラはどのようなものだったのでしょうか。

 時は20世紀初頭。カメラがどこの家庭にでもある現代とは違います。少女たちはどのようなカメラで妖精を撮影したのでしょうか。また、なぜ、当時貴重だったカメラを使って撮影することができたのでしょうか。

 実は、このカメラは保存されています。
 妖精写真の地元ブラッドフォードにある国立メディア博物館(The National Media Museum, Bradford)のコダックギャラリーに展示されています。

国立メディア博物館収蔵の妖精を撮影したカメラ


国立メディア博物館収蔵の妖精を撮影したカメラ

 1917年に、最初に撮影したカメラは、アマチュア写真家だったエルシーの父親から借りた “W Butcher & Sons”の「ミゼット」のクォータープレートカメラ(上の写真の左側のカメラ)。クォータープレートとは、イギリスの写真フィルムのサイズで、手札判(クオータープレート3¼ インチ × 4¼ インチ、80mm × 105mm)です。

 そして、1918年から1920年にかけて妖精の撮影に使われたのが、同じく”W Butcher & Sons”製の「Cameo Camera」(上の写真の右側のカメラ)。最後の3枚をこれで撮影したようです。

 最初の写真は、乾板で撮影されたもの。この写真の原板は、なんと日本にあります。宇都宮市にある「うつのみや妖精ミュージアム」に収蔵されています。

 アメリカのイーストマン・コダック社がロールフィルムを発売したのは1888年のこと。しかし、1917年当時もイギリスで乾板が使われていたことが分かります。

 なぜ、少女たちは当時のカメラで写真を撮ることが出来たのでしょうか。エルシーの父親がアマチュア写真家だったことと、エルシーがブラッドフォードのマニンガム・レーンにある写真店で数ヶ月アルバイトをしていたことが関係しているようです。

 最初に撮影された写真は1枚だけです。この時のエルシーにはカメラに新しい乾板をセットすることができなかったのではないでしょうか。また、当時の乾板はとても高価なものだったようです。このため、カメラにセットされている乾板1枚だけで撮影しました。一発勝負です。

 カメラは、木箱にレンズが付いたような構造をしています。たぶん、前蓋を手前に倒すと、蛇腹式のカメラが出てくる構造になっていると思います。エルシーは、カメラを地面にセットし、フランシスが動いて写真がぶれないように肘で頭を支えるようなポーズで撮影したと考えられます。

 そして、妖精たちも協力して、シャッターが降りるまで微動だにせず静止したままの状態を保ちました(笑)。残念ながら、背景の滝の水は止めることができないので、ぼけてしまっています。シャッタースピードが遅かったことが分かります。実は、この時のカメラの絞りとシャッタースピードも分かっています(後で出てきます)。

撮影日を特定する

 1920年に撮影されたとされる3枚の妖精写真。これは具体的に何月何日に撮影されたものなのでしょうか。

 撮影月は8月であること。曜日は土曜日であること。19日までは撮影に適した天候ではなかったことが分かっています。エルシーによれば、彼ら(妖精たち)は明るく晴れたときにのみ登場するそうです。コナン・ドイルによれば、この妖精たちは”fine-weather elves”というらしい。

 この条件に合致するのは、1920年8月21日、または、8月28日となります。
 撮影日を特定するために、当時の気象データを調べてみます。

 写真撮影場所近くの気象観測所はイギリスのブラッドフォードにあります(1908年開設)。そこの1920年の気象データを調べたのですが、残念ながら、月単位のデータしかなく、日にちを特定できませんでした。日本ならば簡単に調べられるのに。


  Bradford station, august, 1920, UK climate – Historic station data

うつのみや妖精ミュージアム

 当時、妖精写真を撮影した少女たちの名前は伏せられていました。
 そして、写真のガラス原板は、コナン・ドイルの手に渡ります。

 その後、このガラス原版は、巡りめぐって日本における妖精学の第一人者である井村君江さんによってコレクションされ、現在、『うつのみや妖精ミュージアム』で常設展示されています。

  Wikipediaの英語版には、「写真のガラス原板は、2001年、ロンドンで開催されたオークションで無名の買い手によって6000ポンドで買われた」と書かれています。英語圏の人たちは、この原版が日本にあるとは知らないようです。

 そのうち『うつのみや妖精ミュージアム』に行って、現物を見たいと思いますが、ネットで探してもいまいち分からなかったので、まずは電話で確認しました。聞きたかったのは『常設展示されているか』ということ。この回答は上で書いたとおりでした。

 展示されているガラス原板は5枚。つまり、すべての写真の原板がここにあるということです。これはスゴい! ワクワクします。

 さらに、撮影したカメラもあるそうです。

 何! カメラはブラッドフォードにある国立メディア博物館に展示されているはずです。どちらが本物か? まあ、どちらかのカメラが同型カメラということでしょう。ちなみに、1920年の撮影の時は、2台のカメラが少女たちに渡されています。でも、『うつのみや妖精ミュージアム』に展示されているのは、1917年に最初に撮影したカメラのようです。

 ここで分かったことがもう一つ。5枚の原版は、すべてガラス原版です。最後の3枚が撮影されたのは1920年8月とされています。ということは、国立メディア博物館に展示されているこれらの写真を撮ったとされる(写真右側の)カメラも乾板を使うタイプということでしょうか。

 ガラス乾板と聞くと、和宮のお墓の中で見つかった唯一の埋葬品を思い出すので力が入ります!

少女たちが偽造に使った雑誌の謎

 少女たちが偽造に使ったとされる雑誌は判明しています。

 事件の3年前、1914年にロンドンで発刊された“A Spell for a Fairy (妖精の魔法、Princess Mary’s Gift Book)”という詩集の104ページに掲載されている Claude A. Shepperson (1867–1921‏)氏の挿絵が使われたとされています。

   Photo Source: Wikipedia “Cottingley Fairies

 妖精写真と本のイラストは確かに似ている。いや、そっくりと思える。だから、これが少女たちが偽装に使ったイラストだ!

 おいおい。ちょっと待ってよ。議論が逆さまなんじゃないの?

 この指摘はとても滑稽です。図案は確かに似ているけれど、本のイラストは『線画』。これに対して妖精写真の偽装イラストは現代のイラストのような描き方で、より立体的に見える。本からイラストを切り抜いて、羽を書き加えたって? それって本当かよ。誰かやってみたの?

 自分で写真偽装をやってみようと考えると、両者のイラストがあまりにも違うということに気づきます。妖精写真のイラストの方がはるかに上手で緻密です。イラストを描いたことのある方なら直ぐに気づくと思いますが、妖精写真のイラストの「手・足」、そして「ヒジのライン」がとてもよく描けています。本のイラストで服に隠れて描かれていない部分もきれいに描かれています。

 当時の挿絵画家よりも上手に妖精を描いたエルシー?

 実は、エルシーは13歳の時、ブラッドフォードの美術学校に入学し、アルバイトで写真館で働いていました。写真についても、絵の素養もあったということが分かります。

本当は妖精写真ではなく、心霊写真だった!?

 世界中でコティングリー妖精写真についての記事が出回っています。
 しかし、これから書くことは、ネット上のどこにも書かれていないこと。

 それは、最後に少女たちが撮した写真には、妖精ではなく、”霊”が写っているのではないか、というもの。
 下の写真が最後に撮影されたとされるもので、二人は最後まで本物だと主張したものです。画像のノイズをできるだけ除去しています。

最後の写真

 世間の注目は、画像の左右に明らかにイラストと分かる2体の妖精と中央に見える繭のような形状のはっきりしない物体。この三点に注目が集まっているようです。

 でも、管理人が着目したのは、全く別の場所です。
 写真をよく見ると不思議なものが写っている。

 画面下には、地面に横たわった小人の顔のようなものが見えます。
 画面右側には、おかっぱ頭の少女とその直ぐ隣に斜めになった少女の顔が見えます。恨めしそうな顔でこちらを見つめています。フェイクの妖精イラストなんかよりこっちの方がとてもリアルです。

 まずいものを見つけてしまったかも・・・・。


  妖精とポケモン「ストライク」

現地に行ってみたいという人のために

 少女たちが妖精を見たという場所は、現在でもあります。100年間も変わらずに渓流が保全されている。さすがはイギリスです。
 もし、イギリス旅行を予定されている方は一度現地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

 とはいっても、具体的に、その場所とはどこだ?

 上のGoogle Earthで林が連なっている部分が『コティングリー渓谷(Cottingley beck)』です。まさに、妖精写真の舞台です。

 Google Earthに当時の地図([7]参照)を重ねたものをアップします。5枚の妖精写真が撮影された位置は、年代順にA~Eで示されています。また、①がエルシーの自宅があった場所です。クリックすると拡大表示できます。

おわりに

 2人はその後、どのような人生を送ったのでしょうか。

 エルシーはいろいろな芸術関連の仕事した後、アメリカに移住。1926年7月28日にメイン州でフランク・ヒル(Frank Hill)と結婚。その後、彼らはインドに移住し、1949年までそこで暮らしました。その後、1947年にインドが独立したこともあり、息子と一緒にイギリスに戻り、生まれ故郷の近くに住みました。

 フランシスは、スカボロー(Scarborough)の学校に入り、生まれ育った南アフリカに戻った後、1928年に軍人シドニー・ウェイ(Sydney Way)と結婚して、結局、イギリスに戻り、ドーバー海峡の町ラムズゲート(Ramsgate)に落ち着くことになります。

 フランシスは、エルシーが亡くなる2年前、1986年7月11日に満78歳で他界しています。ブラッドフォードの墓地 “Scholemoor Cemetery” に埋葬されました。

 エルシーは、フランシスより6歳年上でしたが、1988年4月、満86歳で亡くなっています。死亡の日付けとお墓の場所は確認することが出来ませんでした。

 この事件を調べていくと、子供が遊び心で撮影した妖精写真を、外部のメディアが勝手に採り上げ、執拗に追いかけたという構図が見えてきます。

 もし、コナン・ドイルが関わらなければこれほどの騒ぎにはならなかった筈です。コナン・ドイルがコダック社の写真の専門家に依頼して調べさせた結果、写真は偽造されたものではなく本物だと信じたことから騒ぎが大きくなったわけで、それは二人の少女たちが意図したことではありませんでした。

 1920年の写真を撮影したとき、エルシーはすでに19歳でした。どのような想いで偽造写真を撮影したのか、心が痛みます。などと思っていたら、コナン・ドイルの本には、1921年8月14日から18日にかけてのエルシーの妖精観察記録が書かれています。この時、エルシーは20歳です。

 エルシーが撮影した最初の妖精写真のできばえの良さには驚いてしまいます。父親がカメラ(単焦点レンズ ft4)を F11, 1/50秒にセットして娘に手渡しました。

 このため、当時から、写真の偽造には父親が関与しているのではないかとの憶測があったようです。

 エルシーの描いた妖精の水彩画が残されています。偽造に使われたものではなく、普通の水彩画ですが、やはり絵がうまかったことが分かります。[4]   村のHPを見ると、エルシーは主に水彩画の風景や肖像画を描いたそうで、非常に才能のあるアーティストだったそうです。

 今回の記事では、写真の撮影状況に焦点を絞った記事にしています。その後の写真の真贋騒ぎには興味がないので。コナン・ドイルとの関わりの部分もほとんど書いていません。それは、管理人の関心が、妖精写真はどのように撮影されたのかにあるからです。写真がどのように世の中に広まったかなどどうでもいいこと。

 最後に、「コティングリー妖精写真」の本当の魅力と正しい見方とは、オカルト写真として見るのではなく、子供の心を見る・・・のだそうです。

 心霊写真として見てしまう管理人は、失格ですね。
 最初に撮影されたオリジナルの写真が見つかっています(Brotherton Collection、Leeds University所蔵)。1920年に”The Strand magazine”の記事で紹介されたこのセンセーショナルな写真は、出版社がオリジナルをレタッチ処理して新たに原版を作り直し、きれいに仕上げていることが、1982年になってオリジナル写真の画像解析から判明しました。エルシーが使ったカメラでは、構造上、1920年公表の写真は撮影できないことが判明しました。[6]

 ただ、レタッチで画質が良くなるわけではなく、ブレが消えるわけでもありません。レタッチ処理は妖精の周辺部分に施されているようです。この情報で鬼の首でも取ったようにはしゃいでいる人がいますが、元画像も決して悪くはなかったと、管理人は考えます。

 本サイトの「ミステリー」カテゴリーは、書いていて楽しいのですが、今回は疲れました。最初は、エルシーとフランシスという二人の少女をなんという嘘つき少女だ! と思って書き始めたのですが、調べるうちに、別の世界に迷い込んでしまった気分です。

 「妖精の世界」って、なぞの解明には不適当なカテゴリーなのかも知れません。解明しなくても良い世界がそこにはあるように思います。サンタクロースが年老いて痴呆症になり、年中、プレゼントを配りまくった、というような話を調べてもつまらない。今から99年前の二人の少女たちの夢。この事件は、それで良いように思います。解決すべき謎などないのです。

 コナン・ドイルは最後まで彼女たちの味方でした。妖精は本当に存在する。そう信じた方が多くの人々の心の安らぎになるからです。コナン・ドイルは、また、心霊現象も擁護しました。霊魂が存在すると信じた方が、戦死した家族を持つ遺族の人たちの安らぎになるからです。第一次世界大戦。このことを抜きに妖精事件は語られるべきではありません。イギリス本国だけで90万人の戦死者を出しました。イギリス本国の総人口の2%が戦争で亡くなったことになります。

 最後に、フランシスの容貌について。

 最初の写真に写っているフランシスはそれほど美人には見えませんが、実は、3枚目の写真はフランシスです。エルシーかと思っていたのですが違いました。フランシス一家の写真が残されているのですが、お父さんはイケメンの軍服姿。上で紹介したようにお母さんも美人です。そして、フランシスもやはり美人に成長したようです。

エルシーの墓地

 上で、「エルシーは、フランシスより6歳年上でしたが、1988年4月、満86歳で亡くなっています。死亡の日付けとお墓の場所は確認することが出来ませんでした。」と書いていますが、調べていくと、エルシーのお墓はアメリカにあることが分かりました。夫と同じお墓に入っているので間違いないと思います。ということは、ネット上の情報に誤りがあるようです。

 まず、夫の名前は、「Frank」ではなく、「Francis Hill」。1895年に生まれ、1980年に84歳か85歳で亡くなっています。

 その妻、Elsie Wright Hillは、1901年7月19日に生まれ、1988年に亡くなっています。これはエルシーの情報と一致することから、この情報に間違いないと思います。

 二人が亡くなったのは、アメリカ・メイン州ヨーク郡サンフォード(Sanford, York County, Maine, USA)。埋葬されたのは亡くなった場所サンフォードにあるスプリングベール・リバーサイド墓地(Riverside Cemetery, Springvale, York County, Maine, USA)。墓標にエルシーと夫の名前が刻まれています。 10)

 この場所は夫の生まれ故郷。年老いて夫の生まれ故郷のメイン州に戻り、そこで亡くなったものと思われます。

【出典】
1. 『幻想妖魔旅館』
2. Wikipedia, “Cottingley Fairies
3. http://legendavadasz.blog.hu/2012/05/10/a_cottengley_tunderek
4. エルシーの水彩画 “Watercolour painting by Elsie
5. “The Coming of the Fairies“, Conan Doyle, 1922, e-Book
6. http://anomalyinfo.com/Stories/rest-story-2
7. ”The Yorkshire Journal, 2010”
8. Wikipedia 日本語、英語、フランス語、スペイン語
(最終稿:2016/12/23 4:48)
9. エルシーの死亡年月:Elsie died in Nottingham in March 1988
  SCIENCE MUSEUM GROUP アーカイブ
10. Find a FRAVE, “Elsie Wright Hill